第七十五話 弟


「一度旅館で休んだらどうなんだ」


「……いいえ。このまま時計塔へ向かいましょう」


 先程から私達と黎映の押し問答が続いている。今は智太郎が黎映を説得していた。食事処を後にしても、面紗の奥の黎映の顔色は良くなるどころか、異常な汗が浮かび益々血の気が引いていく気がする。皆の視線を避けるように俯く。それでも黎映は、苦悶の中で口の端に微笑を浮かべる。


「未来視の対象場所に辿り着いてしまった方が、痛みも軽減される筈ですから」


 黎映がそう言明してしまうと、これ以上考えを改めさせる事は出来なかった。黎映の未来視の右目に痛みが生じたと言う事は、今日の午後七時四十五分……癒刻時計塔で、私の前に鴉が現れる未来が確定したと言う事だ。俯いて歩く私は、自らの青緑色の時計の帯留めが、午後二時十七分を逆さに示すのが見えた。あと五時間を切った。普段ならまだ一日はこれからだとすら思えていただろう。だが黒曜に再会するまでの刻限だと考えると……灰色の焦燥感と共に、逃げ出したい様な、今すぐ時計の針を進めたい様な矛盾に縛られる。青ノ鬼との会話から、己穂の記憶を思い出す為の刀は癒刻にある可能性が高い。未だ刀の詳細な在り処を掴めないと言う事……それは再会の時が迫る、鴉と関わっていると言う事に結び付きはしないだろうか。前世である己穂の記憶を、取り戻す覚悟は決まった。黒曜と再会し彼の過去夢を視る事は、癒刻の言い伝えが本当であれば黒曜の憎悪の記憶を視る事だ。黒曜は同じ妖でも、かつて私の命を奪おうとした妖とは違う。幼い頃、私の命を救ってくれたのは黒曜なのかもしれないのだ。だからこそ、黒曜石の瞳に瞋恚しんいの炎を照り返すかんばせを想像すると……過去の記憶だとしても、自らの内が荒らされ、絞められた様な痛みに苛まれる。だが、果たすべき黒曜との約束の事実も、きっと己穂と鴉の記憶の中に有る。智太郎を救う方法も。だから、私は逃げる訳にはいかない……。

 やがて、誰もが口を閉ざして、鈍い行軍をする。今は、幻聴の様な白息しらいきと、くぐもった鳴き雪しか耳に届かない。不香の花が蕭蕭しょうしょうと透明な傘を覆う。その向こう……雪の道を歩む黎映が私達を振り返る。江戸紫の羽織の下の濃紅こいくれないの着物が、純白の世界の中で鮮血がさっと散ったように鮮やかに翻り、私の心臓を止めかける。


「もう直ぐです」


 苦痛を耐えながら微笑を浮かべる黎映の姿の向こうには……聳える雪深い山。そして、瓦屋根に雪冠を被った、癒刻時計塔。大きな石垣の上に建つ木製の時計塔だった。白い雪が木板を覆う様に、足元に張り付いている。実際に時計塔の真下まで歩むと、呆れる程に大きい。見上げると首が痛くなってきそうだ。雪に覆われた時計塔の木板は黒檀こくたん色と言うよりも、深く艶めいた濡羽色に見えた。だが不穏な様子は感じない。黒曜と、彼を追う伊月誠が現れるとは信じ難い程、平穏な観光場所にしか思えなかった。黎映は未来視でどうやって時刻を知ったのだろう。真下にいると、時計塔が高いせいなのか思ったよりも文字盤が見えにくいのだ。多少立ち位置を変えれば、ローマ数字の文字盤が見えない事も無いか……。


