第百六話 強欲の蛇


 【午後七時五十二分】


 千里 黒曜 誠

 癒刻時計塔 地下洞窟内部にて

 

 《千里視点》



 赫赫かっかくたる光の蛇は、骨に食い込むように私を強く締め上げる。金の稲妻を纏っていた刀が奪われた喪失感のように、両手に痺れが残された。

 私を捕らえ、己穂の刀を奪った男を振り返ると同時に、脈打つ首に男の冷たい手が触れる。命が支配されたような凍えた恐怖と、滅紫けしむらさきを貫く金の逆三日月さかさみかづきの瞳孔が、私の呼吸の自由さえ捕縛した。大蛇と同化し、薄茶だった瞳の色彩は面影を残していない。一房に纏め肩に触れる、紺を弾くようだった黒髪も、今は鮮やかな紺青こんじょうに一筋の白が這うようで禍々しい。弟である黎映りえいのように白皙の肌には、大蛇の鱗がまだらに出現している。

 

伊月 誠いづき まこと……! 」


 人を捨てて妖である大蛇と同化し、おぞましい変貌をした元婚約者を、私は睨む。黒曜の半不死の力を狙って私と智太郎を裏切ったくせに、誠は以前と同じように掴めないような笑みで口角を吊り上げて、人ならざる切れ長の双眸を細めた。


「久しいですね、金花姫きんかひめ。今回も貴方は私の良い駒だ」


「千里から、下賎な手を離せ」


 突然現れて私を『ばく』の術式で捕らえた誠を、黒曜は端麗な顔立ちを顰めて睨む。黒曜は妖力を化し、黒い焔を纏う刀を顕現けんげんさせた。その双眸は、嵐の夜の海で猛り狂う荒波のように怒気を孕んでいる!

 だが私の命を握る誠は、猛りを楽しむような声音で答えた。


「知っていますよ、鴉。貴方が今もこの娘に執着している事を。それに蟲のように殺せたはずの私を生かしたのは、貴方が人を殺せないからでしょう。おかげで火傷で爛れた半顔も、大蛇と同化して元通りだ」


 黒曜は人を殺さないという、己穂との約束を今も守り続けている。だが黒曜にとって、誠を生かした事は自身を縛る結果になってしまった。私の命を握る誠に、黒曜は切歯するように刀に纏う黒い焔を唸りを上げて燃え盛らせた。誠はかつて自分を意に返さなかった存在が、雁字搦めにされている事実に陶酔するように唇を歪ませた。


「取引をしませんか? 貴方にはこの娘が必要でしょう。その代わり……私に隷属するんだ」


 逆三日月が宿る滅紫の双眸を重々しく開眼した誠は、闇に澱んだ地底を這わせるような語調で命じた。


「駄目! 」


 私は誠から逃れようと身をよじるも、縛の術式と首を掴む誠の手はびくともしない。黎映の過去夢で視た誠は、強欲が求める力の為なら、人も妖も関係なく地獄絵図へ塗り潰した。黒曜が誠の手に堕ちたら……どんな闇の世が訪れるか分からない。まだ黒曜を案じている自分に気がついて、冷たい息が肺を刺した。

 このままでは、人と妖を運命さだめから救うという約束すら、黒曜は裏切ってしまう……! 手段はどうあれど、私は黒曜と同じ目的の為に居る。黒曜が片手で荒々しく覆ったかんばせの下……答えを出す前に、私は誠の握る己穂の刀を一瞥する。

 誠は妖と同化したとはいえ、人でもある。私と己穂の生力を変換した金の稲妻は誠を死に至らしめない。だが、力強く刀を握り締めた誠の右手からは……僅かに肉が焼ける嫌な香りが鼻をつく。私は瞼を閉じて闇の中に浮かぶ、若葉色に輝く刀の生力を操ると、金の稲妻は誠の右腕を焼く!

 

「……っ! この、塵芥ちりあくたの分際で! 」


 誠は眼底から凶猛さで射殺すように、私を睨んだ。己穂の刀を捨てて、私の首を鉤爪のような指で食い込ませる!

 誠の手首に爪を立てるが、痙攣する指の骨では無意味だ。行き場を失った血流は荒れ狂い、張り裂けそうな頭部を割るように硬く叩きつける。小鐘の脈動を暴風で打ち鳴らされ、死の現実という虚ろな口腔が、私を呑みこもうと毒牙を向けた!


