第百五話 幕は切り捨てられた
【午後七時四十九分】
千里 黒曜
癒刻時計塔 地下洞窟内部にて
《千里視点》
――長い過去を夢視ていたようだ。黒曜の過ごしてきた時その物のように。人間として生まれた黒曜は身の内を憎悪で焼き尽くされ、原初の妖に転じた。同じ生力の視界を持つ
「……目覚めたか」
気を失っていた私を膝の上に乗せて見下ろすのは、艶めく漆黒の髪の、浮世離れした
漆黒の翼は、私を洞窟の染みるような寒さから守るように包んでいる。凪いだ夜の海を強く輝かせる
「やっぱり、思い出したくなかった」
柔らかな漆黒の翼が作り出した私を守る小さな空間は、与えられる優しさが耐え難い痛みとなり胸を締め付ける。滲む痛みは、涙となって頬を伝う。黒曜に馴染んだ懐かしい白檀の香りすら、今は惹かれてはいけない毒のよう。
黒曜が愛しているのは、今も己穂なのだ。私が黒曜に抱いていた想いは、恋というには幼すぎた。それでも抱いていた想いは過ごした時間と共に裏切られ、私は孤独という鳥籠の中に
「黒曜が、私を孤独へ閉じ込めたんだね」
信じたく無かった。だけど、私を十七年間、桂花宮家に縛り付けた言葉を告げたのは黒曜だった。桂花宮家という鳥籠を作ったのも。智太郎と私が想い合うのさえ、彼の舞台の上で操り糸を引かれていた……。事実を知っても逃れる事は出来ない。智太郎への私の想いは真実だから。智太郎を救う為に黒曜の過去夢を望み、癒刻まで来たように。
人と妖の対立の終焉へ導くという己穂との約束の為なら、黒曜は犠牲を厭わないだろう。黒曜は、私を人と妖の狭間……愛と憎悪の狭間へ堕とすのだから。
「千里は、どうしたい? 」
美しい
「拒否権なんてあるの……? 黒曜は、最初から最後まで、私に己穂の面影を重ねて、利用してただけでしょ!! 私は己穂の生まれ変わりだけど、己穂じゃない!! ……勝手に
笑える程に、涙が溢れて顎を伝う。横隔膜が痙攣して、私自身では止められない事に、自らを刺したくなる程に苛立ちが支配する。身を切るような寒さすら、今の私には救いになる。黒曜は、私を逃がさないかのように漆黒の翼を広げて立ち上がる。燐光の燈は、嘘偽りの無い微笑みを明らかにした。
「私は、千里に出会えて嬉しかった。長い時を生きてきても、与えられなかった幸せを見い出せたから」
黒曜の優しい微笑に、私は胸を抉られる。黒曜は優しいのに、残酷だ。だから私は、曖昧で消えてしまいそうな優しさが、嫌いだったんだ。私に安寧を与えておいて、取り上げた時にはそれ以上の孤独と絶望を与えるのだから。優しさを拒否するように、私は首を横に振る。
「聞きたくない! なんで、そんな期待させるような事を言うの。……私の事なんて、唯の道具にしか過ぎないくせに」
「違う!! 千里を道具なんて思った事は、一度だって無い!! 」
黒曜の怒りにも似た激しい激情は、怯えと切望と共に私を深く絶望に突き落とす。もっと早く、そうして強く否定してくれていれば……私は黒曜を好きでいられた。
「……なら、どうして、あの時私にキスしたの」
金木犀の下で再会した私に、黒曜は過去夢を与えた。過去夢を与えるだけなら、口付けじゃなくたって良かったはずだ。思い出して欲しい、と
逡巡に瞳孔を揺らしたまま何も返せない黒曜に、私は嘲笑で唇を歪ませる。期待するのは、疲れた。それに黒曜は、はっきりと己穂を愛していると口にしたではないか。それなのにどうして黒曜は、言葉を継ぐのを躊躇うのか。
「もう、良いよ。……私は黒曜の掌で踊るのは、嫌」
私は黒曜から距離を取るために後ずさる。白い鞘を蹴ると、身を翻して闇の中で輝き続ける金の光へと駆け出した!
「千里! 」
黒曜の張り上げた声が背を貫くが、私は振り返らない。目的は、掘削された岩穴に突き刺さる己穂の刀だ。己穂の過去夢は、きっと鞘と刀……二つ揃わないと視れない。だから鞘にさえ触れなければ、生力由来術式を宿した己穂の刀は、私を助けてくれる!
私は恐怖を否定する為に、視界を輝きで奪う程に強い金の光を放ち続ける、己穂の刀の柄を握った。 痺れが両腕を支配し、頭を割るような強い刺激が貫く! 思わず小さく悲鳴を上げてしまった。 己穂の刀が纏っていた、金の光は稲妻だった! 瞬きした瞼の裏には、刀に宿る己穂の残された若葉色の生力と吸い込まれた私の生力が、稲妻という術式に変換されていくのが視えた。 だから、黒曜は刀に触れられなかったんだ。気配を感じ、追い詰められた私は渾身の力で刀を引き抜く。己穂の刀を黒曜に向ける。皮肉にも、刃に映る鶯色の髪の自分の青ざめた表情は、何時か視た夢の己穂に似ていた。
「来ないで!! 私も、智太郎も、黒曜の操り人形なんかじゃない。生きた、人間なんだよ……? 」
頬が濡れたまま、私の下手な微笑が唇を引き攣らせる。黒曜は衝動を堪えるように秀眉を寄せたまま、私に救いを乞うように私に掌を差し出す。だけど金の
「千里は己穂の記憶を取り戻し、人と妖の
黒曜が私へ差し出した掌は、幼い頃に陽だまりの中で私の頭を撫でてくれたもの。だけど今は、原初の妖という深淵へと
私は、己穂のように強くない。戦う力も、善なる魂の輝きも。人と原初の妖の狭間に立てるのは、きっと僅かな間だけ。咲雪を殺めた時に、私が原初の妖にならなかったのは、記憶を奪われていたせいだ。咲雪に生きていて欲しいという、相反する想いのせいだったのかもしれないけれど。
私が黒曜を完全に憎悪すれば……もう私は人に戻れなくなる。己穂の過去夢を与えられたら、黒曜に憎悪を
智太郎が
花緑青の双眸が
再び、私が孤独になったとしても。
「智太郎が生きていてくれるなら、私は……」
逡巡に刀を構える両手が緩んだその時、私を赤い光を放つ何かが拘束する! 突然締めあげられた痛みに身体が軋み、肺から無理やり息を奪われた。黒曜石の双眸は呆然と見開かれたが、やがて端麗な
これは、見覚えがある。過去夢の中で
「私を生かしておいたのが、仇になりましたね……鴉! 」
覚えのある高らかな声が暗い洞窟を支配したと同時に、私の背後から現れた男の手に、金の稲妻を纏う刀は取り上げられた!
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