第八十八話 正絹の夜空


【午後七時二十二分】


 千里 智太郎

 川沿いにて

          

 《千里視点》



 智太郎は私を抱いたまま疾走を続ける。ガス燈の幻想的な金の光すらも切り裂く様に、花緑青の陽炎は一陣の風となる。温泉街の川沿いを疾走し続けると、やがて温泉街の明かりはまばらになっていく。幻想的な金の光で出来た砂糖菓子の様な世界を抜ける。私達を待つのは恐れていた闇深い空と、深雪が降り積もる銀世界だった。粉雪はいつの間にか止んでいた。同じデザインの橋が渡された川沿いは、確かに温泉街へ続いているのに、今は杉林を切り開いた様な雪原の先……瓦屋根に雪冠を被った、癒刻時計塔だけが私達を見下ろす。あと少し近づけば、その足元へ辿り着けるはず。時計塔の針は、午後七時二十二分を指していた。智太郎はある橋の前で立ち止まると、私を下ろす。離れた温もりに一層身体が冷える気がする。


「……不安か」


 智太郎は妖化を解き、ホワイトグレーのファーが僅かに揺れるフードを下ろす。智太郎が手を重ねた事で、私は無意識に智太郎のダウンコートの袖を掴んでいたのを理解した。見慣れた花緑青の双眸が揺れるのに気が付いて、張り詰めた表情の智太郎も同じ想いを抱えているんだと思った。


「不安じゃないって言ったら嘘になるかも。皆と離れたから……尚更かな」


 五人は、黎映と別れ四人に。そして四人は、綾人と美峰と別れ、私と智太郎の二人になった。雪道を歩き、刻限が近づく度に誰かが居なくなって行く。まるで、段々と親しい人に置いて逝かれる様で。最後の二人なのに、智太郎に置いて行かれるのは正直耐え難い。そんな筈が無いのに、もしこれが本当に人生の縮図で、智太郎に置いて逝かれたりしたら……と考えただけで、私はひび割れた硝子箱の中、心ごと潰されて壊れそうになる。私が真に恐れていたのは、智太郎に憎悪される事よりも……智太郎に置いて逝かれる事だ。私は死の香りが鼻先を掠める程に近づいている事に気が付き、呼吸すら否定したくなる。恐れていた孤独から、智太郎は私を救ってくれた。今は、他の誰でも無い智太郎が居なければ……私はより深い孤独に堕ちるんだと知る。私は孤独の深淵に堕ちる位なら、死へ逃げたくなる。だけど、私は死ぬ訳にはいかない。智太郎を死なせる訳にはいかないのだから。


「ずっと、一緒に居られたらいいのにね」


 軽口の様な言葉では、全てを伝えられない。臆病が原動力の私には、恐怖を口に出すことすら出来ない。その癖に隠す事も出来ずに、私は上手く笑えない。


「……お前、また泣きそうな顔してる」


 私は心を伝える事すら出来ないのに、智太郎は耐えるように眉根を寄せて気づいてくれる。頬に触れた暖かな硬い掌に、私は本当に視界が滲んでしまう。愛しい掌に、零れた私の涙が伝う。


「お願い、智太郎……絶対に死なないで」


 私は掌の暖かさに耐え切れなくて、私は涙腺が壊れてしまう。冷たい風に揺れる、ふわふわとした白銀の髪も。私の告げた言葉に更に険しく眉根を寄せる、麗しい少女の様なかんばせも。二対の雪の結晶の様に繊細な睫毛も。闇に決して沈まない花緑青の双眸が見開かれ、私に享受する強い想いも。告げる言葉を乗せかけた震える唇も。このまま、私の全てであって欲しい。この掌に触れる事すら出来なくなるなんて、本当は考えたくすら無いのに。温もりを確かめる為頬に触れる智太郎の手に、私の手を重ねると、智太郎は顔を歪めて私を抱き締めた!


「千里を孤独にして、死ねるかよ!! 」


 解き放たれた智太郎の叫びは私を貫き、抱き締められた身体をも震わせた。智太郎の胸の猛火の鼓動も、痛い程に私を逃がさない腕の力も確かに存在していた。智太郎の存在は私の胸の枷を外す。


「もう、私を独りにしないで……」


 私も縋り付く様に智太郎を抱擁する。私より大きな背中に安堵して智太郎の胸に顔を埋める。濡れた頬は智太郎のダウンコートに撫でられる。


「当たり前だ」


 何時も通り力強く断言する智太郎の言葉は、私の心臓に力を与えてくれる。見上げた私は智太郎の肩の向こう……癒刻時計塔の針が、七時二十四分を示すのが見えた。時計塔はほぼ橋を渡った目前だ。このまま、時間を忘れようか。そう思ったのに、智太郎の温もりは離れていってしまう。


