第七十九話 解放の悪夢


 その日は突然やって来た。弥禄みろくに呼び出され、彼の部屋に向かっていた。また未来視で、予言をしろと言うのだ。自由に視れる訳では無いが、それでも有益な情報を得られるらしい。弥禄の黒い欲望を満たす道具になるのはもううんざりだが……自由の無い身の上では、抵抗した所で無駄だった。だが、何時か兄さんは伊月家の当主になる。構造的には人として成り立っているとは言え、妖の血肉を混ぜられた私は人として逸脱している。人の身でありながら弥禄を超える才能を持った兄さんは、鬼の魔眼を埋め込まれた私にとって……純粋な輝きを放つ存在だった。兄さんは今も私を、人の世界に繋ぎ止めてくれている。何時か弥禄が死んだのなら、兄さんは伊月家を正しく導き、私を解放してくれる。だが弥禄の黒い執念は簡単には失われないだろう。力と同様に、生への執着が凄まじい男だから、無駄に長生きするかもしれない。こっそり溜息をつきながら、弥禄の部屋に辿り着く。

 様子がおかしい……障子は開けっ放しだし、鼻をつく異臭がする液体が飛び散っている。顔を顰め、袖で鼻を覆う。また地下から妖を連れてきたのだろうか。目の着く所でのは止めてくれとあれ程言ったのに、懲りない男だ。さて……一体今回は何を切り裂き、犠牲にしたのやら。見慣れていると思っていた筈なのに、心臓が五月蝿く鼓動してしまう。生唾を嚥下し、暗い部屋に立つ人物を見ると……その血塗れた姿に全身から汗が吹き出る。弥禄では無い。そのすらりとした立ち姿は良く知っている。紺を弾く黒髪を一房に纏めた男。暗い部屋の中赫赫かっかくたる光の蛇が男の腕に這う様に巻き付いている。その強靱な『ばく』の術式は伊月家でたった一人しか使えない。


「黎映か」


 切れ長の薄茶の瞳に鋭光えいこうを宿らせて、振り返るまことを信じたくない。返り血を浴びた姿から目を逸らすと、そのまま足元に横たわる何かを認識する。弥禄みろくと、らんだった。彼らは縛の術式で首を締められ、妖の牙で身体を喰い千切られたように絶命していた。苦悶と絶望に、まなこは大きく見開かれたまま。彼らに対する感情など残っていないと思っていたのに、体内ををドクドクと激しく流れる血流に押し負けて座り込んでしまう。

 その時、何かが割れる音と小さな悲鳴が聞こえた。一瞥すると、見慣れた料理人の女性が、ひらけた襖の向こう、腰を抜かしていた。弥禄と蘭の首を縛り付けていた物と誠の腕に巻き付いていた、編まれた赤い蛇の様な『縛』の術式は、瞬時に彼女を拘束する! と同時に彼女の影の中から、既に血に濡れた巨大な牙を持つ妖が現れる。誠は冷酷に、殺せと命じた。


「もう止めてくれ! 兄さん! 」


「駄目だ。見られたからには殺さなければ、俺達が殺される」


 誠は命令を取り消す事無く、恐怖をまなこに湛える彼女を冷ややかに見つめる。私は唇を噛み、右目に生力を吸わせる。妖力の化身である、深緋の炎が部屋に出現する。巨大な牙を持つ妖を燃やそうとするが、共に居る彼女が近すぎる。牙の妖は止まるどころか、深緋の炎に苛立った様に彼女を食い千切った! 断末魔が止むと溢れた鮮血が部屋を満たす。身体が一気に冷えたように絶望を覚えると、深緋の炎も鎮火してしまう。牙の妖がこちらを振り返る。その爛々らんらんと光る瞳孔が、自分を狙っているのを理解した。だが身体は冷えた様な絶望に動くことが出来ない。

 これは悪夢なんだろうか。本当はこの穢れた身が見えない形で呪われていて、それがこの結果なのかもしれない。でなければ……何故人を護る筈の誠が、妖を使い人を殺すのか。妖の巨大な牙が開かれ、その深淵の内側から生臭い咆哮が放たれるのが、やけに遅く再生される。

 

「もう此奴こいつも駄目か」


 誠が吐き捨てると、女性の亡骸に巻きついていた『縛』の術式が、牙の妖に巻き付き縛り上げた。赫赫たる光の蛇達は、牙の妖を封印する事なくそのまま雑巾の様に絞り千切る。黒い肉片に変え、地獄絵図を塗り足す。顔を引き攣らせた誠は人の血で既に染まった手で、頬に飛んだ黒い肉片を払う。


