第八十五話 傷の湯


【午後七時二分】


 千里 智太郎 美峰 綾人 黎映

 傷の湯にて

        

 《千里視点》



 漸く腰を下ろせた……と荷物を下ろす綾人を微妙な心持ちで見つめた。私と美峰は足湯に入る為、着物と袴の裾をそれぞれ濡れない様に上げようとしたのだが、慌てた綾人から強くストップがかかる!


「ちょっとまったぁ!! 黎映、皆のタオル買ってきて!! 」


 綾人はピン札なんてなんぼのもんじゃい!と言わんばかりに、混乱する黎映へ財布から取り出した二千円を押し付ける。


「な、何枚ですかね」


「馬鹿、五枚だよ! 黎映もられたくなければ激速で宜しく! 」


「よく分かりませんが、取り敢えず急いで買ってきます! 」


 黎映は雪道にもたつきながらも踵を返して、タオルを買いに走った。


「もう何なのよ、綾人。タオルは確かに忘れてたけど、そんなに慌てなくても」


 口を尖らせる美峰の手を袴の裾から離させると、綾人は追い詰められた様に真面目な顔を作る。


「タオルが来るまでまだ足湯入んないで! 美峰はまだ袴だから、裾はゆとりあるけど……膝上はタオルで隠さないと。ダブルデートの時の失態を思い出せって! 」


 そう言うと何故か綾人は私、智太郎の順に一瞥し、再び美峰に向き直る。美峰は理解した様に目を細める。


「ああ……千里ちゃんの太もも? 」


「言うんじゃないよ、それを」


 綾人は絶望に包まれた様に顔を強晴らせる。私はようやく意味を理解し火照った頬を押さえる。ダブルデートの時、アパレルショップで美峰に洋服を選んで貰ったのだが、短すぎるワンピースを選んでしまい、私が試着した時に気づいた時にはもう遅い。美峰により、あれよと男子二人の目に晒されてしまったのだった。目撃者の綾人を、智太郎は嬲り殺さんばかりだったとか。美峰は軽蔑する様に綾人を睨む。


「最低なんですけど」


「ええ!? なんでだよ、気を使いに使った結果だろ!? 」


「女心的には逆に削られてますけど。もうちょっと上手くやらなきゃね。……まあ私が怒らなくても、そろそろ制裁が下るから」


 冷えた笑みを浮かべる美峰の代理者の様に、恐ろしい微笑を浮かべる智太郎は綾人の首に右腕を回す。勿論絶対零度の殺気を纏いながら。冷酷に細められた花緑青の瞳が、青ざめた綾人に標的を定める。


「……覚悟は出来てるんだろうな」


「出来てません。と言うか、何で俺ばっかり? 」


 諦めた様に苦笑いを浮かべる綾人はお約束の様に智太郎にそのまま首を締められる。綾人の顔が本当に血の気が引いていくのを見て、我に返った私は慌てて智太郎の腕を掴む。


「ちょっと、手加減忘れてるから! と言うか解除して……! 」


 中々智太郎の力が強い為、私では無理かと絶望した時、黎映の声がする。智太郎の腕が緩むのを見て、心から安堵した。


「皆さん、お待たせ致しました! 」


「おお命の恩人よ……」


 タオルを抱えた黎映が到着すると、綾人はまるで天国からの使者が来たかの様に深呼吸する。タオルを受け取り皆足湯に入る。勿論、私と美峰は裾を上げて膝上にタオルをかけて。温泉特有の硫黄の香りと、雪道で冷えて悴んだ足先がじんわりと温かさに解されて息を吐く。


「温まる……やっぱり温泉街に来たからには、浸からないとね」


「後、十分も無いけど」


 水を差す様に、右隣に座る智太郎が私を一瞥する。


「分かってる。私は、時計塔に二十五分くらいには着かないとだもんね」


 ここは黎映が天灯を上げる場所に近い。徒歩十分程で時計塔に着くはずだから、七時十五分には出なければ。私の青緑色の時計の帯留めは、七時五分を逆さに示している。……そう考えるとここに居られるのは、ほんの僅かな時間だ。少しでも今を味わいたくて、瞼を閉じると……私は違和感を覚えた。寧ろ良く馴染みすぎて、ここで感じるのは異常だ。私の瞼の裏には、若葉色にほんのり輝く生力しょうりょくが視える。それは左隣で話す美峰と綾人も、丁度向かいに座る黎映も、右隣で座る智太郎にも、若葉色の輝きは巡っている。但し、四人とも普通の人間とは違い妖力を持っている為、妖力を含んだ身体の一部が私には認識できず黒い闇に視える。黎映は右目が、智太郎と綾人は身体の内部の一部が、美峰に至っては、青ノ鬼の眠る魂が薄い闇に視える。……魂が視えるなんて今思えば凄い事なのかな。魂だけで存在する青ノ鬼だからこその事態だった。だが、それよりも異常なのは……私達の足元が、四人の生力と同じくらい若葉色に輝いている事だった。


