第百八十一話 地獄で貴方を待っていた


―_-◆_+★_*+-【 千里 目線 】-+*_★+_◆-_―

 

 紅音が『母』を呑めば、翡翠の盃は溶けて雫となる。瞼を閉ざした彼女が自身の肩をいだくと、翡翠の雫が爪先から手の甲へと伝って染めていく。交差した両手の甲へ顕現した翡翠の刺青いれずみは……骨の両翼が広がったようにも見えた。緋色の陽炎で焼けたはずの孔雀の尾羽根は花開き、鮮やかなみどりへと蘇る。

 

「無機物のまま、安眠させてはくれなんだ」


 彼岸花の花糸かしの睫毛が、秘匿を解く。生ける宝玉の翡翠のまなこで、『珠翠しゅすい』は目覚めた。切れ長の目の縁を彩る目弾きアイラインは、やはりくれない。林檎飴のように潤う唇は、呆然と立ち尽くす炎陽へと愛想程度に小さく綻んだ。

  

「死にとこの花嫁になった妾が地獄に堕ちても、炎陽を『愛』に狂わせる為に『家族』という至宝を残したのに。お前という奴は、私達ごと業火にべてくれたな。……全ては妾のせいか。死者になるまで、『魅了』に支配されたお前を変えることが出来なかった」


 炎陽が手にした白銀の大太刀は滑り落ちて、がらんどうな音を放った。酔ったように、ふらつく歩みは覚束無い。


「こんなに……呪わしく、祝すべき苦痛があるだろうか」

 

 肺の奥から絞り出されたような、掠れ声は震えていた。炎陽は、珠翠の白真珠のような頬に触れる。精巧なかんばせを苦痛に歪ませた炎陽の緋色の瞳は、潤いに反射した。生死知れぬ紅音むすめの器の内に、珠翠は蘇ったのだ。


「珠翠を喰らうのは……悦びであり生き地獄だった。俺なんぞを生かす為に、『肉』を捧げる程の『愛』は史上の甘露だったから。強烈な快楽の後に待っていたのは、『魅了』から自我を解き放たれ、底無しの喪失感に発狂する自分だった。珠翠を演じる翠音がいなければ、無気力な『生』に再び自我を手放していただろう。だが……娘に半場依存する程に情けなく頼り過ぎていたようだ」

 

「紅音が全てを掛けて蘇らせたからには、妾が炎陽に沙汰を出さねば。本来なら、お前を骨抜きにした妾が地獄へと道連れにすべきだろうが……」


「今すぐ連れて行ってくれないか、同じ地獄に」


 甘えるように懇願する炎陽は、骨翼彫られた珠翠の手の甲へ口付ける。みどりの双眸を細めた、少女の珠翠は惑わしの熱に揺らがない。

 

「断る。それでは、お前に対しての罰にならん。それに……妾の願いが叶わない。生き地獄で炎陽が『父親』らしく『家族』を愛す姿を、骨箱の中から見たかったんだ。器は愛娘に変わったがな。気が向いたら、紅音の中から死者の戯言と逢瀬の褒美をくれてやるから、精々生きて苦しめ。情けない父親として、娘達に愛し憎悪されろ。『死』への命数めいすうなど、異能に侵蝕されるお前が数えるには安易なのだから。妾の手を取り、地獄へ共に堕ちるのは……そう先じゃない」


「なら、娘達が立つ生き地獄で焦がれ続けよう。いつか業火の華開く、眼下の深淵を」


 微笑んだ珠翠の指先は、真っ直ぐに涙伝う炎陽の手の内からすり抜けた。紅の髪靡かせる去り際に、魅了した飼い猫の首筋と唇を撫でていく。

 

 蘇った彼女が尾羽根の翡翠を変幻し、瑠璃が睨む微細構造色に翻せば、皆息を呑む。注視された舞台ステージを迷いなく歩む珠翠は、慈愛の微笑と両手を一人の少女へと向けた。

 

