第九十三話 漆黒の翼は、刻限を告げる



【午後七時四十五分】


 千里 黒曜

 癒刻時計塔にて

         

《千里視点》 



 鉄紺てっこん色の正絹シルクにばら蒔いた金剛石ダイヤモンドの星空に編まれた金の紋様は、時々微かに揺れて金の粉として輪郭を見せた。星空の金の紋様を保つ四つの天灯は、若葉色から滲んだ金の妖精の翅のような輝きで私を魅了し続ける。特に、偉人像から上がった天灯は私の心を締め付けた。

 ……本当は縋るように見つめ続けて居ただけだ。何かあったのだろうか、と黒い不安が肺を満たして重くする。刻限だと言うのに、誰も現れない。だが、私にとってはこれで正しいのだと思う。私は誰にも邪魔される事無く、彼が現れる事を待ち望んで居たのだから。私は四つの天灯から目を離し、振り向いた。


 癒刻時計塔の下……白檀の香りと共に、漆黒の翼が翻る。


 艶めく漆黒の黒髪は、寒風に舞い上がる不香の花と共に揺らぐ。浮世離れした美しいかんばせは、雪原と張り合う程に白い。憂いを帯びた睫毛の奥……凪いだ夜の海を強く輝かせる月明げつめいの様な、黒曜の瞳は寂寞せきばくの中に滲む確かな願いを私に望む。私はその答えを知る為に……ここまで来たんだ。


「黒曜」


 私が名を呼ぶと、黒曜は慈愛の中に切なさを交えて微笑を浮かべる。掌では掬えない程に紡ぐ言葉があるはずなのに、黒曜が湛えた微笑は全てを攫ってしまう。躊躇いに胸を刺された私は己穂の鞘を更に抱き締める。白く硬質的な滑らかさに、私は智太郎の事を思い出す。黒曜に一番に問わねばならない言葉が吐息になりかけた時……私の唇は、綺麗な指先によって止められる。


「分かっている。千里は全てを思い出す覚悟が出来たのだろう? 私に問いたい事も……過去夢が答えを与えてくれるはずだ。私の記憶が視たいなら、そうしても構わない」


「……知りたい事が過去夢にあるのなら。だけど、どうして貴方は癒刻に現れたの? 」


「それは己穂の刀が眠っているからだ。……私は刀に触れる事が出来ない」


 睫毛を伏せた黒曜はその指先で、癒刻時計塔の木製の両扉を示す。……まさか、時計塔の内部に己穂の刀があるのか。やはり、己穂の刀は癒刻に存在した。私は眼が寒風に染みるのも構わず、見開く。


「着いてくるといい」


 黒曜は私を星芒せいぼうが宿る瞳で一瞥すると、時計塔の両扉へと歩む。黒曜が扉に触れると、軋む音を立てて簡単に先の道は開き、私は目を丸くする。開いていたのか、それとも今開いたのか。問う暇も無く、黒曜は時計塔の中へと歩んで行ってしまう。私は慌てて後を追った。

 内部はより暗く、目が慣れてくるのを待つよりも、黒曜が掌の内に妖力で明かりを灯す方が早かった。端正な顔立ちが闇夜に浮かぶと色んな意味で心臓に悪い。黒曜の掌を離れた燐光のような燈に、私は蛍を思い出した。燐光の燈は、時計塔内部も木製である事を教えてくれた。見上げると、光の届かない木枠の骨組みの奥は、ひたすらに闇が続いていた。目の前に半不死の妖が居るというのに、私はお化けでも出てきそうと子供のように怯える。期待に応えるように高い軋んだ音がして、身体が強張る。


「こっちだ」


 高い軋んだ音は、黒曜が床の隠し扉を開けた音だった。私を待つ黒曜が瞬くのを確認してから、隠し扉の奥を覗き込むと……地下へと、岩肌が覗く階段が続いていた。掘削したようだが、微かに水音もするような。


「……洞窟? 」


 静かに黒曜は頷く。


「この奥に、己穂の刀がある。……分かっていて鞘を持ってきた訳では無かったのか」


「予感というか。青ノ鬼の未来視もあったんだけど」


 時に勘とは、 的確に導いてくれる物らしい。私にそんな大層な物があったとは思わなかったが、己穂の生まれ変わりだから頭の隅を掠める記憶くらいはあるのかもしれない。そう言えば……黒曜と再会した時も、そんな事が合ったような。


