第八十三話 ありふれた願い

 


「これでお互い様だろ」


 急速に何故智太郎が妖化したのか、理解していく。狐ショールを傷つけた事から始まった、猫耳の等価交換。 何も今じゃなくてもいいと思う……! 反論の言葉を口にする暇なく、手首を離されて肩に軽く合図を送られる。指示通りに降りると、智太郎は立ち上がった。もう良いようだ……と安堵の中に燻りの残香を感じる。だが、急に膝裏と背中に触れられたと思うと私はいつの間にか抱き上げられていた!


「なっ……! 」


 足が地から離れる不安に肝が冷え、温もりを与える智太郎に思わずしがみついてしまう。白銀の柔らかい髪筋がふわふわと眼前に迫る。智太郎の早鐘を打つ心臓を感じる羽目になってしまい、私の心臓も同じ様に壊れた鼓動を打ち続けていて頭が真っ白になる。私を見下ろす赤い双眸は、まだ終わっていない事を伝えるかの様に妖しい底光りをめない。抵抗出来ないまま、私は先程自分が眠っていた布団の上に降ろされて、羞恥で固まってしまう。黎映との出来事が自然にちらつくが、今はそれよりも身の危険に警鐘を鳴らす。目の前には白銀の美しい獣が、私の甘さをご所望だ。


「えと……」


 何とか誤魔化そうと苦笑いをするも、智太郎は勿論逃がしてくれない。私の両手を硬い感触の掌で、既に絡ませている。潤んだ赤い双眸は明確な熱情を浮かべて細められ、唇が開かれると小さく弾けた音がする。先程感じた鼓動と体温はすぐ側に存在した。


「いやか……? 」


「い、いやというか! まだ早いと言うか……! 」


 両手が使えない為、慌てて首を動かす。首を振りたいのか、頷きたい訳じゃないけど混乱のままに、とりあえず動かす。何故か赤い双眸を一瞬丸くした智太郎が、苦笑する。


「別に最後までするつもりないけど……」


 どうやら墓穴を完全に掘ってしまったらしい。私は今きっと赤林檎にも負けず、真っ赤になっている筈。智太郎は優しく微笑しているのに、妖しい魅力を纏ったままなんてどうなっているのだろう。


「千里が秘密を明かすまでは、まだ本当の恋人同士じゃない。そうだろ? ……最後までしても良いって言うんなら別だけど」


「あの……最後までは無しでお願いします」


 おずおずと懇願すると、智太郎は複雑そうに赤い瞳を細める。


「人を何だと思ってるんだ……。確かに何時まで焦らされるのかとは思うけど」


 それでも智太郎は、色んな意味で小さくなるしかない私をゆっくりと押し倒す。見下ろす赤い双眸は、花緑青の瞳とも黎映の深緋の右眼とも違い……深紅の輝きがある気がした。何かに似ていると考えた時に、何時か私が付けた柘榴石ガーネットのブローチに似ているんだと気づく。憂いを含んだ雪華の睫毛に包まれた、柘榴石ガーネットの輝きは黒を内包しているからこそ魅惑的で美しい。白夜月はくやづきの様に透明感のある肌は、麗しい造形を神秘的に彩る。


「智太郎って……綺麗だよね」


 羞恥を誤魔化す様に伝えると、智太郎は柘榴石ガーネットの双眸に負けずに頬を染め上げたと思うと、否定する様に少女の様に麗しいかんばせを顰める。


「馬鹿じゃないのか、お前」


「だって……本当の事だし」


 暫しの沈黙の後、智太郎の白銀の耳がひくついた。私の右手だけ掌を絡ませるのを止めたと思うと、智太郎は滑らかな肌を味わうように袖の下へ右腕をなぞる。同時に首筋を柔らかな髪筋と、その唇で辿られる。体温を纏う羽が肌を掠める様な感触に、ぞわりと身体も心も夢のように麻痺していく。


「千里も綺麗だけど。……それから、可愛い」


 不意に耳元で囁かれた言葉に、高鳴る心臓はいばらに捕らわれる。棘は甘い毒を持って鼓動を支配する。自分が言われると……案外刺さる物なのだ。痺れた心は、本音を手放してしまう。


「智太郎は、どうして私を好きになってくれたの? 」


 私を再び見下ろした智太郎は、柘榴石の双眸を戸惑いながら瞬かせる。


「初めは暗い地下に差した光を求める様に、千里を追いかけただけだったけど……俺は千里が全てになったから、だと思う」


「私が、全て……? 」


 染み渡る幸福に動揺してしまい、瞬く。理解しようと考えてみるも……単純な様で深い意味を持つ理由は難解なクロスワードよりも、私には難しい。

 

「結局黎映には苛つくけど……一つだけ良い事を聞けた。千里が俺を好きになった理由は……俺が千里を孤独から救ったから、なんだろ。お前の味方になって良かった」


 犬歯を見せて笑う智太郎に、私はやっぱり智太郎が好きなんだと再認識して微笑む。私も智太郎が全てなんだと、愛しさに満たされる。


 どうか、時を止めて。

 何も考えず、幸せな時間に満たされていたい。


 ありふれた願いは、願う程に刻限を連れてくるけど……私達は未来でも過去でも無く、限りある今の中。この瞬間を閉じ込める様に、私達は自然に再び唇を重ね……お互いの想いを確かめあった。


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