第八十六話 黎


【午後七時十一分】


 千里 智太郎 美峰 綾人 黎映

 傷の湯前にて

         

 《千里視点》



「皆様、時間が無いので説明は四秒でさせて頂きます! 」


 険しい顔をした黎映は白い楕円の和紙を持つ。あれが天灯だろう。


「結ぶ!」


 黎映は楕円の和紙から伸びる布紐を指す。この布紐で各場所に結びつけるのだろう。


「開く!」


 黎映は楕円の天灯は高さ50cm程に、張りのある紙の音を立てて広がる。後藤が書いた達筆な筆書きが一面に書かれている。生力由来術式を装填しているのだ。


「触れる!」


 黎映は天灯の楕円のワイヤー下部に細い糸で繋がれた、紋様のある四角い紙を指す。そこに触れる事が生力由来術式の発動条件と言う訳だ。通常の天灯であれば、四角い油紙に火をつける筈。


「離す! で完了です。手を離せば浮かんでいきます。後は皆さんが七時三十分に天灯をあげて頂ければ、人払いの後に民間人に対する結界が発動します」


「おお、簡単!! タイミングだけ気をつけないと」


「良かった、生力由来術式なんて始めてで……そもそも術式自体……おっと」


 感動した綾人は拍手をし、うっかり口を滑らした美峰は口を塞ぐ。黎映に対しては、一応綾人と美峰は擬似妖力由来術式を扱う、妖狩人の若手と言う事になっている筈。擬似妖力術式由来が専門だとしても、生力由来術式に触れる機会くらいある筈だ。


「ですよね! 私も初めてなんです」


 だが口元を綻ばせた黎映が深緋と白の双眸を輝かせて同意する為、皆内心ずるりと滑る。黎映は絶対に例外だ。黎映の様に家門に自由を奪われでもしない限り……通常の妖狩人ならば、戦いの中で何時かは必要になる筈だから。私は黎映に対して疑問符で一杯になる。


「黎映は、後藤と天灯を作った時に初めて生力由来の術式に触れたの? 」


「そうなんです。生力由来術式は、擬似妖力由来術式と違って美しくて不思議ですね! 」


 世界を、未来視という掌の水鏡で感じ続けてきた黎映には、尚新鮮に感じるのだろうと、微笑ましく思えた。それにしても後藤が協力したとは言え、初めてで新たな生力由来術式を生み出してしまうとは……黎映も誠に負けず天才なのかも知れないと驚愕した。将来、桂花宮家の当主になる身としては放っておけない逸材だ。私は風呂敷に包んだ鞘を握り、腕を組んで頷く。


「スカウトしたいかも……」


「それって私の事ですよね! 私、千里になら」


「却下だ。大体お前、実際に戦ったことあるのか? 」


 目をキラキラと輝かせて、私に同意しかけた黎映を黙らせたのは智太郎だ。疑うと言うよりは、断言するように黎映に問う。


「人と戦った事はありません。ですが、妖とならあります」


「妖と戦うのと、人と戦うのは違う。お前にとって感じる命の重さも違うだろう。妖と同化した者なら尚更だ。兄だから、自分を殺さないとでも? お前は甘すぎる」


 黎映は、はっきりと傷ついた顔をする。私は胸に棘をさされた様に鋭く痛み、智太郎を睨んだ。


「智太郎、言い過ぎなんじゃないの」


「俺が言わなければ、誰が黎映に真実を言うんだ」


 智太郎はあくまで冷静だった。智太郎は黎映を心配しているんだと気が付き押し黙る。黎映を敵だと思っているならば、そんな事は言わないだろう。……全く、不器用なんだから。私が溜息をついたのとほぼ同時に、黎映は真っ直ぐに智太郎を見返す。面紗の下の深緋と白の双眸に宿るのは、玲瓏な鎖と成した希望だった。


「私は確かに甘いかもしれません。そのまま兄さんに殺されたって文句も言えないでしょう。だけど……私は全てを捨てる覚悟で癒刻に来たのです。私は世界に繋ぎ止めてくれた兄さんを、今度は私が世界に繋ぎ止めると決めたのだから」


