ー春ー

第七章 鶯ノ眠編(うぐいすのねむりへん)

第百二十話 目覚めぬ少女


 

――*―*―*―《 黒曜目線 》―*―*―*――


 

 いつの間にか、庭の桜は綻んでしまった。疎らに咲き乱れている訳では無い。薄紅の花鞠が集まったように、枝先までもしならせて咲いているのだ。

 

 『桜を嫌いな人などいない』というのは一体誰が決めたのだろう。昔、桜はすぐに散ってしまうからこそ美しいのだと答えた人間がいた。心に照射した一瞬の美しさを思い出す度に、曖昧になった心象を、皆都合が良いように描き変えてしまうのかもしれない。

 

 そう考えると私達が『桜』に抱くのは、『美しい』という共通幻想だ。皆、それぞれの『美しさ』の心象を桜に重ねている……。だから、『桜を嫌いな人などいない』と言う人間の言い分も理解出来る。


 だが、その共通幻想をみることの出来ない存在がいたとしたら……? 『桜』は嫌いだと、言ったとしたら。共通幻想を破壊しようとする存在など、人の世から弾かれてしまうだろうか。


 原初の妖でありである私は、桜のように『儚い生命いのち』を愛せない。今の私は桜を見ても、心がざわつくばかりで安寧など与えてくれない。

 

 桜綻ぶ庭を切り取った丸窓障子から視線を戻すと、目の前で眠り続けるのは、鶯色の髪の少女。

 春になっても、千里は金の杏眼を開く事は無く、己穂の過去夢から戻らないままだ。彼女も私と同じく、桜の美しさから疎外された存在に成り果てようとしている。


 ――寒風が粉雪パウダースノーを切る癒刻ゆこく時計塔下での闘乱は、暖かい春陽の前に追憶となった。

 

 原初の妖への急速な変化を止める為、鞘を取り戻した己穂の刀を手にした千里は、己穂の過去夢へと導かれて眠りについた。

 寒月照らす雪原で彼女の代わりに目覚めた智太郎は、眠る千里を抱えて漆黒の翼で飛び去る私を止めようと、咆哮すると同時に弾丸を放った! しかし、その弾丸は花緑青の妖力を纏わなかった……。

 妖力を失った自分に気が付き愕然とする智太郎の姿は、私が羽ばたく度に眼下の雪原と共に小さく遠ざかっていった。千里によって妖力を奪われ続ける呪いを受けた智太郎は、肥大していく妖力で人の器が崩壊に向かう事はもう無い。

 

 ――智太郎を死の破滅から救うという、千里の望みは叶えられたのだ。


 智太郎を死の運命さだめから救うため、人であることを捨てる覚悟をした千里は、内なる憎悪によって私と同じ原初の妖へ化していく。

 

 だが、本来……彼女は人で有りたかったはずだ。

 

 千里が払った犠牲の上に成り立つ世界など、残された者達は望んでいない。私は千里を人と原初の妖の狭間へと導き、その力で己穂との約束を果たそうとしていた。矛盾する想いだとは理解しているが、私は彼女の犠牲など望んでいなかった。

 

 「何故、目覚めないんだ」


 触れた千里の頬は暖かい。まだ彼女は人だ。だが長い眠りの中で生命の燈を失わない彼女は、かつての己穂のように、半不死になりかけているのは間違いない。

 このまま己穂の過去夢に囚われて、千里が永遠に眠り続ける可能性もあるのだと気づいた時……死より計り知れない恐怖が、私を呪縛した。

 千里が目覚めなければ、彼女の存在を否定してしまった私の過誤を伝える事も出来ない。遅すぎる後悔を、伝える事すら出来ないのだ。

  

「私を憎悪しても構わないから、もう一度、その声を聞かせて欲しい」


 頬を撫でるそよ風のように落ち着いているのに、木漏れ日が胸を温めてくれるような、千里が紡ぐ声を聞きたい。

 だが、未だ千里は過去夢から戻らない。私は信じて待つことしか出来ない無力さに、打ちひしがれる事しか出来ないままだ。


 