 抱き締められた翠音は惑う。恋敵として憎悪し続けていたはずの母から、愛を求めていたのは翠音の方だったのかもしれない。  


「翠音。……良い子だな。明かすべき時に、妾の遺言を紅音に伝えてくれた」 

 

「母さま。紅音は……」

 

「紅音の意思は消えたわけじゃない。妾の意思と共に『翡翠骨牌ヒスイカルタ』を得た紅音は、『空隙華歌くうげきはなうた』をまだ歌える。喉が焼けなかった自分を、演じればいい。死んだ母親が娘から搾取するのは、僅かな時だけで十分だ」


 珠翠のかいなの内、翠音は涙滲む安堵の後に苦笑した。


「紅音の復讐は未完成ですね。炎陽とうさまを更生させるには、珠翠かあさまでも骨が折れるでしょうから」


 翠音の頭を撫でると、珠翠は再び歩む。微笑した彼女は、私達へ向き合った。


「『咲雪』と『芽衣』の香りを連れてきてくれてありがとう。……おかえり、私の『家族』達」


 珠翠が優しいかいなで抱き締めたのは智太郎だけでは無く、私も含まれていた。紅音の姿なのに、慈愛の温もりは『母』の無償の愛を思わせて……私は少し泣きたくなった。だけど、咲雪に重ねた『母』の面影を自分勝手に追いかけた結果、咲雪を手にかけた自分がここに居る。


「珠翠。私は、歓迎されるべきじゃない。私は咲雪を……」

 

「その言葉の続きは、夢を視た後でも遅くない。『死』を選んだ咲雪の本当の想いを知らないのは、千里も同じなのだろう? 妾にいつか、外の世界の『咲雪』を聞かせて欲しい」 


 私が過去夢で珠翠を覗いたように、あの時に珠翠も私を覗いていたのかもしれない。かいなを解き、翡翠の瞳を細めた彼女は神秘的な微笑で睫毛を伏せた。 


「……良い眠りを」

 

 囁いた炎陽は、身体が傾いだ珠翠を受け止める。手の甲の骨翼の刺青が消失すれば、彼岸花の花糸の睫毛は震え……彼女の覚醒を示す。

 

紅音あかね


 翡翠ジェダイトの瞳は開かれた。重く名を呼んだ炎陽のかいなの中だと気がつくと、頬を染めた紅音はそっぽを向く。幼子の頃の父親への初恋を思い出した娘のようで、少し可愛らしい。


珠翠かあさまの外側の入れ子として死ぬ筈だったのに。生き残るだなんて、かっこわる……」


はらの内の入れ子だった私達を犠牲にする事など、珠翠かあさまは望みませんでした。貴方が憧れた白波の泡沫にはさせません」


 傍に座り込んだ翠音が触れると、荒い息を小さく吐いた紅音は瞳から滲む涙を手の甲で隠した。


「私は、炎陽とうさまを許した訳じゃない。『魅了』の業火から這い上がれたのは、憎悪に生かされたから。幼い頃、『魅了』に狂う前の炎陽とうさまが好きだったからこそ……私達を傷つけた炎陽とうさまが憎いのよ」


「紅音の憎悪が、罪悪感を蘇らせてくれるのならば……炎陽おれは『暖かな生』の実感を手に入れる事が出来るだろう。妖と化した時に失った『人』の良心は、記憶が蘇っても全ては戻らなかった。『魅了』から自我を解放されても、『人』の残滓が刺すゆえに虚ろは一層強まった。根源越しに感じ始めた『咲雪の死』が、弾けたあの時……俺は痛みと向き合うべきだったんだな」


 紅音を優しく下ろした炎陽は立ち上がると、白銀の大太刀を拾い上げる。緋色の陽炎は再燃した。


 ――冷静な炎陽が真っ直ぐに捉えたのは、咲雪を殺めた私だ。

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