第百二十一話 奇妙な再会


 

 己穂わたしは刀を構える。緊張で指先が痺れても、決して手放す事は出来ない。私の後ろには、逃げ遅れた親子が居るのだから。

 昼間だというのに、私達が居る森は木漏れ日を失った暗い陰が落ちる。陰から這いずる気配はいつか千里わたしを喰らおうとした妖にも似て、内側から込み上げる苦い恐怖を嚥下した。大丈夫、今の己穂わたしなら戦える。

 

 ――唯一の光。稲妻を纏う刃の向こう、遂に妖は姿を現す!


 大きな身体を持つ朱殷しゅあん色の妖は、人語を介さない熊のようにも見えた。だが、その本質は纏った妖力から明らかだ。乾いた返り血を化したような朱殷の妖は、地を揺るがす咆哮で私達を圧倒した。図体の割に、地を蹴る四足の疾走が異常に速い!

 

「早く逃げて! 」


 背後の気配、私の声に親子が後ろへ駆け出す!

迫り来る巨大な朱殷の妖に、私は雷鳴と共に稲妻を空より顕現した! 稲妻は朱殷の妖を地へと貫き疾走を阻害……するはずが、巨大な鉤爪が眼前に迫る!

 巨大な鉤爪を刀で受けるが、力の差は歴然だ。朱殷の妖の怪力に投げ飛ばされる! 大木たいぼくに叩きつけられ一瞬息が詰まり、強打した背中からの灼熱の鈍痛に呻く。現人神と呼ばれようとも、この身体はただの人間だ。


 【巨大な朱殷の死の影が、私を覆う】


 絶望を前に千里わたしが想ったのは、智太郎の事だった。妖狩人である智太郎は、いつも眼前の死の恐怖と戦ってきたんだ。いつか地下牢で、智太郎は魂からの叫びで私を貫いたではないか。

 

『俺が戦うのも、守り人になったのも、全部!! お前が理由なんだよ!! 』


 全てをかけて私を守ってくれていたのに、私はその全てを捨ててしまった。失った物は戻らないし、後戻りする事は智太郎の為にはならない。分かっていても、会いたいと願ってしまう自分の愚かさに、私は衝動を破壊するように叫んだ!


「まだ、死にたくない!! 」


 過去夢の内、正しい結末以外で死んだらどうなってしまうのか、私は知らない。もしかしたら、現実では半不死に成りかけている千里わたしは永遠に目覚める事が出来ないかもしれない。だが、ここは己穂の過去夢。彼女の死は今では無いと千里わたしは知っている!

 

 頬を掠める朱殷の鉤爪を前に、己穂わたしは、爽太が生力由来術式を込めた刀を再び構える。

 爽太が刀に金の『稲妻』の術式を込めたのは、己穂と名付けてくれた母の想いを忘れない為だ。雷光が稲を実らせるという信仰は、黄金に広がる田園に感じていた私達家族の安寧に繋がっている!

 

 大木を蹴り、私は金の疾風になる! 朱殷の妖の首を、想いが宿る金の稲妻で刀を一閃させた!


 巨大な朱殷の影は、ずれる。鮮やかな鮮血を連れて、堕ちる頭部の双眸と視線が絡み、私は息を呑む。

 朱殷の妖は恐怖をまなこに湛えていた。人語を介さなくても、確かに私達と同じ感情が宿っていた……。


 頭部を失った朱殷の妖の肉体が大地を叩きつけて倒れると、私は崩れ落ちた。

 

 千里わたしは黒曜の過去夢で、妖が人に連なる存在だと知った。妖は、原初の妖に化した人が結ばれて生まれた子供達だ。言語と人の形を失おうとも、かれらは生まれ方が違えば私達と同じ人間だった……。

 

 ――私は今、『人』を殺したのだ。

 

 これが戦い。命を奪い合うということ。朱殷の妖に与えられた頬の擦傷が、熱を持って酷く傷んだ。胸の奥から込み上げるのが悲しみなのか罪悪感なのかも分からずに、私は涙で視界が歪んでいた。


「ナォゥ? 」

 

 小さな鳴き声がした。私は涙を拭うと、鳴き声の持ち主を探す。杉の影から現れたのは、白い猫だった。すらりとした美しい猫は、鮮血の海を臆する事無く弾いて歩いてくる。座り込んだ私を見上げた双眸は、銀色。

 まるで私を案ずるかのように、気品よく白い尾はくねる。


「こんな所に来ちゃ駄目だよ」


 思わず微笑した私は白い柔毛に手を伸ばしかけ……やめた。己穂わたしの両手は綺麗じゃない。かつての労働に重ねて、刀を握る事で血豆を繰り返した両手の内は固く、女の手とはかけ離れていた。命を奪い続ける手で、綺麗な命には触れられない。

 私は躊躇いに手を引いたのに、白い猫は甘えるように頬を擦り付けた。手の内の柔らかな命にギリギリまで耐えていた緊張の糸が切れ、意識の手網が緩んでしまった。


 己穂の過去夢は、他の過去夢とは違う。やり直せない私自身の過去を強制的に辿っているようで、逃げ出したくなる。だけど過去夢から逃げる事は出来なくて、次に目覚めた時も千里わたしでは無いだろう。

 人と妖の間に立ち続ける方法は、本当に見つかるのだろうか? 己穂はどうやって、愛と憎悪の境界線を保っていたのか。


 血塗れた地面に叩きつけられるはずだった私は、何故か暖かな腕に抱きとめられていた。瞼を閉じかける寸前、よく知る白銀の柔らかな髪の少年が私を見下ろしていたような気がした。

 

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