第百六話 強欲の蛇
【午後七時五十二分】
千里 黒曜 誠
癒刻時計塔 地下洞窟内部にて
《千里視点》
私を捕らえ、己穂の刀を奪った男を振り返ると同時に、脈打つ首に男の冷たい手が触れる。命が支配されたような凍えた恐怖と、
「
人を捨てて妖である大蛇と同化し、おぞましい変貌をした元婚約者を、私は睨む。黒曜の半不死の力を狙って私と智太郎を裏切ったくせに、誠は以前と同じように掴めないような笑みで口角を吊り上げて、人ならざる切れ長の双眸を細めた。
「久しいですね、
「千里から、下賎な手を離せ」
突然現れて私を『
だが私の命を握る誠は、猛りを楽しむような声音で答えた。
「知っていますよ、鴉。貴方が今もこの娘に執着している事を。それに蟲のように殺せたはずの私を生かしたのは、貴方が人を殺せないからでしょう。おかげで火傷で爛れた半顔も、大蛇と同化して元通りだ」
黒曜は人を殺さないという、己穂との約束を今も守り続けている。だが黒曜にとって、誠を生かした事は自身を縛る結果になってしまった。私の命を握る誠に、黒曜は切歯するように刀に纏う黒い焔を唸りを上げて燃え盛らせた。誠はかつて自分を意に返さなかった存在が、雁字搦めにされている事実に陶酔するように唇を歪ませた。
「取引をしませんか? 貴方にはこの娘が必要でしょう。その代わり……私に隷属するんだ」
逆三日月が宿る滅紫の双眸を重々しく開眼した誠は、闇に澱んだ地底を這わせるような語調で命じた。
「駄目! 」
私は誠から逃れようと身をよじるも、縛の術式と首を掴む誠の手はびくともしない。黎映の過去夢で視た誠は、強欲が求める力の為なら、人も妖も関係なく地獄絵図へ塗り潰した。黒曜が誠の手に堕ちたら……どんな闇の世が訪れるか分からない。まだ黒曜を案じている自分に気がついて、冷たい息が肺を刺した。
このままでは、人と妖を
誠は妖と同化したとはいえ、人でもある。私と己穂の生力を変換した金の稲妻は誠を死に至らしめない。だが、力強く刀を握り締めた誠の右手からは……僅かに肉が焼ける嫌な香りが鼻をつく。私は瞼を閉じて闇の中に浮かぶ、若葉色に輝く刀の生力を操ると、金の稲妻は誠の右腕を焼く!
「……っ! この、
誠は眼底から凶猛さで射殺すように、私を睨んだ。己穂の刀を捨てて、私の首を鉤爪のような指で食い込ませる!
誠の手首に爪を立てるが、痙攣する指の骨では無意味だ。行き場を失った血流は荒れ狂い、張り裂けそうな頭部を割るように硬く叩きつける。小鐘の脈動を暴風で打ち鳴らされ、死の現実という虚ろな口腔が、私を呑みこもうと毒牙を向けた!
「這いずる蟲にも劣る、強欲の蛇よ……
双眸を燃え
縛の術式に拘束されている私の上、漆黒と滅紫の閃光が散った! 黒曜が構える黒い焔の刀に、鱗の金を弾く滅紫の蛇が巻きついて拮抗している。唇をどす黒く歪ませた誠の着物の袖から、現れた滅紫の蛇は一匹だけじゃない。ぼとり、と新たに袖から落ちた滅紫の蛇は、私の息がかかる程に近い。あるべきはずの眼が無い蛇に、本能的な嫌悪が脳髄から全身を蝕む。蛇は赤い口腔を開き、毒が垂れる牙で私を威嚇した!