「怖いなら、手を繋ぐといい」


 地下への階段を惚けて見つめていた私を、怖がっていると思ったらしい。優しく目を細め、黒曜は地下から手を差し伸べる。絶対に智太郎の怒りを買うだろうと躊躇うも非常時だと言い訳をして、白い掌に自身の手を重ねた。手摺はあるが細い木製で頼りない。大ノ蛇栄螺堂の時のように滑るのは嫌だし。ひんやりしているのに、私の体温を受け入れてくれるような掌だった。滑らかな白い肌は、戦う為に銃を構え続けた智太郎の掌とは違う。

 私はそれでも、黒曜と共に地下へと降りた。地上よりも更に深く冷たい闇へと歩む。凍えるように湿った空気が肌を撫で、鳥肌が立つ。燐光の燈が無ければ方向感覚すら失われる闇に、私は自然と生力を視る為の瞼の裏を思い出す。生力の若葉色の光が視えない闇は、そのまま死の世界だ。又は、私の認識出来ない妖力。そう考えると、死と妖力は似ている。だが妖力が妖という生き物の一部なのに対し、死は何も与えてくれず奪うばかりだ。私達は、死に対し無力だと言うのに、黒曜はどうして半不死と呼ばれるのだろう。闇は答えないが、黒曜が漆黒を纏う理由が分かった気がした。


「この奥だ」


 地上で聞こえた水音はやはり洞窟から滴る水音だったらしい。こんなに冷えた地下でも、隣の黒曜は寒さを感じないかのように落ち着いているが、吐く息は白い。私と違う生き物であるはずなのに、今は変わらないようにすら見える。階段を降りたのに繋いだ滑らかな掌を手放す事が出来なくて、誤魔化すように黒曜が見据える先を私も見つめた。

 ほんのりと闇から、金の輝きが見える。……あの光は、過去夢で私を導いた光にも似ていた。胸に抱く白い鞘は共鳴するように、同じ金の光を宿す。ああ……やっぱり。あの岩肌の穴の奥にあるのは、己穂の刀なんだ。

 私は覚悟したはずなのに、寒さでは無く恐怖で身体が震える。震えは手を繋ぐ黒曜にも伝わり、黒曜はひんやりした掌で私の頬を撫でる。見上げると、秀眉を下げ包み込むように微笑むかんばせは、妖の者である証の細い瞳孔が瞬く。私が幼い頃と同じように慈愛が伝わってくるのに、心臓が爪を立てられたように抉られる。胸を巣食う痛みによって、私は頭の片隅が晴れる。そうだ……私は貴方の事が好きんだ。


「己穂の記憶を思い出す前に、私は黒曜の事が知りたい」


 気がつくと私は、目の奥に衝動から生まれる刺激と共に視界が歪んでいた。溢れ出す衝動は答えを私自身に告げないまま、涙になる。何故、こんなに胸が痛むのか。私の内に眠る鋭い牙で、自分自身を破壊してしまうような衝動は何なのか。身体がぐらつき、膝を着いてしまう。息が……出来ない。

 私と同じように膝をついた黒曜は、漆黒の翼で私を包み込む。逞しいかいなに抱かれた私は、白檀の香りと共に胸の内の、黒曜の強い鼓動を聞いた。伝わる温かさに、黒曜が秘めていた体温を知る。柔らかな漆黒の翼が作り出した私を守る小さな空間に、肺が軽くなって深く息が吸える事に気がついた。私は、この包むような温もりが懐かしいと思った。きっと、黒曜は何度もこうして私を抱き締めてくれていたんだ。


「全てを知ったら……千里は知らない方が良かったと後悔する事になる」


 震える声音で告げられた言葉に、大ノ蛇栄螺堂で黒曜が躊躇うように憂いを帯びた睫毛を伏せた事を思い出す。あの時、深い黒色の瞳に宿る躊躇の奥に存在した感情の答えは、黒曜の鼓動の奥にある。


「もう、私は知らないままには耐えられない。だから、教えて。他でも無い貴方の事を」


 私は黒曜に乞い、逃げるように痙攣する唇を、引き結んだ。黒曜は抱き締める腕の力を緩め、私を見つめる。

  深い夜に浮かぶ月明のような瞳は、私への冀求ききゅうに耐えかねるように細められた。私は同じ冀求を智太郎に抱いている。だから……黒曜が抱く冀求が本当は私に対してでは無い事にも気がついてしまった。

 それでも黒曜は、私の言葉に答えを出す。


「いいだろう。……私の全てを知ればいい」


 黒曜は儚い微笑で、私の瞼を閉じさせる。額に掠めた感触は……黒曜の羽にも似ていた。


 かつて黒曜自身の目尻で煌めいていた暁光を受けた涙は、私の元へと再び舞い戻り、金の光となって闇の中を照らす。

導きのまま、私は今度は自分の意思で闇の先を望む。


――全てを知る為に。

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