第八十八話 正絹の夜空
【午後七時二十二分】
千里 智太郎
川沿いにて
《千里視点》
智太郎は私を抱いたまま疾走を続ける。ガス燈の幻想的な金の光すらも切り裂く様に、花緑青の陽炎は一陣の風となる。温泉街の川沿いを疾走し続けると、やがて温泉街の明かりは
「……不安か」
智太郎は妖化を解き、ホワイトグレーのファーが僅かに揺れるフードを下ろす。智太郎が手を重ねた事で、私は無意識に智太郎のダウンコートの袖を掴んでいたのを理解した。見慣れた花緑青の双眸が揺れるのに気が付いて、張り詰めた表情の智太郎も同じ想いを抱えているんだと思った。
「不安じゃないって言ったら嘘になるかも。皆と離れたから……尚更かな」
五人は、黎映と別れ四人に。そして四人は、綾人と美峰と別れ、私と智太郎の二人になった。雪道を歩き、刻限が近づく度に誰かが居なくなって行く。まるで、段々と親しい人に置いて逝かれる様で。最後の二人なのに、智太郎に置いて行かれるのは正直耐え難い。そんな筈が無いのに、もしこれが本当に人生の縮図で、智太郎に置いて逝かれたりしたら……と考えただけで、私はひび割れた硝子箱の中、心ごと潰されて壊れそうになる。私が真に恐れていたのは、智太郎に憎悪される事よりも……智太郎に置いて逝かれる事だ。私は死の香りが鼻先を掠める程に近づいている事に気が付き、呼吸すら否定したくなる。恐れていた孤独から、智太郎は私を救ってくれた。今は、他の誰でも無い智太郎が居なければ……私はより深い孤独に堕ちるんだと知る。私は孤独の深淵に堕ちる位なら、死へ逃げたくなる。だけど、私は死ぬ訳にはいかない。智太郎を死なせる訳にはいかないのだから。
「ずっと、一緒に居られたらいいのにね」
軽口の様な言葉では、全てを伝えられない。臆病が原動力の私には、恐怖を口に出すことすら出来ない。その癖に隠す事も出来ずに、私は上手く笑えない。
「……お前、また泣きそうな顔してる」
私は心を伝える事すら出来ないのに、智太郎は耐えるように眉根を寄せて気づいてくれる。頬に触れた暖かな硬い掌に、私は本当に視界が滲んでしまう。愛しい掌に、零れた私の涙が伝う。
「お願い、智太郎……絶対に死なないで」
私は掌の暖かさに耐え切れなくて、私は涙腺が壊れてしまう。冷たい風に揺れる、ふわふわとした白銀の髪も。私の告げた言葉に更に険しく眉根を寄せる、麗しい少女の様な
「千里を孤独にして、死ねるかよ!! 」
解き放たれた智太郎の叫びは私を貫き、抱き締められた身体をも震わせた。智太郎の胸の猛火の鼓動も、痛い程に私を逃がさない腕の力も確かに存在していた。智太郎の存在は私の胸の枷を外す。
「もう、私を独りにしないで……」
私も縋り付く様に智太郎を抱擁する。私より大きな背中に安堵して智太郎の胸に顔を埋める。濡れた頬は智太郎のダウンコートに撫でられる。
「当たり前だ」
何時も通り力強く断言する智太郎の言葉は、私の心臓に力を与えてくれる。見上げた私は智太郎の肩の向こう……癒刻時計塔の針が、七時二十四分を示すのが見えた。時計塔はほぼ橋を渡った目前だ。このまま、時間を忘れようか。そう思ったのに、智太郎の温もりは離れていってしまう。
「……そろそろ俺も行く。千里が行って欲しく無いなら、天灯を諦めてもいい」
寂寞に口元を歪ませて、智太郎は微笑する。欲深い私は、温もりを手放した事を後悔している。苦笑して、私は首を横に振る。
「智太郎は、偉人の像の前に向かうんだよね。……あ、天灯返さなきゃ」
私は風呂敷に包まれた鞘を抱き直し、袖に仕舞っていた天灯を一枚渡す。黎映に渡された後悩んだ結果、袖に仕舞う事にしたのだった。美峰も同じく袴の袖に仕舞っていた。今頃はもう取り出しているだろうか。智太郎に畳まれた天灯を渡すと、ふと不安になる。ここは時計塔に近い橋。偉人の像とはどのくらい離れているのだろう。
「……智太郎、間に合う? と言うか偉人像には昼間行ったっけ」
「最悪また疾走するから、余裕。大体の場所は分かってる、そんなに複雑な道じゃない」
「気を失ってた私のせいだよね……ごめん」
私と黎映が気を失っていたから、智太郎は場所を確認出来なかったんだ。自責する私の頭を智太郎は撫でる。
「別に千里のせいじゃない。確認するまでも無い、あれだ」
智太郎が指さした方角には杉林の隙間、偉人像の一部が見えた。やはり離れてはいるが、日が落ちても巨大な偉人像を確認できた。智太郎の居場所が見えるなら、闇深い空の下でも大丈夫だ。だが先程はあんなに暗く思えたのに目が慣れてきたのか、澄んだ夜空は、
「直ぐにまた会える」
「うん、待ってる」
包み込むように微笑む智太郎に、私は微笑を返す。涙が乾いた頬の感触を、寒風が拐う。離れても、私達は同じ夜空の下にいる。……だから、もう怖くない。
智太郎が花緑青の陽炎を纏い疾走するのを見送ると、私は袖から天灯を取り出し、風呂敷に包まれた鞘ごと抱きしめる。踵を返し橋を渡る。硬い雪に粉雪が振り積もった白い地面は、雪よけを付けた草履の巻を埋めるかの様に歩みを邪魔する。橋の下、流れる川は酷く冷たい筈。落ちてしまったら一人では上がれず、最悪流されて死んでしまうかもしれない……と考えると掌に冷や汗が滲んだ。
緊張を越えて、私は星灯と照明を頼りに癒刻時計塔に辿り着く。見上げると、ライトアップされた癒刻時計塔はやはり大きかった。真下すぎて、ローマ数字の文字盤が見えにくいのも同じだ。白い雪が濡羽色の木板を覆う様に、足元に張り付いているのは変わらないが、昼間とは印象がまるで異なる。平穏な観光場所だと思っていた癒刻時計塔は、夜空に包まれると隠されていた陰影が濃くなる。足元に立つ人間なぞ、濡羽色の巨獣に取っては意に介す事すら無いだろう。それなのに与えられる畏怖は私を縛り付けるのだから、癒刻の人々を護ってこれた訳だ。 石垣は私の背よりも高い。正面には内部へ入るための木製の両扉があるが……勿論鍵が掛かっている筈だ。入る用事なんて無いのだけれど。
周りを見渡すと、覚えのある積雪ベンチが目に入って、思わず口元が緩んでしまう。雪が積もっているのに、黎映を無理やり座らせたのは少々反省が必要だろうか。
川岸へ向き直ると、黒い鉄の柵があった。ここに天灯を結び付けるのが良いだろう。私は風呂敷に包まれた鞘を置き、天灯を結び付けると、青緑色の時計の帯留めを確認する。七時二十七分。あと三分で天灯を上げなくては。
だが皆よりも先に、私には会わねばならぬ存在がいた。聞きたい事も、確かめたい事も抱えきれない程ある。黎映の未来視が導いた、黒曜との再会の刻限は……肌で感じる程に迫っている。
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