第九話 偽りの恋人



 智太郎が浮かべていたのは、普段から一緒にいる私すら、少しぞっとしてしまうような、恐ろしく魅惑的な笑みだった。その智太郎がこちらへ近づき、私の頬に手を触れる。優しく触れているのに、抗えない。智太郎のレモングラスの香りが近い。花緑青の瞳の輝きは、白の睫毛と共にゆっくりと羽を仕舞うかのように閉ざされた。その少女の様に麗しいかんばせが、夢現ゆめうつつかの様に距離が無くなっていくのを、暖かい吐息が交わる事で理解し始めた。


「ちた……」


 名前を呼ぶ前に唇を塞がれる。体温を持った羽を与えられた様。自身の唇に感覚が集中し、こんなに擽ったいものだったのかと思う程だ。早鐘を打ち始めていた心臓の鼓動の意味が変わり、全ての音が一度止んだみたいだった。今度は優しく触れるだけで離れていく。薄く紅が移った、智太郎の唇を見ると頬が紅潮するのを感じる。


「こういう、事なんで」


 翔星と誠を振り返った智太郎の言葉に、私はようやく事態を理解する。まさか……作戦って……初めに言っていた通りのまま!? 智太郎が改めて内容を告げなかったのも、私に有無を言わせない為だと分かった。酷く寒気のする、張り詰めた空気に誰もが動けない。だが、ある男の高笑いだけがその場を支配する。


「なんと、豪胆な! 」


 その声は、あの伊月誠だった。当の婚約者が笑っていた。私はおかしくなってしまったのか、と混乱し瞬きをした。


「尾白智太郎。君の噂は聞いているよ。妖の血を引く、歴代切っての対妖戦の才能を持つ守り人。そして……金花姫の幼なじみ、だったかな」


「ええ、その通りです。そう言う貴方は、奇才な技を自ら編み出した『ばく』の術師ですよね」


 智太郎は静かに、誠を睨みつける。


「おやおや、怖い」


 誠は吊り上げた様な口角を、扇で隠す。伊月家と言えば、妖の封印の力である『縛』に特化した、擬似妖力の術式を扱う家門だ。そう言えば聞いたことがあった。家門で受け継ぐ術式を改変し、自らの縛の術式を生み出してしまった天才術師がいる、と。誠がその術師なのか。自然と誠に視線を向けるが、ひらひらと手を振られ、苦笑いを返す事しか出来ない。奇才なだけあって変わった人だ。


「尾白……お前の事は今まで黙っていたが、こうなった以上は、守り人を続けさせるわけには行かない」


 顔を顰めた翔星が、聞いているだけで身体の芯が冷えていく様な重い声音で言った。この声音は、痛い程良く知っている。私はこの声に今まで意志を踏みにじられてきた。智太郎が私の前から居なくなるなんて、それだけは絶対に駄目だ! まだ智太郎を救う方法も、見つけられていないと言うのに。私が翔星に反論を口にする前に、にこやかな微笑みを浮かべた誠が口を開いた。


「いいではありませんか、翔星さん」


「ですが、このような勝手な行いを許す訳にはいきません」


 翔星は冷えた怒りを滲ませた瞳を細めた。


「まあまあ、そうお怒りにならずに。今回の縁談、千里さんが望まないのであれば無かったことにしても構いません。約束である、私の術式の開示はさせて頂いてもいい」


 誠は意外な事を口にした。婚約を破棄した上に、自らの術式を明かすと言う。桂花宮家にとって都合が良すぎた。元々が生力由来系、擬似妖力系に関わらず、新たな術式を得る事はそのまま家門の強化に繋がる。術式は、妖狩人の命にも等しい秘密の筈なのに。一体、何が目的なのか。安堵より、疑惑が心の内を占めた。


「今回の婚約について、伊月家の決定権は現当主である私が持っています。但し、婚約破棄には条件がある」


 誠が目を細める。まるで獲物を狙う蛇の様だ、と思った。扇を閉じて、誠は続ける。


「ある栄螺堂さざえどうに、昔、大蛇が封印された。その大蛇は時間が経つにつれ封印の術式の札と混ざり合い、新たな強い封印の術式と化した。私はその札が欲しいのです。千里さん」


「は、はい」


 突然名前を呼ばれ、私は背筋を正す。蛇の様だと思った薄茶の瞳と視線が合い、正した背筋が冷える。誠は、私を試すように口角を吊り上げる。


「その札は妖の力を継いで、触れる者は命を奪われる。……普通の者ならば。貴方なら……膨大な生力を持った金花姫ならその前に札を手に入れることができる。どうします?」


 誠は何を考えているのか読めない。そのまま頷いてしまって良いものなのか。逡巡していると、誠は近づき、私の目の前で扇を広げる。風圧に瞬くと、扇に描かれた白蛇が私を睨みつけ、息が止まる。そのまま誠は扇で隠し、私にしか聞こえないように囁く。


「……貴方にとって、都合が良いんじゃありませんか? このままでは貴方の守り人は自由を再び失うのでは」

 

 扇に描かれた白蛇のように、目を細めた誠の言葉に、私の逡巡は無意味だったと気づく。例え、誠に泳がされているとしても、智太郎をあの暗い地下へ戻す訳にはいかない。私を庇ってくれたせいで、智太郎の自由が危うくなってしまったのだから。私はまだ智太郎を救う方法を見つける為の、尾を掴んですらいない!


「分かりました」


 私は膝の上の拳を握り、頷いた。迷う理由なんて、もう無かった。だが、翔星は苦い物を噛まされたような顔で否定する。


「駄目だ。そんな博打のような案は呑めない」


 翔星は、ここで『金花姫きんかひめ』という手駒を失う訳にはいかない筈。決して、娘として私を案じている可能性は無い。私は火かき棒で突かれたように、心が鋭い火傷かしょうを負う。誠は表面上、穏やかな微笑みを浮かべてみせた。


「大丈夫です、私も同行しますので。千里さんに万が一など無いように。それに、ここで断ったら、今度こそお二人は逃げてしまうのでは? もし千里さんを守れなければ、それこそ尾白さんは守り人の資格なんてありませんよね?」


「俺は千里を守る為にいる」


 智太郎は突然私の肩を抱き、引き寄せた。肩同士が触れた所と掌から、体温がじんわりと伝わり瞠目する。だが智太郎は、私の隣に居たままだった誠を険しい顔で睨んでいる事に気がついた。冷ややかな殺気を向けられても、誠が穏やかな微笑みを崩さない事が逆に、嫌な空気の弦を震わせた。


「と、尾白さんも千里さんもこう言っていることですし」


 いかがですか、と誠は翔星に問う。翔星は顔を顰めたまま黙り込んだままだ。了承、とも受け取れる。誠は満足したように笑みを深めた。


「翔星さんも了承してくださる様子で安心致しました。いやぁ、こんな事にはなってしまいましたが、千里さんお振袖お似合いですね。お美しい」


 突然の賛辞に誠を思わず見つめると、切れ長の薄茶の瞳が笑みで細められた。どう答えようか案を練っていると、誠は立ち上がってしまう。この場はこれでお開き、という様に。挨拶を翔星と交わしその場を後にしようとするので、慌てて智太郎に待っている様に告げて、私は立ち上がる。大ノ蛇栄螺堂に向かう日付を確認しなくては。誠を呼び止めると、彼は分かっていたかのように、裏を読めない微笑みで振り向いた。



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