息さえ硬直した私の眼前、黒曜は滅紫の蛇の頭部を踏み殺す。眼前の蛇は消滅したが、気がつけば洞窟内はおぞましい滅紫の蛇達で蹂躙されていた。
「大蛇と永進に甘んじていたが……やはり、『縛』の術式を編み出した伊月家は滅するべきだった! 」
奥底から烈火の憤怒を
「妖であるはずの貴方が、妖狩人の家門に通じているとは。……金花姫に執着する真意に関係があるのですね」
私を逆三日月が宿る滅紫の瞳で探るように一瞥した誠に、秘匿を隠した骨の髄まで凍えるように震撼した。黒曜の半不死の力は、原初の妖である故。だが、私が原初の妖へ転じる可能性がある存在だと誠に知られてしまえば、黒曜を隷属させるより安易に、誠は半不死の力を手に入れることが出来る。
今、誠は私の事を唯の弱者だと思っているから、私の命さえ軽んじた。価値に気づかれてしまえば、私が殺される事は無くとも、世が闇に堕とされてしまう……!
「千里は、私にとって代え難い存在だ! 」
黒曜の、荒波が猛る夜の海の双眸が
「……やはり強大な妖力だ! そう来なくては、
強者への執念を
黒曜の
拘束していた『縛』の術式が、僅かに緩んだ。……今だ!
唇を結んだ私は金の稲妻を輝かせる己穂の刀を再び手にした。私を縛る
「させるものか! 」
怒号を叫んだ黒曜は、端麗な
「やめて!! 」
私は本能的に己穂の刀から金の稲妻を生じさせ、
「千里! 」
「人を殺さないで! ……己穂との約束なんでしょ」
このままでは黒曜は誠を殺してしまう……! 私はなんとか微笑を浮かべ、洞窟の天井で漆黒の翼を広げる黒曜を見上げる。私が名付けた黒曜石のように深く滑らかに輝く双眸は、動揺で瞬く。揺るがされた殺意が、端麗な
「駄目だ。この男は、人にとっても妖にとっても危険だ。……千里にとっても」
私が原初の妖へ転ずると分かれば、誠は狙いを私へ変えるだろう。黒曜に抱き始めた憎悪の中……与えられた慈愛が残っていたことに気がついた。黒曜を許せない気持ちは変わらない。それでも、黒曜が己穂と交わしたもう一つの約束は、私も願うものだから。胸を抉る痛みで上手く笑えなくても、祈るように黒曜を見つめる。
「我儘なのは分かってる。けど、お願い。もう、黒曜に人を殺して欲しくないから」
「……千里が、それを望むなら」
唇を噛んだ黒曜は、舞い降りようと漆黒の翼を羽ばたかせた時……黒曜の腕に滅紫の蛇が喰らいつく。禍々しい一筋の白が這う
「やはり、甘いお嬢様だ! 」
蠱毒に堕とされ深淵から這い出た者の様に、どす黒い笑みで唇を引き攣らせた誠は、荒々しく見開いた
握りしめた己穂の刀から金の稲妻を放つも、蛇達の一部を削っただけで、一掃出来ない!
「やめろ!! 」
黒曜は咆哮し、茜を纏う黒い焔が後を追うも、あと一歩間に合わない!
私の背を凍りついた戦慄が貫く。見開いた視界には、在るべきはずの眼が無い滅紫の蛇と
私は脳裏で、走馬燈が回転しながら映しだす、煌めく十七年間の思い出の中……流星痕のような、一人の少年を見た。
『俺が、お前の味方になってやる!』
『逃げるのは、許さない』
黒曜に裏切られ記憶すら奪われて理由を隠された、孤独という鳥籠から私を救い出してくれたのは、智太郎だった。何時か私達を崩壊させる、秘匿の罪に怯えながらも……共に築いてきた十年間は、私に一つの
――智太郎に、生きていて欲しい。
智太郎を死の
「私は、まだ死ねない!! 」
私が死んでしまっては、人と妖の
「お前は死なない。……俺が守るから」
白銀の一閃と共に
花緑青の双眸を宿す少年は振り向いた。私は安堵で耐え切れず、目の奥から生まれた情動に壊れてしまうかと思った。
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