第百四話 薄紅桜の真実


 飛翔した私は、桂花宮家の屋敷を旋回し、千里を探す。淀んだ空気が翼に絡むようで不快だ。千里が幼いとはいえ、生力由来術式での戦闘方法さえ教授されていないのは……翔星の意図を感じて、舌打ちをした。


「生力を操る力を恐れた事が仇になったな」


 生力を操れるという事は、生力を与えて人を治すだけでは無い。人から生力を奪い、死に至らしめる事も出来る。かつて憎悪に焼き尽くされ、比呂馬の命を奪った私のように。

 

 だが、それだけでは無いかもしれない。生力の視界を持つ人間が、憎悪により原初の妖に転じるという事は、現代の妖狩人達には口伝されていない可能性が高い。だが、桂花宮家当主である翔星なら、代々引き継いだ書物で知っていてもおかしくは無い。


 妖狩人の総本山である桂花宮家次期当主という立場に生まれた千里に、生力由来術式による戦闘方法も教授せず、自由を奪い、閉じられた桂花宮家の中で生きさせるのは……千里が、原初の妖に転じるのを恐れていたから。


「人を守る立場からすれば千里を殺さなかっただけ、まだ親としての愛情が残っていると言えるか」


 だが千里に危険が近づいた時……翔星は娘を守るだろうか。生力を操り、命すら奪える力と原初の妖へ転じる可能性という、危険を孕んだ存在を。


 飛翔する私は、先程千里達が居た、桜の木が隣合う縁側を目にした途端……心臓が凍りついた。紅鶸色べにひわいろの羽織を纏う那桜が省吾を抱いて倒れている。残酷にも、幼い省吾ごと那桜は背を貫かれていた。陽光差す縁側を濡らすのは、親子の鮮血だった。薄紅色の桜の花弁が手向けのように、広がるあかに捧げられている。


 親子の亡骸の向こう……金の双眸を絶望に染めた千里は、影の妖に首を締められていた!

  私の心臓を捕縛する氷の鎖を、黒い焔の鼓動が一瞬で溶解する。身の内から実体化した憎悪を、妖力を纏う黒い焔の刀へ化した。漆黒の翼を翻して降り立つと同時に、黒い焔の一閃で、影の妖の首を春風ごと切り裂く!


❰❰ ァ"ぁヴああア!❱❱

 

 影の妖は、耳の中を這うように粘着質な断末魔を上げて絶えた。燃え尽きた残骸は燻るように、灰へ変わっていく。下賎な妖により千里を危険に晒した事に悔いる激情で、刀に纏う黒い焔は唸りを上げて燃え盛る。

 

「無事か! 」


 振り返ると、恐怖の名残に身体を震わせる千里がいた。大きく息を取り戻すように肩を上下させる。それなのに……私を安心させようと、千里は金の双眸を潤ませてぎこちない微笑を浮かべる。自らを支配していた激情の糸は切られ、温もりに包み込まれるような安堵に変わる。私も痙攣する唇で微笑を返していた。


「黒曜が来てくれるって、信じてた」


 ついに金の双眸から耐えかねたように、微笑を浮かべる千里の頬に極光を纏う涙が伝う。切望が与える痛みに胸を貫かれた私は、衝動的に千里を抱きしめていた! 鶯色の髪から金木犀のような甘い香りがして、欲望を焼いた。腕の中の千里に覚えたのは、体温と確かな命の重さに対する愛しさだけじゃない。答えるように背に回された千里の腕に、叶えられた切望が胸を満たし、漆黒の翼で包み込む。


「黒曜は、ずっと私と一緒にいてくれる?……那桜や母さまみたいに、私を置いていなくなったりしないよね? 」

 

 肩を震わせて泣く千里の孤独が、伝わる。だが私は温もりに感じていた安堵が、触れてはいけないという罪悪感に変わり、冷水を浴びせられたように我に返る。千里を離し、立ち上がる。


「黒曜……? 」


 理解出来ないように、千里が瞬いて私を見上げる。極光の涙を弾く金の双眸は、私の愛した秋暁の明星の輝きだった。私の想いの答えは、初めから明星の双眸にあった。私は内側を掻き乱される痛みに耐える為に、手の内に爪が食い込む程に拳を握る。

 

「私は、千里とずっと一緒にいる事は出来ない」


「どうして……」

 

 ザァァアと春風を受けて桜の木は揺らぎ、春陽を受けて影を落とす。舞い落ちる花弁の一片いっぺん、一片の輪郭が嘲笑うかのように意識を不快に擽る。桜の花の、白の内側から滲み出るような薄紅。白で眠らせた奥底にはあか色が潜んでいる。呆然と私を見上げる鶯色の髪の少女の事を、私は愛していた。


「お前は、千里では無い。……その魂は己穂なのだから」


 見開かれた金の双眸は、己穂のものだ。魂を受け継いだ千里がその色彩も受け継いでいるだけ。そうでなければ、己穂だけを想い続けると誓った私が、明星の双眸に抱く想いは何だと言うのか。千里は、小さな声を震わせる。


「私は千里だよ。……己穂という人の『殻』じゃない」

 

「千里は、己穂の生まれ変わりなんだ。……だけど、私が愛しているのは己穂だけだから」


「……黒曜は、己穂じゃない私の事は要らないんだね」


 希望を奪われたように俯いた千里の言葉が、刃のように突き刺さり、心臓の鼓動を重くする。

 

「違う……」


 逃れるように私が吐いた言葉は、かつて千里が私に与えてくれた、胸の内に花鞠の鈴の音が響くような、温かな命に対する幸せを求めていた。嘘だと否定するように、千里は金の双眸に僅かに憎悪を滲ませて、私を睨む。


