第七十七話 天鵞絨の川から


 膝を抱えたまま、自分の内で眠るように消えて行けたらどんなに良いだろう。だが現実は、壊れかけの意識を弦で弾く様に覚醒させられる。晩夏ばんかを告げる寒蝉ひぐらしの鳴き声だった。ぼやけた庭を一瞥するが、一体何処から鳴いているのかは分からなかった。

 

 眼帯の下の右目は、違和感が接続された様にジクジクと疼痛が広がっていく。左目も霞がかったみたいに、視界が晴れない。このまま一生闇の中で過ごす事になったら、と想像しただけで、身体の内部が掻き回される様に絶望を覚えた。


 だが、自らの姿をはっきりと見なくて済んで良かったのかもしれない。鏡に映る自分自身は恐ろしい姿をしているだろうから。弥禄に縛の術式で昏倒させられ、目が覚めると世界はガラリと変わってしまった。鬼の魔眼と自らの右目を取り替えられて以来、眼窩の内側におぞましい深淵の蟲が常に這いずっている様な不快感がある。その時、右の眼窩どころか、頭部が刃物で刺し貫かれるように激痛が走った!


「……ぁぐっ! 」


 まただ。鬼の魔眼はこの身を蝕む様に、時折この世を呪いたくなるような激痛を与えてくる。その度に左の視界は霞み、黒髪は色素が抜けていく。人の身体は妖力を纏う異物に合わせて作り変える事で、勝手に生きようとしていた。元の面影なんて、自分にはもう残っていない。この激痛が微々たる物だと吐き捨てた弥禄は、一体どれだけの犠牲を築いてきたのか。


 呼吸も上手く出来ないまま畳に俯せに倒れる。激痛に身体が痙攣しながら、脳裏は焼き付いた、母の表情を強制的に思い出させる。まだ希望を抱いていた弥禄に明確に裏切られ、真っ先に助けを求めたのは母の伊月 蘭いづき らんだった。だが蘭は優しかった薄茶の瞳に冷え冷えとした嫌悪と拒絶を湛えて、縋り付いた自分を振り払った。


『触らないで、ばけもの……! 』


 その瞳は、もう息子を映してはいなかった。蘭の前に居るのは、深緋の魔眼を持つばけものだった。その言葉で理解してしまった。ばけものの自分には、もう父も母も存在しないのだと。鬼の魔眼が自らの右目になった時、信じていた世界ごと裏切られたのだ。身体の輪郭すら認識出来ない程の絶望に崩れ落ちた。だが……まだ一人だけ世界に繋ぎ止めてくれる存在が居た。


「黎映! また痛むのか! 」


 痙攣する自分を抱き上げてくれる存在は……兄の、誠だった。切れ長で薄茶の瞳は母と良く似ているのに、誠は母とは違い自分を人として映してくれていた。その事が嬉しくて微笑もうとするが、口の端が微かに痙攣しただけだった。誠は泣きたいのを無理やり微笑みに変えた様に、顔を歪ませた。自分の頭を撫でてくれる大好きな掌は、確かな体温があった。


「……きっとすぐに痛まなくなるからな」


「兄さん、僕はまだ、人でしょうか」


 乾いた唇で問うと誠は頷く。その事に安心して息を吐くと、激痛に耐えかねた身体は眠りを選ぶ。意識は闇に落ちていくのに、怖くない。瞼を次に開いた時、兄さんが居れば僕は世界をまだ信じられるから。


 鬼の魔眼が激痛を与えなくなり、左目が白く濁り視力を失ったと認識した頃……弥禄が告げた通り、魔眼に生力を与え妖力を扱えるようになった。身体の力が明らかに怠くなる代わりに、右目は爛々と赤く輝いて深緋の炎を生み出せた。炎は、縛の術式で連れてこられた脆弱な妖を、簡単に灰に変えてみせた。


 弥禄は手のひらを返す様に、態度を変えた。伊月家の秘宝だと屋敷からの一切の外出を禁じ、望むものは湯水の様に与えた。弥禄の裏に潜む、力に対する暗い欲望の事はよく理解していたので、心を許す事は二度と無かったのだが。弥禄が自分に執着する理由はそれだけでは無い。鬼の魔眼に宿っていた能力に目覚めたからだった。


