第七十六話 三つの眼


 

―*―*―*―《 過去夢 展開 》―*―*―*――



 正座をさせられると、まるで悪い事をしてしまったかの様だ。昔、石抱いしだかせという刑罰があった。三角柱にした角材の上に正座をさせられ、膝の上に四十九キロもある切石を載せていくのだ。一枚でも凄まじい痛みだと言うのに、十枚重ねられる事もあったという。そんな刑罰と比べるには、足の痺れはあまりに軽すぎる痛みだと自らを奮い立たたせる。

 目の前に座る三十路の男は、伊月弥禄いづき みろく。伊月家の当主である父上は、傍から見れば恐ろしい男だった。光の宿らない暗黒色の瞳は、瞬きが似合わない程淀んで見えた。威圧感と言うには暗く重々しい。対面した者を人気ひとけの無い底なし沼に沈ませる様な、畏怖が染み付いていた。実際に息子である自分ですら、安易に口を開く事が出来ないでいる。誠は、父上の前でも堂々と意見出来るのに、小心者の自分は未だ兄の様になれない。だが、本当の恐れは目の前に存在していた。深緋こきひ色の何かが桐の箱に鎮座しているようだ。飴玉程の大きさのそれを、目を凝らして見つめる。


黎映りえい

 

 深緋色の丸い物を理解する前に、弥禄は重々しい声で自分を呼ぶ。自然と背筋が伸びて、唇を結んだ。


「何でしょうか、父上」


「お前には適性があった」


 暗黒色の瞳は心無しか、僅かに光を宿して見えた。和らいだ弥禄の口元に、自分は褒められたのだと理解した。父上は何時も出来の悪い僕を、淡々と何も言わず見つめるだけだったのに。兄さんは、まだ僕が幼いから父上は何も言わないだけなのだと頭を撫でてくれる。兄さんの掌は好きだ。母上の温かい掌も好きだけど……自分より僅かに大きい掌は僕には無い、凛とした強さがあるから。父上の掌はどんな感触なのだろう。父上は僕を撫でてくれた事は無かったけど、きっと今なら撫でてくれる筈。期待を込めて、微笑みを返すと弥禄はやはり僕に手を伸ばす。


「未来視の力があると言う、鬼の魔眼。お前は選ばれたのだ。まさか身近に適性がある者が居たとはな」


「鬼……? 」


 何の事が分からず首を傾げると、弥禄は伸ばした掌に赤い紐の様な何かを浮かび上がらせた。蛇が這う様に動くそれは、見たことがあった。伊月家に伝わる妖の封印の秘術である、『ばく』の術式だ。何時いつか兄さんの様に、僕も受け継ぐ筈の術式。伊月家の地下室に眠る、直視に耐えない程に恐ろしい、根源の妖達は、縛の術式で捕らえたもの。時折地下から、眠っている筈の彼らの呻き声が聞こえる気がして、夜は母上の傍をピタリと離れられないのは、嚥下して隠す事にした。

 だが……何故今、縛の術式が、人間である僕に向けられているのだろう。自分を撫でてくれると思った筈の掌は、僕の首を掴んだ!


「……っぐ……」


 突然の圧迫感に、鼻の辺りまで血が滞って苦しくなる。掴まれた首が、第二の心臓になったかの様にドクドクと脈打つ。まさか……父上は、僕を殺そうとしているのか? 僕が、約立たずだから? 抗えない恐怖と頭痛に変わる直前の圧迫感の中、弥禄の掌から冷たい何かが素早く自分の身体に巻き付き、骨に食い込む様な程ギリギリと締め上げる。弥禄は暗黒色の瞳で、僕が縛の術式に捕縛されたのを確認すると、掌を首から乱暴に離す。解放された肺で一気に酸素を求めて喘いだが、身体が傾いで畳に倒れた。

 そこでようやく、桐の箱に鎮座している物の正体に気がつく。それは深緋色の目玉だった。偽物なんかじゃない。まるで先程奪われた物かの様に、ぬめりすら存在し生々しい。鬼の魔眼はぎょろりと動き、妖の細長い瞳孔で僕を見た。首を締められ残る鈍痛のせいで、悲鳴すら上げられない。


「お前は新時代の術師になるのだ。札や武器などの媒体を必要としない、体内で生力を妖力に変換できる術師に! 」


 弥禄の喜ばしい叫声に吐き気がする。そんなのはまるで妖だ。そんなに妖力を操る術師が欲しいのなら、半妖を術師にすれば良いではないか! だが、あくまで人間が妖力を操る事に意味があるのだと、かつて弥禄は言っていた。根源の妖達の様に、妖は伊月家ここだけで無く、擬似妖力術式の家門では下位の存在なのだから。


術師達は拒否反応を乗り越えられなかったが……まだ幼いお前なら可能だろう。拒否反応も微々たる物だ。成長する度に魔眼は馴染むだろうから。しかも、鬼の魔眼はあるじが生きているのに、呪いを生まない! これ程適したが有るだろうか」


 弥禄は僕を息子として見ていないと気がついた。弥禄の前に存在するのは、二つの実験材料にしか過ぎないのだ。朽ちない鬼の魔眼と、無力な子供。蛇に呑まれる直前の蛙の様に、弥禄に染み付いた畏怖の冷気と、縛の術式に動く事が出来ない。淀んだ暗黒色の双眸は、二つの深淵が浮かんでいる様だった。縛の術式は蛇が這うように蠢き、更に身体を締め付ける。意識が深淵に引き摺り込まれて行く。


「目覚めたら、お前は生まれ変わっている」


 遠ざかる意識の片隅で、二つの深淵と深緋の妖の瞳孔からなる、三つの眼が自分を闇の中へ呑み込むかの様に凝視みつめていた。


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