「何故殺したんですか」


 この地獄を創造した誠を理解出来ない私は、茫洋と彼を見上げる。次に殺されるのは自分かもしれないのに他人事の様に問うた。誠は、鮮血と黒い肉片と食い千切られた人の亡骸を題材にした地獄絵図の中、私を見下ろす。現実とは信じがたい悪夢の中なのに、誠は見慣れた微笑を浮かべる。


「それは、黎映に魔眼を埋め込み、自由を強奪きょうだつした父か? 黎映の容姿が変わった途端にばけもの呼ばわりして捨てた母の事か? ああ、あの料理人は本当は殺したく無かったんだが……仕方無い事だ。まさか、牙の妖をとは言わないだろうから、違うよな。不要なものは処分するのが当然だ」


「兄さんは……私の為に彼らを殺したんですか」


 自分で解き放った言葉が、痺れた恐怖を重い罪悪感に変えていく。この地獄絵図は誠の気まぐれで描き殴った物じゃない。じわじわと、切り離していた現実が息を吹き返す。


「そうだ。自由を手に入れるのが遅すぎたくらいだ。だが別に黎映のせいじゃない。俺は無能な弥禄に苛立っていた。卑怯な弱者を体現した蘭も。生かして置いたら、一体何時俺は伊月家の当主になれる事やら。俺は伊月家こんなところで終わるつもりは無いと言うのに」


 切れ長の薄茶の瞳を鋭光えいこうと輝かせていた感情の、残光を見た。それは弥禄に宿っていた感情にも似て……信じたくなくて首を横に振る。自分を世界に留まらせてくれた唯一の存在の真実は、暗い深淵の香りがする。


「伊月家は狭い世界だ。より強大な力を手に入れなくては、黎映に広い世界を見せてやれないな。先ずは、妖狩人の総本山……桂花宮家から手に入れるべきか。金花姫きんかひめ、と言う先祖返りの膨大な生力しょうりょくを持つ存在が居るらしい。前に姿を見た事があったが……甘そうなお嬢様だった」


 思案する誠の言葉が染みると、冷水を浴びせられた様に血の気が引くのに、心臓は激しく抵抗し鼓動する。秋暁しゅうぎょうに輝く明星の様な、千里の瞳を夜に堕としてはならない!


「彼女に危害を加えるのは止めてください! 」


「なんだ、知り合いか……心配するな。金花姫は殺すには惜しい能力だ。それに桂花宮家を手中に収めるには、金花姫と婚約を結ぶのが早い」


 婚約と言う言葉に、刺し貫ぬかれた様に息が止まる。


「……彼女には想い人が居ます」


「それがどうした。婚約など、どうせ家門同士の契約の一つにしか過ぎない。本人の意思なんて関係ない。……それとも、お前が金花姫と婚約を結ぶか? 」


 僅かに心に宿った切望を否定し、痛くなる程激しく首を横に振る。千里を道具の様に使う事など、自分には出来ない。


「なら私がなるだけだ」


 外向きの一人称を口にした誠は、自分の心を押し込めているのかもしれないと思った。薄茶の瞳に宿る寂寞は、かつて陽だまりの下で笑いかけてくれた幼い頃の誠と繋がっている様な気がした。


「半不死の妖だと言う鴉も、素晴らしい妖力を秘めていると言う。まだまだ世界は広いぞ、黎映! ……お前はどうする? 」


 無理やり従わせる事だって出来る筈なのに……誠は意思を問う様に目を細めて、私を見つめる。兄さんは、私に手を差し伸べてくれた時のまま想いは変わっていない。それなのにどうして……自ら地獄へ堕ちようというのか。残された心は樹洞じゅどうの様にがらんどうだ。


「兄さんの望みは私には分からない。だけど……兄さんが私の唯一の味方であった様に、私も兄さんの傍に居ます」


 私は血の海が着物に染みる不快な感覚と、おぞましい肉塊を視界に入れない様に、誠だけを真っ直ぐに見つめる。冷えきった唇で紡いだ言葉は、誠の瞼を瞬かせる事が出来た。誠は鋭く、笑みを深め肯定する。


「……それでいい」


 誠は私に、血塗れた手を差し出す。何時か共に奈落に堕ちるのだとしても、この手を取る事を後悔はしない。世界に繋ぎ止めてくれた誠が、自分を望んでくれるなら……今度は自分が、誠を世界に繋ぎ止めるのだ。

 だが触れた手から伝わる、身の毛のよだつ冷えた感触は……陽だまりから差し伸べられた柔らかな掌への切望を思い出させた。



―*―*―*―《 過去夢 展開 end 》―*―*―*―


 

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