「あいつ……本当に大丈夫なのか? 」


 黎映を見つめて訝しんだ智太郎が、くぐもった鳴き雪と共に私の傍に立つ。時計塔に辿り着いたは良いが、黎映は私達より少し離れた所に立っていた。私たちから距離を取ってしまった彼の表情は、明確に確認出来ないが、右目を押さえている。未だ苦痛が晴れる様子は無い。正直時計塔に辿り着いたは良いが……黎映に意識が向いてしまうのは皆同じだった。美峰も黎映を心配そうに見つめていた。


「未来視で視た時計塔の傍に辿り着けば、苦痛は解ける筈じゃ……? 」


「そんなに直ぐには治らないのかな。……何とか苦痛を和らげられたら良いのに」


 溜息をついた美峰に、私も同様に溜息を返す。


「未来視の対象の場所、だけじゃなくて、未来視の対象の人、も近くに居た方が良かったりして」


 美峰の傍に立った綾人の、切れ長の僅かに青い瞳と視線が交差する。私は眉を寄せて首を傾げた。


「でも今まで傍に居たのに、全然変わらない気がしたけど……」


「接触、が重要なのかな。食事処でも、千里の手を繋いでたし」


「お前……それ関係無いだろ」


 呆れつつ苛立ちを含んだ様に智太郎が目を細めると、綾人は顔を引き攣らせる。


「いや、あくまで可能性の話! 」


「ていうか……単純に黎映が千里ちゃんの事好きなんじゃないの? 」


 さらりと空気を凍らした美峰を、私は凝視する。いや、元々気温は低いのだけど。心臓に氷柱を刺された様だ。しかし、美峰以上の冷気を放つ存在がいる。


「もしそうだとしたら、礼儀と言う物を叩き込んでやる。無自覚の犯行で無いなら、制裁が必要だ」


 智太郎は絶対零度の微笑を口の端に湛えて、黎映を睨んでいた。弱ってる黎映が、 冷静さを欠いた智太郎の一撃を受けたら確実に惨事になる! それ以前に黎映とは取引を交わしたのだから絶対に止めないといけない!


「無い無い、初対面のあの張り詰めた空気を皆知らないから言えるんだよ。黎映から見たら、私は兄の元婚約者だし。大体会ったばかりなのに可能性すら無いと思う」


 主に智太郎に向けて、慌てて早口で否定する。だが私は脳裏に車内での黎映の様子が掠める。美峰と話していたのは、私と智太郎の恋バナ。片思いという言葉の後に、呟いた台詞セリフは……


『そうですね……可能性が少しでも残っているなら……まだ諦める必要は無いでしょうか』


 黎映は微笑を浮かべて私を見つめていなかっただろうか。伊月誠との婚約破棄の為に、智太郎には偽装恋人を演じて貰っていた。黎映はそのまま、私と智太郎が恋人同士だと思ってる筈なのに……? 本当は、私と智太郎がまだ恋人同士では無い事に気づいている? いやいや、それこそまさかだ。


「絶対に違うよ……! 何なら確証を貰っても良いくらいだから! 黎映の様子を確認する次いでに、言質を取ってくる!」


「ちょっと千里ちゃん!? 」


 完全に恐慌状態に陥った私は、驚く美峰達を振り払うように黎映へと突進する勢いで走……りたかった所だが、生憎雪に足を取られて思った様には進まない。無駄な苛立ちを加算しながら、黎映の元へと辿り着いた頃には、一言目を忘れてしまう位には体力を地味に削がれていた。


「黎映……あの」


「千里……? 」


 肩で息をする私の声に気がついた様に、黎映は濁った白い左目を瞬く。右目を押さえている手を下ろそうとするので、例の如く慌てて私は止める。手に触れた事を、もう後悔なんてしてられなかった。


「痛いんでしょ? 」


「もう大丈夫ですから」


 そう言うと、黎映は無理やり私の手を剥いでしまう。現れた赤い妖の瞳孔は、やはり明確な痛みに痙攣していた。虚勢を張り、血の気の引いた顔で無理やり微笑する黎映に、苛立ちのまま言葉を吐いてしまう。