「這いずる蟲にも劣る、強欲の蛇よ……焚刑ふんけいに科してやる! 」


 双眸を燃えたぎらせた黒曜は殺意の火蓋を切った! 手放しかけた私の意識は、肌を掠める熱風により引き戻される。誠の手から解放され、救いの冷気が倒れ込む私の肺を満たした。歯を食いしばり硬直するが、硬い地面に叩きつけられて痛みに耐えた。

 

 縛の術式に拘束されている私の上、漆黒と滅紫の閃光が散った! 黒曜が構える黒い焔の刀に、鱗の金を弾く滅紫の蛇が巻きついて拮抗している。唇をどす黒く歪ませた誠の着物の袖から、現れた滅紫の蛇は一匹だけじゃない。ぼとり、と新たに袖から落ちた滅紫の蛇は、私の息がかかる程に近い。あるべきはずの眼が無い蛇に、本能的な嫌悪が脳髄から全身を蝕む。蛇は赤い口腔を開き、毒が垂れる牙で私を威嚇した!

 息さえ硬直した私の眼前、黒曜は滅紫の蛇の頭部を踏み殺す。眼前の蛇は消滅したが、気がつけば洞窟内はおぞましい滅紫の蛇達で蹂躙されていた。


「大蛇と永進に甘んじていたが……やはり、『縛』の術式を編み出した伊月家は滅するべきだった! 」


 奥底から烈火の憤怒をたぎらせて、黒曜は咆哮した。誠は逆三日月が宿る滅紫の瞳を細める。誠が黒曜の過去夢の中の比呂馬と重なり、私の肌が逆立つ。私を捕らえたままの『縛』の術式の赫赫かっかくとした輝きさえも……黒曜の親を殺めて憎悪をもたらし、原初の妖へ転じさせた比呂馬に繋がり、私は嫌な予感を拭えない。このままでは、本当に黒曜は再び人を殺めてしまうのではないか!

 

「妖であるはずの貴方が、妖狩人の家門に通じているとは。……金花姫に執着する真意に関係があるのですね」


 私を逆三日月が宿る滅紫の瞳で探るように一瞥した誠に、秘匿を隠した骨の髄まで凍えるように震撼した。黒曜の半不死の力は、原初の妖である故。だが、私が原初の妖へ転じる可能性がある存在だと誠に知られてしまえば、黒曜を隷属させるより安易に、誠は半不死の力を手に入れることが出来る。

 今、誠は私の事を唯の弱者だと思っているから、私の命さえ軽んじた。価値に気づかれてしまえば、私が殺される事は無くとも、世が闇に堕とされてしまう……!


「千里は、私にとって代え難い存在だ! 」


 黒曜の、荒波が猛る夜の海の双眸が月明げつめいを強く輝かせ、私の鼓動を貫く。黒曜は、刀に巻き付く滅紫の蛇と洞窟内に蔓延る蛇達を、茜色の輪郭を纏う黒い焔で焼尽した。 洞窟内は茜色を照り返し、熱風が吹き荒れる!

 

「……やはり強大な妖力だ! そう来なくては、おまえを追って地獄から這い上がって来た意味が無い! 」

 

 強者への執念をたかぶらせた誠は開眼し、熱を帯びた咆哮で洞窟内を激震させた。暗い欲望で恍惚と口の端を吊り上げた誠は両手を広げ、自身の袖と闇から滅紫の蛇達を這わせて復活させる!

 黒曜の瞋恚しんいの心臓から生じた、茜を纏う黒い焔と、誠の強欲に金の鱗を照らす滅紫の蛇達が喰らい合う!


 拘束していた『縛』の術式が、僅かに緩んだ。……今だ!

 

 唇を結んだ私は金の稲妻を輝かせる己穂の刀を再び手にした。私を縛る赫赫かっかくたる光の蛇を刀で断ち切ると、顔を顰めた誠は片手を伸ばし、再び私に光の蛇を差し向ける!


「させるものか! 」


 怒号を叫んだ黒曜は、端麗なかんばせを鋭い剣幕で強張らせた。黒い焔の刀を一閃させ赫赫かっかくたる光の蛇達を断ち切った! そのまま顔を歪めた誠の首を片腕で拘束し、漆黒の翼で飛翔する。 だが、その漆黒の翼を赫赫かっかくたる光の蛇が狙う!


