第八十話 掌の水鏡


 慣れない香りがする。なんだか布団の感触すら、何時もと違うので落ち着かない。というか……何故私は布団にいるのだろう。居心地が悪くて、寝返りを打つ。そこで目を開けると……隣の布団には、すやすやと眠る、鼻筋がすっと通った端正なかんばせがあった。一瞬、瞠目するも……過去夢を視ていた事を思い出す。繊細な睫毛が伏せられた白皙の瞼は、赤い右目だけでなく黎映りえいの残酷な過去ごと眠らせてくれていた。黎映が、姿を消した誠を追う理由は……唯一の肉親だからと言う理由だけじゃない。黎映自身が人として生きる為なのかもしれない。私にとっての味方が智太郎のように……黎映の味方は誠だったんだ。その想いの形は違っても、強さはきっと変わらない。私は黎映をずっと信じきれていなかった。黎映の過去夢を視た今は……どうだろう。黎映は、誠の手を取った。その誠は事実、私と智太郎を利用し裏切っている。重い罪も犯していた。それなのに、黎映を敵だとは思えないのは……同情、なのだろうか。それとも私が、誠と同じ罪を隠しているからなのか。それに、黎映は……。


「……ん……」


 黎映は瞼を震わせて、覚醒する。その双眸はゆっくりと開かれた。鬼の物であった深緋の右目は、玲瓏な光を宿し彼の意思を宿す。もう世界を見ることが出来なくとも、左目も同じ意思が宿っている。


「……な……、千里!? 」


 黎映が瞠目し、白皙の肌がみるみる赤く染まっていくのを見て、何故か冷静な自分に気がついた。こんな状況だと言うのに、どうしてだろう。苦笑してしまう。


「お早う黎映。でも朝じゃないと思うから、変なのかな」


「お、お早うございます……じゃなくて!! 一体何故隣の布団で寝ているんです!?」


「どうしてだろう……私も今起きたばっかりで、状況が全然分からないの」


 黎映は赤い頬を隠すように手で覆うのに、私から視線を逸らそうとしない。僅かに潤んだ双眸は何を期待しているのだろう。


「……まさか、一夜の間違いとか」


「いや、それは無いと思う」


 やっぱり冷静に否定すると、黎映は何故か深く溜息をついて完全に顔を覆ってしまう。……それはそれでショックです、と言う籠った声が聞こえてしまったが……聞こえなかった振りをしてあげた方が良いのだろうか。とりあえず、私は起き上がり部屋を見渡す。一度荷物を置きに来た、旅館の部屋に違いない。

 窓際の椅子には、腕を組んで眠る智太郎の姿があった。恐らく、癒刻時計塔の前で意識を失った私と黎映を、三人で旅館まで運んできてくれたのだろう。私が過去夢を視ている事に智太郎は気がついたのかもしれない。でなければ、私と黎映をわざわざ隣同士で寝かさないだろう。過去夢を視ている時に、きっかけとなった対象の人物と離すのは未知の危険リスクがあると考えたのかもしれない。だが智太郎がこんな状況で眠ってしまうのは、らしく無かった。不穏な影が胸を突く。険しい顔は、あまり良い寝顔とは言えなそうだ。


「そうか……私は千里と共に時計塔の前で気を失ってしまったのですね。右目の痛みのせいでしょうか」


 その声に振り返ると、黎映も思い出した様だった。そのまま布団から起き上がる。


「私は過去夢を視て意識を失っていたのかも。黎映は、もう右目は痛まない? 」


 黎映への問いが、過去夢の中の自分自身と重なる。黎映とは初めて会った訳では無かったんだ。あの時の私は、黎映の事を、何処かの擬似妖力術式の家門から逃げ出して来た半妖の少年だと思っていた。智太郎のように自由を奪われていた存在が居たんだと、心が傷んだ。迎えの電話を掛ける黎映を見て、安心して帰れる場所があったんだと喜んでいたけど……真実は想像よりも残酷だった。


「はい! 千里のおかげで全然痛みません」


 真っ直ぐに笑う黎映は、あの時と同じ言葉を口にする。だけど、私はあの時と同じ様には笑みを返せない。


「黎映は……私の事が好きなの? 」


 癒刻時計塔の下で問うはずだった言葉は、掌に掬う水鏡に映る姿を大きく変えてしまった様だった。未来視の中、その掌で私の想いを視続けてきた黎映は……頬を染めるどころか、呆然とまなこを大きく開く。


「千里が視たのは、私の過去だったのですか」


「……ごめんね、意識した訳じゃないんだけど」


 そう言うと黎映は自身の肩を抱き、膝を抱えて顔を隠してしまう。耳が真っ赤な事に気が付き、何と声を掛けるべきか逡巡している内に、籠った小さな声がする。


「いえ、謝らないで下さい……寧ろ私の方こそ、千里の未来を勝手に視続けていた」


 過去夢の中の黎映が見つめた私は、まるで私じゃないみたいだった。黎映の中の私は、良い所だけで出来た綺麗な想い出の様で……本当はそんな人間じゃないのに。いたたまれなくなり、目を伏せる。黎映は伊月家の暗い檻の中……未来視で感覚した外の世界への憧れと、私を同一化しているだけだ。黎映が暗い檻に捕われる事が無かったら、きっと私を好きになる事も無かった。大蛇と伊月家初代当主である伊月永進えいしんが生み出した、『ばく』の術式は……伊月家を暗い欲望の渦の中へ導いてしまった。彼らの本来の願いとは、大きくかけ離れて……。そこで私は気がついた。黎映は大蛇と永進の本来の願いを知らないのではないだろうか。


「私は、誠が同一化する前の大蛇の過去夢を視た時……伊月家の初代当主、伊月永進と大蛇の願いも知ったの。彼らは、大切な人との永遠とわの別れにより、耐えきれない長い年月に苦しむ妖達を『眠り』で救う為に、『ばく』の術式を作り出した。それが、本当の真実」


「伊月家は……永進と大蛇の本来の意志を、長い時の間で見失っていたのですね」


 黎映が抱えた膝から顔を上げると、苦い感情を湛えた赤い瞳孔が震える。変わり果てた伊月家に縛られてきた黎映にとって、彼らの意志が正しく継がれていたら、と願わずにはいられなかった筈だ。


「大蛇と同化した、兄さんも知っているのでしょうか……」


「そうだと思う。もし正しい意志が伊月家に伝わっていれば、残酷に妖達を犠牲にする事など無かったのかな」


正しい意志を継がせなかった可能性もあります。弥禄の様に暗い欲望に取り憑かれた者ばかりだったのは、安易に想像がつきますから」


 弥禄に長い間自由を奪われていた黎映が重く告げると、暗く淀んだ歴史が、透過されて浮かんでくる様だった。伊月家が正しい形であったのならば、黎映も魔眼を宿す事も無く、誠も力を追い求める事など無かった筈だ。だけど、今癒刻ここで私達が隣に居る時間も存在しなかったと思うと……寂寞せきばくが胸を掠め、残影だけが空虚に残される。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る