第八十九話 道化
【午後七時三十分】
千里
癒刻時計塔前にて
《千里視点》
午後七時三十分になった。私は紋様のある四角い紙に触れると天灯から手を離す。
これから……十五分後。本当の刻限が訪れる。私は身体が、ピリピリと緊張の波によって侵略されるのを感じた。救いを求める様に私は鞘を抱いて、三つの天灯から術式が放たれた方角をそれぞれに見つめた。だけど私は……彼らが来る前に、黒曜と会わなければならない。己穂の記憶の鍵は、黒曜が持っている筈だから。
【午後七時三十分】
美峰 綾人
ガス燈前にて
《綾人視点》
「綺麗だね」
夜空を見上げて微笑む美峰は棗型の黒い瞳に、浮かんでいく天灯の若葉色と金の光を映す。幻惑された俺は天灯なんかより、美峰の方が綺麗だという陳腐な
美しく溜息を白に染める美峰の横顔に、俺は昼間の出来事を思い出す。美峰にバレたら、どやされるのは間違いないので、遠距離透視で知った事は絶対に言えない。美峰と千里が貸衣装屋に行った時……あんまりに遅いので、気になってしまったのだ。あくまで無意識に遠距離透視が発動してしまった、と誰に言う訳では無いが……言い訳をさせて頂きたい。断じて覗きではありません。
少々コントロールを失った遠距離透視の発動感覚に覚えた焦りを、饅頭屋で真剣に菓子を選ぶ黎映と、連れ回されて疲労に放心している智太郎に隠した。二人の姿が霞むと、始めに視えたのは、瑠璃色の長着と胡粉色の袴を着た、くるくると喜びに回る美峰だった。少々ネタバレなので美峰と会ったら驚く振りをしなくてはと思った。実際に会ったら無意味な演技など、小さく微笑む美峰に拐われてしまったのだが。貸衣装屋の店内で、美峰と千里は楽しそうに何か会話を続けていた。遠距離透視では声までは聞こえないので、内容までは分からない。
楽しそうに会話をしていた筈の、美峰の表情が不意に翳る。艶めく黒髪のベールの影……青百合のピアスが青い菱形の虹を反射する。瞬く棗型の黒い瞳へ、静けさと共に与えられた。自分自身の心臓の奥、唸る鈍痛に崩壊を始めた洞窟の内部。縋っていた安寧がついに、その手を離れる。聞こえない筈の、美峰の声がする。
『さっきも、青ノ鬼と入れ替わって……』
『……私は身体の一部の権利を既に……』
『……青ノ巫女姫になったのは自分のせいだって、これ以上悔いて欲しくない。……後悔……綾人が私から離れる事を選んだら……』
途切れ途切れにしか聞こえなくても、開花し始めた遠距離透視の聴覚で理解するには十分だった。感じていた疑念は明確に答えを出した。美峰は、青ノ鬼が身体の権利を奪おうとしている事を自分に隠していた。美峰が想いを告げ、青ノ巫女姫としての
美峰を、離すわけが無いだろ!!!
朱の空の化け物に喰われたように姿を消した母親は生きていた。例え俺を隔絶された、人ならざる道へ導く使者だったとしても、生きているだけで願い続けていた祈りが叶ったように嬉しかった。しかし突然、お前は
懐かしい香りのする陽だまりから現れた美峰は、冷たい暗闇に蹲る俺の手を取り人の世へと再び歩ませてくれた。確かに、俺は美峰に青ノ巫女姫の運命を選ばせてしまった事を後悔していた。俺なんかを好きにならなければ、もっと平穏な人生を送れた筈だから。だが美峰を手放せる程……俺は人が出来ていない。悲惨な運命事、俺を選んでくれた怯える美峰を、自分勝手だとしても壊れる程に抱き締めたくなる。恨まれたとしても絶対に逃がしたりしない。俺以外には決して見せない、縋るような切ない寂寞に揺れる棗型の黒い瞳も。包み込むように穏やかに微笑む、艶を受けた唇も。今更、甘い毒のような安寧を与えて置いて逃げれるとでも? 何時か美峰自身が後悔して許しを乞うても、俺が美峰を手放す事など有り得ないというのに。
問題は、青ノ鬼だ。青ノ巫女姫の身体の権利を奪うなど 、俺の母親であり前青ノ巫女姫の、大西玲香からも聞いたことが無い。弐混神社から出ることも無く、代々青ノ巫女姫の身体を渡ってきておいて、今更魔が差したとでも言うのか。美峰の身体から青ノ鬼の魂を放つ事が出来ない以上、俺が出来るのは……悔しいが、抑える様に泣いた美峰を抱き締めた千里と変わらない。何時も通りに道化を演じて、美峰の心の礎を築く事。愚かだろうが、決して俺が離れて行くわけが無いと分からせるしか無い。
「綾人見て、若葉色の光が空でぶつかった……あ、消えちゃった」
美峰の言葉に空を見上げる前に、俺は温泉街の異常に気がつく。すれ違う度に気を使わなければ行けない位には、歩いていた観光客の姿が無い。これが人払いだとは分かっているが、先程まで絶え間なく聞こえていた見知らぬ人々の幸せな会話が消えたと思うと、冷たい
「ほら、次は金色だよ。術式って凄いんだね、夜空に綺麗な模様を作れるんだから。……夜空が金の蜘蛛の巣に
「美峰、見とれてる場合じゃないって」
物陰から目を離し、夜空に手を伸ばす美峰に向き直る。直ぐに癒刻時計塔へ向かわなくては。千里を守る為に、自分達は癒刻へ来たのだから。美峰は俺の言葉に夜空へ向けた両手を瑠璃色の袖を寒風に靡かせて下ろす。ガス燈の幻想的な金の光の下……美峰の横顔が照らされている。艶のある黒髪から青百合のピアスが垣間見える。口元に湛える微笑に、胸がざわつく違和感を覚える。……嘲笑を僅かに滲ませたような口元は美峰の表情では無い。
「……
顔を顰めた俺は即座に距離を取り、背負うケースを下ろし、ファスナーに手をかける。そこで気づいた。俺は、美峰の身体を傷つけられない……!
「やあ、綾人。愚かな
高い男の声で振り向いた青ノ鬼は、やはり左目が青く爛々と燃えるようだ。最悪の形で恐れは実現してしまった。まさか、青ノ鬼は身体の権利を手に入れたのか!? 美峰の意識は今、何処に……! 青ノ鬼は憎悪すら感じる荒々しい重圧を纏い、動けない俺を
「何故今現れた! 」
青ノ鬼は美峰の
「今でなくてはならないからだ。それ以外に理由なんて無い」
「美峰を返せ! 」
「お前の愚かさには辟易とするよ。弱者の戯言など聞くはずが無いだろ」
青ノ鬼は、美峰の
「智太郎が居るのは……確か、偉人像だったか。早くしないと千里の元に着いてしまうな」
智太郎が危ない……! 何故千里の元へ向かうのを、阻もうと言うのか。だが、俺は言葉を発する事すら出来ず無力だ。もう二度と翔の様に誰も死なせない為に、俺は強くなると決めたはずなのに、美峰すらも取り戻せない。血の滲むような努力を積み重ねてきたはずなのに、この手は誰も救えないのか……! 絶望の闇に意識が堕ちていく寸前……俺は、啜り泣く美峰の声を確かに聞いた。
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