「やめて!! 」


 私は本能的に己穂の刀から金の稲妻を生じさせ、赫赫かっかくたる光の蛇へ落雷させていた。息を着く間も無く、滅紫の蛇達が私に飛びかかろうと鎌首をもたげる! 瞬間的な恐怖に身が竦んだ私は、己穂の刀から生力を操れなかった。蔓延る蛇達に舌打ちをした黒曜は、茜を纏う黒い焔で焼尽する。だが、滅紫の蛇達はうじのように湧いて出て際限がなく、私を囲む。


「千里! 」


「人を殺さないで! ……己穂との約束なんでしょ」


 このままでは黒曜は誠を殺してしまう……! 私はなんとか微笑を浮かべ、洞窟の天井で漆黒の翼を広げる黒曜を見上げる。私が名付けた黒曜石のように深く滑らかに輝く双眸は、動揺で瞬く。揺るがされた殺意が、端麗なかんばせを引き攣らせた。


「駄目だ。この男は、人にとっても妖にとっても危険だ。……千里にとっても」


 私が原初の妖へ転ずると分かれば、誠は狙いを私へ変えるだろう。黒曜に抱き始めた憎悪の中……与えられた慈愛が残っていたことに気がついた。黒曜を許せない気持ちは変わらない。それでも、黒曜が己穂と交わしたもう一つの約束は、私も願うものだから。胸を抉る痛みで上手く笑えなくても、祈るように黒曜を見つめる。

 

「我儘なのは分かってる。けど、お願い。もう、黒曜に人を殺して欲しくないから」


「……千里が、それを望むなら」


 唇を噛んだ黒曜は、舞い降りようと漆黒の翼を羽ばたかせた時……黒曜の腕に滅紫の蛇が喰らいつく。禍々しい一筋の白が這う紺青こんじょうの髪をたなびかせて、墜ちる誠は拘束を解いてしまう!

 

「やはり、甘いお嬢様だ! 」

 

 蠱毒に堕とされ深淵から這い出た者の様に、どす黒い笑みで唇を引き攣らせた誠は、荒々しく見開いた滅紫けしむらさきを貫く金の逆三日月さかさみかづきの双眸で、私を捉えた。滅紫の蛇達と、赫赫かっかくたる光の蛇は、私へと差し向けられた!

 握りしめた己穂の刀から金の稲妻を放つも、蛇達の一部を削っただけで、一掃出来ない!


「やめろ!! 」

 

 黒曜は咆哮し、茜を纏う黒い焔が後を追うも、あと一歩間に合わない!

 私の背を凍りついた戦慄が貫く。見開いた視界には、在るべきはずの眼が無い滅紫の蛇と赫赫かっかくたる光の蛇が、死の現実という虚ろな口腔で、私を呑みこもうと毒牙を向けるのが……酷くゆっくりに見えた。


 私は脳裏で、走馬燈が回転しながら映しだす、煌めく十七年間の思い出の中……流星痕のような、一人の少年を見た。


『俺が、お前の味方になってやる!』


『逃げるのは、許さない』


 黒曜に裏切られ記憶すら奪われて理由を隠された、孤独という鳥籠から私を救い出してくれたのは、智太郎だった。何時か私達を崩壊させる、秘匿の罪に怯えながらも……共に築いてきた十年間は、私に一つの冀求ききゅうを与えた。


 ――智太郎に、生きていて欲しい。


 智太郎を死の運命さだめから解放し、その先の未来を歩んで欲しい。私が奪ってしまった、咲雪から与えられるはずだった愛情を……少しでも未来で返せるなら、何を犠牲にしたって構わない!


「私は、まだ死ねない!! 」


 私が死んでしまっては、人と妖の運命さだめを改変し、智太郎を死の破滅から救う事が出来ないのだから!


「お前は死なない。……俺が守るから」


 白銀の一閃と共に花緑青はなろくしょうの陽炎が、蔓延る蛇達を消滅させた!

 花緑青の双眸を宿す少年は振り向いた。私は安堵で耐え切れず、目の奥から生まれた情動に壊れてしまうかと思った。

 

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