「……そろそろ俺も行く。千里が行って欲しく無いなら、天灯を諦めてもいい」


 寂寞に口元を歪ませて、智太郎は微笑する。欲深い私は、温もりを手放した事を後悔している。苦笑して、私は首を横に振る。


「智太郎は、偉人の像の前に向かうんだよね。……あ、天灯返さなきゃ」


 私は風呂敷に包まれた鞘を抱き直し、袖に仕舞っていた天灯を一枚渡す。黎映に渡された後悩んだ結果、袖に仕舞う事にしたのだった。美峰も同じく袴の袖に仕舞っていた。今頃はもう取り出しているだろうか。智太郎に畳まれた天灯を渡すと、ふと不安になる。ここは時計塔に近い橋。偉人の像とはどのくらい離れているのだろう。


「……智太郎、間に合う? と言うか偉人像には昼間行ったっけ」


「最悪また疾走するから、余裕。大体の場所は分かってる、そんなに複雑な道じゃない」


「気を失ってた私のせいだよね……ごめん」


 私と黎映が気を失っていたから、智太郎は場所を確認出来なかったんだ。自責する私の頭を智太郎は撫でる。


「別に千里のせいじゃない。確認するまでも無い、あれだ」


 智太郎が指さした方角には杉林の隙間、偉人像の一部が見えた。やはり離れてはいるが、日が落ちても巨大な偉人像を確認できた。智太郎の居場所が見えるなら、闇深い空の下でも大丈夫だ。だが先程はあんなに暗く思えたのに目が慣れてきたのか、澄んだ夜空は、鉄紺てっこん色の正絹シルク金剛石ダイヤモンドをばら蒔いたかの様に瞬いているのがよく分かった。東の空で強く耀くのはオリオン座。鼓星つづみぼしとも言うのだと聞いた事があった。夜空は暗くなんか、無かった。孤独を深めるどころか私達を照らしてくれているのだから。正絹シルクで瞬く金鉱石ダイヤモンドを戴いて、歩み始めた智太郎は私を振り返る。寒風で粉雪パウダースノーを香り無く舞い上げる銀世界も相まって、神話から訪れた銀の使者が帰路に着く様だった。だけど、智太郎はまた私の元へ戻るのだ。


「直ぐにまた会える」


「うん、待ってる」


 包み込むように微笑む智太郎に、私は微笑を返す。涙が乾いた頬の感触を、寒風が拐う。離れても、私達は同じ夜空の下にいる。……だから、もう怖くない。


 智太郎が花緑青の陽炎を纏い疾走するのを見送ると、私は袖から天灯を取り出し、風呂敷に包まれた鞘ごと抱きしめる。踵を返し橋を渡る。硬い雪に粉雪が振り積もった白い地面は、雪よけを付けた草履の巻を埋めるかの様に歩みを邪魔する。橋の下、流れる川は酷く冷たい筈。落ちてしまったら一人では上がれず、最悪流されて死んでしまうかもしれない……と考えると掌に冷や汗が滲んだ。

 緊張を越えて、私は星灯と照明を頼りに癒刻時計塔に辿り着く。見上げると、ライトアップされた癒刻時計塔はやはり大きかった。真下すぎて、ローマ数字の文字盤が見えにくいのも同じだ。白い雪が濡羽色の木板を覆う様に、足元に張り付いているのは変わらないが、昼間とは印象がまるで異なる。平穏な観光場所だと思っていた癒刻時計塔は、夜空に包まれると隠されていた陰影が濃くなる。足元に立つ人間なぞ、濡羽色の巨獣に取っては意に介す事すら無いだろう。それなのに与えられる畏怖は私を縛り付けるのだから、癒刻の人々を護ってこれた訳だ。 石垣は私の背よりも高い。正面には内部へ入るための木製の両扉があるが……勿論鍵が掛かっている筈だ。入る用事なんて無いのだけれど。

 周りを見渡すと、覚えのある積雪ベンチが目に入って、思わず口元が緩んでしまう。雪が積もっているのに、黎映を無理やり座らせたのは少々反省が必要だろうか。

 川岸へ向き直ると、黒い鉄の柵があった。ここに天灯を結び付けるのが良いだろう。私は風呂敷に包まれた鞘を置き、天灯を結び付けると、青緑色の時計の帯留めを確認する。七時二十七分。あと三分で天灯を上げなくては。正絹シルクの夜空を染める結界は、一体どんな色なのだろうか。やはり若葉色なのだろうか、と想像する。天灯を上げれば……また、皆と再会できる。

 だが皆よりも先に、私には会わねばならぬ存在がいた。聞きたい事も、確かめたい事も抱えきれない程ある。黎映の未来視が導いた、黒曜との再会の刻限は……肌で感じる程に迫っている。



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