第九十二話 愛と手網



【午後七時??分】 


青ノ鬼 美峰 

意識内にて

 

《美峰視点》



「優しく言えば、僕のつがい。真実を言うならば、新たなかみに捧げられた哀れな供物。かつて人を妖として殺めてきたが、己穂という現人神あらひとがみによってかみとして生まれ変わってからは人々は面白い程に手のひらを返したよ。人に仇なす妖をほふってきた現人神の恩恵は、多大なる信頼をも勝ち取っていたから」


 青ノ鬼は深い川底に沈めていた記憶の糸を手繰り寄せるように、青い瞳を細めた。


「供物として捧げられた始まりの青ノ巫女姫……詩衣凪しいなは、未来への可能性を少しでも増やす為、僕の血を残す傀儡くぐつだった。従順すぎて自分の意思なんて無いとすら思っていた詩衣凪は……本当は僕に愛を求めていたらしい。だが僕は、詩衣凪に応える事は出来なかった。……元々青と鬼という二つの存在が同化した僕だから、想いの余地なんて無かったのかも知れないけれど。僕が身体を捨てた時に、詩衣凪が告げた『貴方に愛は存在しない』という言葉は的確に僕だった。詩衣凪の人生を狂わせたくせに、愛する事も出来ない僕にはね」


 私は詩衣凪の気持ちを想像する事しか出来ない。だけど青ノ鬼を愛していたならば、愛する人は身体を捨てて二度と触れ合えないのに魂だけは自身の内側に存在するという残酷さは、心を壊さないはずは無い。しかも、その目的が別な女性との約束を果たす為だったとすれば尚更だ。青ノ鬼が犠牲にして来たのは青ノ鬼自身だけじゃ無い。そこまでしたのに、己穂……そして生まれ変わりである千里に抱いている感情すら『愛は存在しない』という言葉で目隠しを続けてきた青ノ鬼に、私は怒りすら生ぬるく憎悪すら覚えた。


「貴方は……! そこまで犠牲を積み重ねてまで、果たそうとしている約束の根源である想いと、どうして見つめ合わないの! 私の身体の権利すら奪っておいて。卑怯だよ……」


「……泣いてるの? 」


 唯一の青い瞳を瞠目させる青ノ鬼に、私は自身の頬を濡らす涙に気がついた。意識体なのに、涙を流せるらしいと自嘲が掠める。私は衝動のまま歯を食いしばり、青ノ鬼の頬を張った! 青ノ鬼は何が起こったのかすら分からず、呆然と眼下を流れる川へ視線を落とす。


「愛しているからでしょ! 己穂……そして千里ちゃんを。貴方は約束の対価が欲しかった。いつ果たせるかも分からない約束だとしても犠牲を考えれば、対価が欲しいと思うのは当たり前だよ。 意識の底なんかに居たくなくて、会いたいと願うのも! 」


「だけど僕は千里に抱いているのは恋愛感情じゃない」


 ようやく自分の抱いている想いと見つめ合い始めた青ノ鬼は頬を押さえながら、私に答えを乞うように青い瞳を瞬く。私は卑怯かもしれないけれど、今が好機だと思った。青ノ鬼と取り違える事の無い契約をするのだ。


「貴方が千里ちゃんに求めているのは、子供が母親に求める愛情と同じ。己穂が貴方の創造主ならば、己穂の生まれ変わりとして再会した千里ちゃんに、良く頑張ったねってただ褒めて欲しかった。……そうでしょ」