 目を閉じると……今まで視えなかった景色が存在した。いや、と言っていいのだろうか。それは目を閉ざして感覚の川に立たされている様だった。流れる川の水を掌で掬うと天鵞絨ビロードの様に滑らかで、流動し渦巻いた。


 その感覚は常に変わる。赤子の頬の様に慈愛を与えたくなる温もりで、水晶の様に硬質的で穢れを清める冷たさ。林檎の蜜の様に甘さを期待させて、祖母が作る郷土料理の様に懐かしい。利休梅リキュウバイの様に僅かに清涼感がある香りで、ベンゼンの様に危険で中毒的。雷鳴の様に波乱に満ちていて、愛しい人の囁きの様に扇情的。


 蜜蜂の柔毛が指先を掠める様に、魅惑的な好奇心の中に危険を孕んでいたとしても止められない。代償として、右目に再び痛みを生じさせる事になろうとも。感じる感覚は、いつか訪れる未来だった。未来視で感じる、外の世界は美しく憧れに満ちていた。


 そんな中……一片の花弁の様な感覚が舞い込んだ。その感覚は金木犀の甘い香りを纏っていた。


『私は本当にここから出ても良いの? 』


 その少女は誰かに問うていた。彼女は自分と同じように膝を抱えている感覚がした。


『良いんだ。俺が守り人候補として、千里と居る事が許されたから。本当の守り人になるには……まだ力不足なのは否めないが』


 少女に答えたのは、冷静な少年の声。年下の声音なのに、自分との覚悟の差を感じた。彼の様に、自ら何かを成し遂げようと願った事があっただろうか?


『やっぱり、駄目だよ。ここを離れたら、妖の呪いを受けた人や、妖狩人達が私の力を必要とした時に、直ぐに助けられなくなる。もし、命に関わる様な状態だったらどうするの?……私は金花姫きんかひめだから、桂花宮家からは出ちゃいけないの』


 千里は首を振るが、確かに外の世界への切望の香りがした。その瞬間理解した。彼女は自分と同じ様に、外へ出る事が許されていなかったのだ。だがそのくびきは、緩み始めていた。


「自由を選んでも、千里は良いんですよ……」


 届かないと分かっていても、声を掛けてしまう。未来視は案の定、すぐに解けてしまった。ここは伊月家で、勿論千里は居ない。


「醜い僕と違って、千里なら誰にも怖がられる事なんか無い。誰かを傷つける事も……」


 あと一歩があれば、千里は外に出る事が出来る。それに比べて自分はどうだ? 外に出た所で誰が受け入れてくれると言うのだろう。諦念ていねんを含んだ言葉すら、誰にも届く事は無いと言うのに。だが、未来視はそれから無意識に、千里を感覚させる様になった。

 

 金花姫として生力を与え癒す時の、慈愛の微笑み。着物を選ぶ時の悩ましさと、ふわりと胸の内から広がる押さえきれない幸福感。庭の金木犀の下に立つ時の、胸を砕かれる様な罪悪感と、手首の疼く様な痛みと後悔。そして……強い輝きを放つ花緑青の瞳への、暗闇から救われる様な希望と苦痛の内側に秘めた切望の眼差し。

 

 千里は彼を想っているのだ……と理解した時に、胸を切り裂かれ、縛り付けられる様な苦痛を覚えた。これは自らの痛みだ。何故……と抱いた疑問は、指の背で唇に触れた、千里のあどけない笑みに攫われた。

 

 そうか、自分は千里の存在に惹かれていたのだ。暗い欲望が支配する伊月家の中で、希望を抱かせてくれた千里に自由を選んで欲しいと真に願う様になっていった。自分と同じ外への切望を抱える千里が、鳥籠から自由な空へと飛び立ち、笑ってくれるなら……自分も未来で同じ様に笑える筈だから。

 

 だから、未来視の対象は自分に関わりのある人なのだと理解した時……自然と頬に伝う温かさがあった。自分は何時か、千里と出会う事が出来る。閉じ込められたばけものなんかじゃない。彼女が自分を恐れたとしても……一度だけでもいい。その金の瞳を本当に見つめる事が出来たなら……それだけで未来に希望を抱けるから。



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