 歪な縛の術式で狂わされた伊月家と言う蠱毒のかめから、弾いた夜露は雪月夜の下……世界を繋ぎ止める玲瓏な鎖と成した。黎映は誠を必ず世界に取り戻すだろう。


「なら初心者ビギナー同士、臨界突破で抗おうか」


 綾人は切れ長の青みがかった瞳に闘志を燃やし、黎映の肩に手を乗せる。


「……綾人はそもそも妖とすら戦った事が無いだろ」


「すみません調子こきました先輩方どうかお許しください」


 綾人は一息で謝罪しながら、呆れたような智太郎と困惑する黎映に頭を下げるという器用な事をやってみせる。その小技、別な所に活かしたらいいのに、と私は関心と呆れの中心で眉間を寄せる。


「綾人に負けない様に、私も頑張りますので」


 気を取り直した黎映は綾人にガッツポーズをする。黎映もようやく皆に馴染んで来た気がするのに……刻限は迫るばかりだ。


「もう七時十三分だよ、私達はそろそろ行かないとね。黎映も時計は合わせてある? 」


「私の懐中時計もばっちり七時十三分ですよ、美峰」


 美峰がアイボリーの腕時計を見ながら黎映に告げた言葉に、黎映とはここで一度別れなければならないんだと理解した。黎映の担当場所は川沿いだから。黎映は綾人と智太郎に天灯を渡す。私は告げるべき言葉が見つからないま黎映から天灯を貰う番になる。自然と私は鞘を抱いて天灯に触れた右手に小さく力が入る。


「千里」


 黎映が透けた面紗の下、鼻筋がすっと通った端正な顔立ちに浮かべるのは痛みを呑み込んだ様な微笑みだった。呪いたくなる程に望まぬ痛みを与えられた結果、頭頂部に僅かに黒色を残すばかりの色素の抜けた白い髪が靡く。深緋の右目は妖の瞳孔。白く濁った左目は人の瞳孔なのに、残酷にも世界を映す事は無い。黎、という黒を示す言葉とは裏腹にかつて黒色だった筈の双眸は、瞳に映す世界ごと変わってしまった。黎映の感情を知る私は、伝える言葉の代わりに同じように痛みを呑み込んで微笑みを返す。


「私は千里への想いを簡単に忘れる事は出来ない」


 目を細めた黎映は私の左手を滑らかにその指先で絡ませると、羽が掠める様な白い吐息と共に耳元で囁く。


「だから……想う事を許してください」


 私は僅かに唇が震える。黎映は私の想いも痛い程に理解している。今の私が返せる言葉は一つだけだった。


「……黎映が私に願ってくれていた様に、私も黎映に自由な広い世界を見て欲しいと思ってるの」


 黎映は私に向き直ると、痛みが取り除かれた、混じり気の無い微笑みを口元に湛える。


「やはり千里は、何時も私に必要な言葉をくれるのですね」


 黎映の指先が離れると、見なくても分かる程の殺気が私と黎映を刺す。


「随分堂々と手を出す様になったな、黎映……? 」


 最早浮かぶ感情すら冷えた智太郎が、バチバチと妖力が形となった花緑青の輪郭を持つ陽炎を纏い始めていた。止めるすべの無い綾人と美峰は引いて見つめるばかりだ。


「黎映先輩ったら……だ、大胆……」


「ちょっと……まだ戦いは早いんだけどな……尾白くん」


 どうやら智太郎を止められるのは私しか居ないらしいと気がついて、わざとらしく私は帯留めの時計を確認する。


「あー!! もう十四分だよ、もうちょっとで十五分!! 急がないとだね、智太郎」


 私は急いで智太郎に駆け寄り、何とか笑みを作ると智太郎は意を削がれた様に花緑青の陽炎を押さえてくれる。……本当に良かった。


「……早く行くぞ」


 歩き始めた私達に、黎映は臆する事無く黎映は声を掛けた。


「それでは皆様、後程!! 」


 振り返ると満面の笑みで大きく手を振る黎映が居た。やはり、黎映は中々肝が座っている。私達はそれぞれに手を振り返し黎映に応えた。


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