「……生き物でも無いのに温泉が生力をこんなに含んでいるなんて、変」


 美しい輝きとは相反する不気味さすら感じて、瞼を開いた私は黎映の深緋と白の瞳と視線が絡む。目の前の黎映は首を傾げて私に問う。


「……生力が生き物以外に含まれているのはおかしい事なんですか? 」


「そっか。黎映は元々擬似妖力由来術式が専門なんだもんね」


「そうなんです。今回の天灯も生力由来術式自体は後藤殿に制作して頂きまして。元々擬似妖力術式で過去に制作した事があったものを、生力由来術式に置き換えるような形を取りまして」


 それは凄い事だ、と私は目を見張る。擬似妖力術式も生力術式も、結局生力を使用する事は変わらないが構造はまるで違う。生力由来術式は妖の血肉の媒体を使用しないから……さぞ苦労した事だろう。


「多少、生き物以外にも含まれているのはおかしな事じゃないの。例えば花弁だとか、生き物の欠片が水面に落ちれば少しくらい水にも解けるのだから。だけど、この足湯はそんな程度じゃない。……まるで生き物を溶かしたみたい」


 生き物は生力が常に巡っている為流動的だが、足湯の生力は水の流れで動くだけで、基本停滞している。死んだ生き物からは生力はやがて消失すると言うのに……この生力は、死んでいるのに消えない生き物の血の様だ。私は癒刻に伝わる、良心と癒しの力が山に溶けたという烏の逸話を思い出した。これは、そんなに生易しいものでは無いのかもしれない。私はそれ以上詳しく黎映に伝えるのを止めた。癒しの場所なのに、そんな事実は知らない方がいい。視えない幸せだってあるのだ。


「それじゃあ、この足湯飲めば生力を得られるって事!? 凄くない!? 」


 話を聞いていた綾人が突拍子も無い事を口にして、思わず私は微妙に顔が引き攣る。


「やめてよ! 考えただけで気持ち悪い」


 同じく顔を引き攣らせた美峰が私の心情を代弁してくれる。全くもって同意だ。


「だから『傷の湯』なんだろうな。普通の人間が浸かるだけでも多少効果があるんだろうから」


 智太郎が最もらしく頷くが、綾人は思いついた様に企んだ顔をする。


「……で、どうする? 死にそうな程の怪我を負ったら。足湯飲める? 」


「……生き残っても病気になるから止めとけ。」


 智太郎は冷ややかな目で綾人の冗談を受け流した。


「でも真面目な話、綺麗な源泉だったら良いんじゃない? どうですか、金花姫きんかひめ様?」


 懲りずに綾人は真面目な顔をして私に問う。そんなに飲みたいんだろうか……。観光地には源泉水が売ってるくらいだし、無しではないのか。だが生力の視界を持つ私には、正直受け入れ難い。


「効果は多少あると思うけど……夢みたいには回復しないと思うよ」


「っく! 駄目か、リアル回復薬ポーション……」


 大袈裟に悔しがる綾人に、私は苦笑する。停滞しているだけあって、上手く人体には溶け込まない筈だ。普通の食事より多少効果があるかな、という程度だろう。そもそも飲むだけで傷が回復したら、今頃癒刻の源泉水はとんでもなく話題になっている筈だ。昔の妖狩人達にも重宝したかもしれない。


「何を言いますか! 私達には超回復術士がついていますよ! 」


 悪ノリした黎映が、私に両手掌を差し向ける。おお……と綾人もこうべを垂れる為、私はなんだか新興宗教の教祖にでもなった気分になり、複雑に眉根を寄せる。……金花姫と呼ばれているくらいだし、あんまり変わらない!? と気づいた時には愕然とする。


「……万能じゃないからね」


 そもそも私の生力を操る力が万能であったなら、翔を死から助けてあげられた筈。死を覗き込んだ深淵を思い出すと、心の底から己の無力さを痛感する。癒刻の烏の逸話程、私は万能じゃない。そんな時、俯いた私の頭に優しく乗せられた掌があった。智太郎だった。


「黎映、早く天灯の説明をしろ」


「はっ、そうでした! 申し訳ありません」


 やはり足湯の温かさは人を駄目にしてしまうらしい。黎映も足湯には敵わないらしい。


「ついでに、そろそろ上がる? 」


「そうだね……名残惜しいけど」


 美峰の言葉に私は諦めて足湯から上がる。皆も冷たい現実世界で出来た靴を履くと、傘を再び差す。黎映は風呂敷を開いて皆に向き直る。一同は息を呑んで、面紗の下の深緋と白の双眸に向かい合った。



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