―*―*―*―《黒曜目線 end 》―*―*―*―



―*―*―《彼女の瞼の裏、過去夢》―*―*―



「帰りたい」


 その凛とした声が発した一言は、千里わたしの声では無かった。それでも残された感覚で、私の口が紡いだ言葉だと気がつく。我に返った私は、眼前の景色に暫し呆然とする。

 

 雲間から逃れた薄い雄黄ゆうおう色の光芒が、黄昏の空と山脈の輪郭を結ぶ。

 光芒を受けて更に輝くのは、黄金に広がる田園だった。まだ苗色を残す線形の葉と頭を垂れる金の稲穂が、囁くように秋風に靡く度に、光芒を受ける毛並みは変わる。慣れ親しんだ円やかに実る稲穂の甘い香りは、身体の隅々まで染み渡るようだ。

 

己穂いづほは、やっぱり昔に戻りたいんだね」


 私を己穂と呼んだ声に振り向くと、苦いものを混じえた微笑を向ける、鶯色の髪の男が居た。やや垂れ目の黒茶の双眸の男は色彩は違えど、何故か千里わたしに似ているような気がする。気が強そうには、決して見えない所も。


 ――千里わたしは、己穂の過去夢の中に居るようだ。


 現実世界の千里わたしの肉体は、原初の妖へと向かっている。己穂の過去夢の中から、人と妖の間に立ち続ける方法を見つけられなければ、私は人で有り続ける事は出来ない。妖になるのは覚悟していた事ではあるが、人で有り続ける可能性がまだ残されているのなら、藻掻きたい。


爽太そうたこそ、刈った稲穂を稲架はさに掛けたいでしょ? 汗まみれになって農民として働いていた昔の方が、私が『現人神あらひとがみ』として地位を得た今よりも幸せだと思ってるよね」


 己穂として口が紡ぐままに返すと、爽太は肩を竦めて溜息を吐く。


「婆ちゃんが生きていたら、贅沢な悩みだって背中を叩かれそうだけどね。それよりも僕の後悔は、己穂を妖との戦いから解放してあげられないこと。兄なのに、僕は己穂より弱く約立たずだ」


生力しょうりょく由来術式を作って、しかもそれを刀に込めるのは十分凄い事だと思うけど。爽太は、妖に呪われた後からでしか人を救えなかった私に力をくれた。私は爽太が作ってくれた刀が有るから、自分の身を守って戦えている」


 己穂の兄だと言う爽太は、照れくさそうに黒茶の双眸を細めたが、それも一瞬の事。先程も微笑に混じえていた苦いものが浮かぶ。

 

「己穂は刀が無くても、人を救う為なら妖の元に飛び込んで行っちゃうからね。だけど結局、実際に戦わなければならないのは生力しょうりょくを操れる己穂だ。強力な生力由来術式はまだ己穂にしか使えない。僕は、黄金の稲穂みたいに美しい髪だと母さんが付けてくれた『己穂いづほ』の名前の由来を裏切らせてしまった。『現人神あらひとがみ』なんかじゃないのに。己穂はただの人間だ」


 爽太は生力由来術式を作った事で、結果的に己穂を妖との戦いに導いてしまった悔いをずっと抱えている。しかも兄である爽太が、妹である己穂のように生力の視界を持って生まれていた可能性が無いとは言えないから。


「……そう言ってくれる爽太が居るだけで、私はただの妹で居られる。それだけで十分」


 己穂わたしは無意識に自らの金の髪を掴んでいた。腰まで伸びる髪は、千里のものでは無い。

 いつか母が自慢げに櫛で梳かしてくれた、私の髪。今は『現人神あらひとがみ』の威光を示す証となってしまった。


「そもそも幼い僕がマムシに噛まれなければ、僕を治すために己穂が皆に力を知られる事なんて無かったんだ」


「逃げる事なんて、流石に出来なかったよ」


 悔いを消せない爽太に、私は首を横に振って否定した。

 私に生力を操る力が無ければ、家族まで巻き込んで、貧しくとも平穏だった暮らしを一変させる事は無かっただろう。

 だが私にその力が無ければ、爽太の死を見送っていたかもしれないのだ。目の前に生き続けている兄が居る。それだけで、己穂わたしが生力の視界を持って生まれてきた意味は果たされた。

 

 ――だけど私は望んでも帰れない。竹取物語のように、私には帰る安寧の月が無いのだから。

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る