「全然大丈夫じゃないでしょ! 癒刻時計塔ここに居れば治るって言うのが本当だとしても、ベンチに腰を掛けたらどうなの! 」


「千里……だけど今は……」


 黎映が痙攣する右目で、己の横を一瞥する。無論、足を取られる程の積雪は、時計塔のベンチにも積もっていた。だが、本当に痛むのならばそれくらい構ってられない。着物を汚してしまうかもとか、黎映への問いなんて頭からすっぽ抜けていた。私が彼を引っ張ると、黎映は抵抗出来ずに双眸を丸くして無事に積雪ベンチに座る。寒いとかの次元は二人とも飛んでいた。


「世話が焼ける……」


 怒られた子供の様にきょとんとしたままの黎映を、私は腕を組んで睨む。智太郎に似てきたかもしれない……と内心自嘲するが顔には出さない。私より年上な筈なのに弟の様だ、と言う思考は、余計な過去まで引っ張りだしてしまう。誠との婚約が成されていたら、義理の兄妹になっていたんだろうけど。それより如実に浮かんだのは、那桜の子供の省吾が生きていたら、彼のようだったのかも知れないと言う幻想。智太郎と私の、手のかかる弟。我儘で甘え上手で、きっと泣き虫。智太郎は少し意地悪だけど面倒見の良い兄で、私は臆病でお人好しな姉だろうか? 自分の良い所が見つけられずガックリとするが、皆がそうに違いない。三人での日々は決して穏やかで無くとも、輝きに満ちている筈。存在しない日々に確かに視た『弟』は、この世にもう居ない省吾なのか……目の前の黎映なのか……私は判別出来ずに視界が霞む。彼は私に、覚えのある笑みを向ける。


「千里はやはり優しいのですね」


「私、『優しい』って言う曖昧な言葉を言われるのは嫌いなの。曖昧で消えそうで……。だけど、他の人に使ってしまうのは便利な言葉だからなのかな。卑怯だけど」


 那桜との記憶の中で、母様に抱いていた想いに引き寄せられたのは……やはり黎映が省吾に似ているからなのだろうか。私はまた意地悪な返答をしてしまったのに、黎映は微笑を崩さない。どうも黎映の前では、私は素直になれないらしい。


「では、もっと明確な言葉で伝えます。千里は私の希望なのです」


「希望……? 」


 私は自らを形容する言葉には思えず、真っ直ぐに微笑する黎映をまじまじと見つめてしまう。赤い妖の瞳孔と白く濁った人の瞳孔は、私の知らない自身の一面を知っている。


「金花姫として自由を奪われていた貴方に、私は自身の境遇を重ねていたのです。私は……」


 だがそれ以上は続けるのを拒むように、黎映は顔を歪める。耐えるように瞼を伏せるのは、右目の痛みなのか、心の内にある想いのせいなのか。感情を払う様に首を横に振ると、黎映は甘える様に上目遣いで、目の前に立つ私を見上げる。


「……どうか、手を繋いでくれませんか? 千里と居ると、痛みが和らぐのです」


 綾人の仮説は当たっていたのかも知れない。私は躊躇いで眉を僅かに寄せてしまう。だが私は、黎映が希望を求める様に差し出した左手を拒否する事は出来なかった。重ねた黎映の手は白魚の様と言うには、指が細長いのに節くれだっていた。女性的と言うには違和感があり、男の人の手と言うには儚い。僅かな違和感が、黎映の今まで奪われていた人生を形容している様な気がして胸を刺した。 黎映はこれで本当に痛みは和らいだのだろうか? 面紗の奥の表情を確認しようとすると、金の光が閃光を放つ。余りの眩しさに目が眩んで、私は意識を奪われる。

 まさか……過去夢の力が発動しようとしている? 一体何故。疑問は答えになる事は無く、霞む意識と傾く視界の中、最後に見た黎映は私と同じ様に瞼を閉ざす姿だった。


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