第七十九話 解放の悪夢
その日は突然やって来た。
だが、何時か兄さんは伊月家の当主になる。構造的には人として成り立っているとは言え、妖の血肉を混ぜられた私は人として逸脱している。人の身でありながら弥禄を超える才能を持った兄さんは、鬼の魔眼を埋め込まれた私にとって……純粋な輝きを放つ存在だった。兄さんは今も私を、人の世界に繋ぎ止めてくれている。何時か弥禄が死んだのなら、兄さんは伊月家を正しく導き、私を解放してくれる。だが弥禄の黒い執念は簡単には失われないだろう。力と同様に、生への執着が凄まじい男だから、無駄に長生きするかもしれない。こっそり溜息をつきながら、弥禄の部屋に辿り着く。
様子がおかしい……障子は開けっ放しだし、鼻をつく異臭がする液体が飛び散っている。顔を顰め、袖で鼻を覆う。また地下から妖を連れてきたのだろうか。目の着く所での
「黎映か」
切れ長の薄茶の瞳に
その時、何かが割れる音と小さな悲鳴が聞こえた。一瞥すると、見慣れた料理人の女性が、
「もう止めてくれ! 兄さん! 」
「駄目だ。見られたからには殺さなければ、俺達が殺される」
誠は命令を取り消す事無く、恐怖を
これは悪夢なんだろうか。本当はこの穢れた身が見えない形で呪われていて、それがこの結果なのかもしれない。でなければ……何故人を護る筈の誠が、妖を使い人を殺すのか。妖の巨大な牙が開かれ、その深淵の内側から生臭い咆哮が放たれるのが、やけに遅く再生される。
「もう
誠が吐き捨てると、女性の亡骸に巻きついていた『縛』の術式が、牙の妖に巻き付き縛り上げた。赫赫たる光の蛇達は、牙の妖を封印する事なくそのまま雑巾の様に絞り千切る。黒い肉片に変え、地獄絵図を塗り足す。顔を引き攣らせた誠は人の血で既に染まった手で、頬に飛んだ黒い肉片を払う。
「何故殺したんですか」
この地獄を創造した誠を理解出来ない私は、茫洋と彼を見上げる。次に殺されるのは自分かもしれないのに他人事の様に問うた。誠は、鮮血と黒い肉片と食い千切られた人の亡骸を題材にした地獄絵図の中、私を見下ろす。現実とは信じがたい悪夢の中なのに、誠は見慣れた微笑を浮かべる。
「それは、黎映に魔眼を埋め込み、自由を
「兄さんは……私の為に彼らを殺したんですか」
自分で解き放った言葉が、痺れた恐怖を重い罪悪感に変えていく。この地獄絵図は誠の気まぐれで描き殴った物じゃない。じわじわと、切り離していた現実が息を吹き返す。
「そうだ。自由を手に入れるのが遅すぎたくらいだ。だが別に黎映のせいじゃない。俺は無能な弥禄に苛立っていた。卑怯な弱者を体現した蘭も。生かして置いたら、一体何時俺は伊月家の当主になれる事やら。俺は
切れ長の薄茶の瞳を
「伊月家は狭い世界だ。より強大な力を手に入れなくては、黎映に広い世界を見せてやれないな。先ずは、妖狩人の総本山……桂花宮家から手に入れるべきか。
思案する誠の言葉が染みると、冷水を浴びせられた様に血の気が引くのに、心臓は激しく抵抗し鼓動する。
「彼女に危害を加えるのは止めてください! 」
「なんだ、知り合いか……心配するな。金花姫は殺すには惜しい能力だ。それに桂花宮家を手中に収めるには、金花姫と婚約を結ぶのが早い」
婚約と言う言葉に、刺し貫ぬかれた様に息が止まる。
「……彼女には想い人が居ます」
「それがどうした。婚約など、どうせ家門同士の契約の一つにしか過ぎない。本人の意思なんて関係ない。……それとも、お前が金花姫と婚約を結ぶか? 」
僅かに心に宿った切望を否定し、痛くなる程激しく首を横に振る。千里を道具の様に使う事など、自分には出来ない。
「なら私がなるだけだ」
外向きの一人称を口にした誠は、自分の心を押し込めているのかもしれないと思った。薄茶の瞳に宿る寂寞は、かつて陽だまりの下で笑いかけてくれた幼い頃の誠と繋がっている様な気がした。
「半不死の妖だと言う鴉も、素晴らしい妖力を秘めていると言う。まだまだ世界は広いぞ、黎映! ……お前はどうする? 」
無理やり従わせる事だって出来る筈なのに……誠は意思を問う様に目を細めて、私を見つめる。兄さんは、私に手を差し伸べてくれた時のまま想いは変わっていない。それなのにどうして……自ら地獄へ堕ちようというのか。残された心は
「兄さんの望みは私には分からない。だけど……兄さんが私の唯一の味方であった様に、私も兄さんの傍に居ます」
私は血の海が着物に染みる不快な感覚と、
「……それでいい」
誠は私に、血塗れた手を差し出す。何時か共に奈落に堕ちるのだとしても、この手を取る事を後悔はしない。世界に繋ぎ止めてくれた誠が、自分を望んでくれるなら……今度は自分が、誠を世界に繋ぎ止めるのだ。
だが触れた手から伝わる、身の毛のよだつ冷えた感触は……陽だまりから差し伸べられた柔らかな掌への切望を思い出させた。
―*―*―*―《 過去夢 展開 end 》―*―*―*―
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