 迷子になった子供のように意思が揺らいでいた青ノ鬼、そして創造主という言葉が、私に青ノ鬼の想いを教えた。

 表情を手放した青ノ鬼は何かを言おうと唇を開きかけたが、閉じる。喘ぐようにただ呼吸をしただけかもしれないけど。


「僕が己穂との約束を果たす為に千里を導いてきたのは……そんな事の為だったなんて」


「違う? 」


「……いや、正解だ。図星だから受け入れ難いだけだ」


「なら、私が青ノ鬼に目的を遂げさせてあげる」


 青ノ鬼は今度こそ言葉を失った。散々私をやり込めてきた彼が言い返せもしないのは胸がすく。私は満足して微笑した。


「……美峰は何を考えているんだ」


「単純だよ、身体の権利を返して欲しいだけ。それから、鬼憑りは全て私の意思に委ねる事。鬼憑りをしている時も、私の意思に従って」


手網たずなを受け入れろ、と言う事か」


 青ノ鬼は苦い物を噛まされたように顔を顰めるが、逆らえないはずだ。己穂……そして千里への想いに導いたのは私なのだから。


「そう。簡単でしょ? 貴方の目的の邪魔はしないから。最低限従ってもらわないと、千里ちゃんに嫌われちゃうかもね」


 私は意地悪く唇を隠して微笑すると、青ノ鬼は呆れたように眉を寄せて瞬く。


「……多分君、僕に似てきたよ」


「失礼だから、それ」


 青ノ鬼は複雑そうに口を結ぶが、やがて頷いた。私は自身の戦いに勝利したのだ。


「良いだろう。智太郎は気に食わないから、やり込めてくれると尚良い」


「流石に別格じゃない? 貴方の想いとは違うんだから、張り合うのは止めた方がいいけど」


 青ノ鬼は解放されたように、晴れやかに笑った。寧ろ、青ノ鬼が私に似てきたんじゃないか……と思えるほどに無邪気な笑みだった。


「そうと決まれば、早く千里を追いかけないと。綾人も君を呼んでいるし」


 私は綾人の名前を聞いただけで、息を吹き返したように血流は堰を切って心臓を甦らせる。意識体なのに何故こんなにも、心臓が痛いのだろう。


「綾人は、無事なんでしょうね」


「流石に子孫だし、殺したら詩衣凪の犠牲は本当に意味が無くなってしまう。どちらにしろ、僕は綾人に負けたんだ。智太郎も、結局足止めくらいしか出来なかった。……鴉と千里が再会するには十分時間を稼げたはずだけど」


「……もう二度と勝手な事はさせないから」


 私は睨みつけるが、寧ろ青ノ鬼は優しい微笑を口元に湛える。綾人がドMと噂される理由は、先祖にあるんじゃないの!?


「手網を付けられた分だけ、報酬を期待している」


「その言い方、本当にやめて」


 眼下の川から反射する光が、突然視界を破壊するように強烈に照り返す。青ノ鬼の微笑も光で掻き消えていく……。




 真っ白な視界に瞬く。まだ私は目覚めていないんだと、再度瞼を閉じかける寸前……涙でぐちゃぐちゃな綾人が私を抱き締めた! 突然の重なり合う体温と鼓動に頭の中は完全にフリーズしている。


「美峰!! 」


「な、何!? ひっどい顔してるよ、綾人」


「うう……その罵倒は絶対に美峰だ。間違いない」


 綾人はドM路線まっしぐらかな……と、先祖である青ノ鬼を恨む。彼らを纏める私の事を、智太郎は女王だとか言うけれど、相性を考慮されて青ノ巫女姫は選ばれてるんじゃないかと内心びびる。

 真っ白な視界は降り積もった雪だったらしい。見上げた夜空は金剛石ダイヤモンドの星々が瞬いていた。何故か偉人像に矢で蝶の標本のように拘束されていた私を、綾人はグズグズ鼻を啜りながら矢を引き抜いていき解放する。肩と手の甲が少々痛むが……私も綾人も死んでないだけでも良しとしよう。ふらつく私を綾人は抱き留める。綾人はほぼ無傷のようで、私は白い息を吐いた。


「今何時なの? 」


「……午後七時五十六分」


 スマホの画面で時間を確認した綾人の言葉に、私は震え上がった。


「ぜんっぜん間に合って無いじゃん! 早く私達も癒刻時計塔に向かわなくちゃ」


「智太郎が先に向かったから大丈夫だとは思うけど、早く行かないとね」


「早く向かうには……ああ、また青ノ鬼呼ばないとか」


 がっくりと肩を落とす私に、綾人は抱き締めた腕の力を強くする。青ノ鬼との戦いの後だからそりゃ信用無いよねと、綾人の背中を軽く叩く。


「青ノ鬼はもう暴走しない。青ノ鬼と契約を交わしたから、裏切る事は無いよ」


「良かった……だけど……」


 綾人は腕の力を緩め、私を見つめる。綾人は青みがかった双眸を潤ませていた。切れ長の瞳と透明感のある上品な容貌が、思ったよりも近い。薄い唇が、白い息と共に告げたのは私と同じ想い。


「美峰とまだ居たい」


「……私もそうだけど、仕方ないでしょ」


 私は寂寞で、抱き締められて温められたはずの身体が冷えていくような気がした。綾人はわざと空咳をすると、棒読みで喋り始める。


「あー、ちょっと戦いで妖力使い過ぎたよね……これは補充が必要だ! と思うのですが」


 私は理解できなくて首を傾げる。綾人は紅潮する頬を誤魔化す様に、冬だと言うのに手で自身を扇ぐ。切れ長の双眸は意を決した様に瞬きを返す。


「美峰も青ノ鬼に生力使われてるかもだし、これは相互だから! 」


「何の事なの……」


「良いから……目、閉じてくれない? 」


 私の頬にそっと触れた掌と、甘やかな切望に揺らぐ潤んだ双眸に私はようやく綾人の行動を理解する。触れられた頬に痺れるように熱が宿り、吐息が籠る。助けを乞うように細められた眼差しに私は、胸の奥が心地の良い痛みに高鳴る。私は瞼を閉じる寸前……綾人へ伝えようと決めていた言葉を告げる。


「無事でいてくれてありがとう。……私も綾人から離れて行ったりしない」


 吐息が重なる直前、薄い唇は逡巡するような一息の後、答えを返す。


「美峰はもう逃げられない」


「行く場所なんて無いよ。……敢えて言うなら、吊り橋からエスケープしたボートの上かな」


「聞こえていたのは嬉しいけど……茶化されると複雑」


 こんな時だと言うのに、雰囲気などいざ知らずお互いクスクスと笑ってしまう。だが私の唇は難無く捕らえられた。氷点下の雪原で、唯一の熱を奪うような口付けに心は望んでいた陶酔で満たされた。


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