「そうだよ! 何も違わない。……結局、黒曜も私の事を置いて行くんだね。もう独りで残されるのは嫌なのに……」


 私がかつて、己穂に望んでいた秋暁しょうぎょうに輝く明星の様な瞳を、瞋恚しんいの焔が支配する夜に堕としたい、という願い。それは、己穂から魂を受け継いだ千里を孤独という闇へ堕とす。輝く魂は、私の望んだ通り、瞋恚しんいの焔を纏う掌に堕ちてくる。


 皮膚の下へと這いずるように魂を憎悪で犯し、安寧を与える体温を貪欲に喰らい、どろりとした虚無という器で自由を奪いたい。その願いは、あと一歩で遂げられる。例え、私が打ち消したいと否定しても。

 

「何時か、千里を大切に想ってくれる人が現れる」


 自らの言葉は、内側を支配する切望を切り裂いた! 鼓動と共に喪失の痛みは広がる。

 

「それが、黒曜の答えなの」


「そうだ。それに私は、千里に愛を与えられない。私が与えられるのは……」


 与えないといけないのは、憎悪だ。だが、千里に答えを告げる訳にはいかない。


「お願い。せめて桂花宮ここから連れて行って」


 私に両手を伸ばす千里は、まるで甘えているよう。身の内に抱く痛みに桜色の唇が痙攣しているのを、除けば。

 私は衝動的に抱きしめて応えたくなり、首を横に振って耐えた。


「駄目だ」


 桂花宮家に居れば、生力の視界を持つ存在が辿る運命さだめを、千里も『金花姫きんかひめ』と呼ばれ続けて与えられる。

 私や己穂を『からす』や『現人神あらひとがみ』と人々が呼称して、力ある私達を縛り付けたように。

 それでも……私は千里を救えない。私は千里にとって、愛を与える存在であってはいけない。彼女にとっての悪にならなくては、人と妖の狭間……愛と憎悪の狭間へ導けない。智太郎は愛を、私は憎悪を、千里に与えなくてはならないから。


「じゃあ、何故今まで傍にいてくれたの! 千里わたしを大切に想ってくれていたからじゃないの。私が己穂の『殻』だから……なんだね」


 私は答える事が出来なかった。だけど、千里にとって肯定と同じだろう。


「酷いよ。私は黒曜のことが、好きだったのに。……初めから全部、何も無ければ良かった。そうすれば、無くす痛みなんて知らなかった! 」


 千里は身の内を巣食う痛みから逃れるように、顔を歪ませて首を横に振る。鶯色の髪が春風に舞う千里を……こんな時だというのに私は美しいと思ってしまった。千里が抱えた痛みは、私への切望だと知っているからこそ。

 

「ならば思い出すべき時まで……記憶を封印しよう」

 

「……いいよ。だけど思い出したら、また黒曜は私を己穂の為に利用するんだね。……己穂の生まれ変わりなんかじゃなくて、ただの千里として、黒曜と会いたかった」

 

 私は千里の鶯色の頭に触れる。かつて優しさを与える為に撫でた掌は、安寧を求めて震えた。千里は痛みから救われるように、僅かに笑みを浮かべていた。その金の双眸は、鶯色の睫毛に仕舞われる。私は逃れられない自身の痛みに終止符を打つように、千里の記憶を封印した!

 

 涙を春風に奪われて、千里は倒れる。私は意識を失った千里を抱き留めた。千里と交わした約束を果たす事はもう無い。千里に会いに桂花宮家へ、鴉の姿で降り立っても、彼女の金の双眸は私を知らない。千里の笑顔は、もう私へ向けられる事は無いのだと思うと……自ら手放した安寧に、胸の奥から抑え難い情動が湧き上がり目の奥が染みた。胸を突き上げるのは寂寞だった。

 

 

 長い時を過ごしてきたはずなのに……千里と共に過ごした二年間は、私の礎になっていた。己穂と過ごした時と比べ難い程に。


 千里を桂花宮家という鳥籠に入れたのは翔星かもしれない。だが間違いなく、その鍵を閉めたのは私だった。漆黒の翼を持ちながら自由を与えること無く、千里を孤独に堕としたのだから。


 

 気を失った千里を横たえると、妖狩人達の足音がした。私は鳥である鴉の姿になり、桜の木へと止まる。

 消えゆく影の妖の残骸と、那桜と省吾の亡骸からなる凄惨な血の海で……横たわる千里を、真っ先に抱いたのは、父親である翔星だった。凄惨な血の海に顔を顰めながらも、千里が無事であることに息を吐く翔星は、間違いなく千里に父親としての愛情を抱いていた。不器用かもしれないが……翔星なら、千里を任せられると感じた。


 憎悪を抱いたとしても、何時か私の事を思い出して欲しい。

 

 そう願ってしまうのは……己穂として目覚めて欲しいからなのか。確かに己穂の事は愛している。だが……花鞠の鈴の音が響くような温かな命に対する幸せを与えてくれた千里の存在を消すことなど、私には出来ない。


 だが彼女の憎しみと愛を果たし、人と妖の対立の終焉へ導けるなら……私の命を捧げても構わない。

 長い時を待つのはもう疲れた。だがあと少しだけ……羽を休めよう。私は目覚めた彼女にしか殺せないのだから。


 私は翼を翻し、春風に乗るように飛翔した。

 

―― 千里に真実を伝える、未来を待つ為に。


 

―*―*―*―《 過去夢 展開 end 》―*―*―*―

 

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