第五十三話 呼び捨て
私達は、智太郎の帰還でうやむやになってしまっていた黎映と再度話の続きをする為、客間に戻ってきた。時間も昼を少々過ぎてしまったが……話のついでに昼食である。
肉豆腐と大根の煮物と、根菜のきんぴらだ。煮汁の、醤油と出汁の香りが湯気と共に広がる。男性陣が多いので、私以外の人は、肉が心無しか多めによそってある気がする。私は丁度良い量にほっとする。根菜のきんぴらから頬張る。白いりごまの香ばしさと粒粒が、柔らかいのに歯応えをきちんと残す蓮根に絡み、食感の違いが癖になる。きび砂糖と醤油が、絶妙な均衡を保っている。後に胡麻油と味醂のまろやかさが包む。私は癖になり、人参とゴボウも口に運んだ。人参の本来の甘さの分、均衡は甘さが強くなった。人参の柔らかさと、薄くスライスしたゴボウの歯応えに、白いりごまの小さな粒粒が弾ける。この食感はやはり好きだ。頬が自然に綻んだ。
「初めまして、尾白智太郎さん。私は伊月黎映と申します。私の話は千里から聞いていると思いますので割愛致します。ところで……何があったのですか? 」
私は智太郎に黎映との取引の件を、簡単に説明し今にいたるのだが……。黎映は、面紗の奥の赤と白の瞳を細め、困り顔で智太郎を見つめながら、大根を箸でつまんだ。智太郎の頬には、古典的よろしく、腫れた赤の手形がある。
「……言わなきゃいけませんか」
むすっと、初めて会ったはずの黎映を冷ややかに見つめる智太郎。私は微妙な苦笑いを浮かべるしかない。
「ごめん……智太郎」
「初めから大人しくしていれば良かったんだ」
智太郎は花緑青の瞳をギラリと光らせ、こちらを恨みがましく睨みながら、肉を頬張る。乙女心的には色々と耐えきれないものがあったのだ、という言い訳は聞いてもらえる気がしない。私が衝動的に智太郎の頬を叩いてしまった後、頬を腫らし、きょとんと花緑青の瞳を丸くする智太郎の表情が脳裏に焼き付いている。少女のように麗しい
智太郎の視線から逃げるように、私は大根を箸で割って口に入れる。先程から良い香りがしていた大根は、白さは残っておらず柔らかく、何口か噛んだだけでよく染み渡った醤油と出汁の後味を残してホロリと溶けてしまった。智太郎が頬張っていた肉も気になり、私も頬張ると大根よりも醤油と出汁が良く絡んでいた。一緒に肉に絡んでいた艶やかな白滝が、少し濃い味を緩和するよう。思っていたよりも柔らかい牛肉は、すぐに解けて肉の旨味を口中に広げた。飲み込んだ後に、しまったと思った。炊きたての白米と一緒に食べたら絶対に美味しかったのに!
「まったく……千里様の悲鳴がこちらまで聞こえましたよ。何事かと思いました」
呆れ顔で眉を寄せるのは、智太郎が戻ってくるまで、守り人をしてくれていた後藤だった。後藤は蓮根を箸でつまんだ。私の言付け通り、黎映と共に待ってくれていたのに……なんだか申し訳なくて私は小さく身を縮めた。先日鴉の侵入を許してしまったばかりだったので、また妖が現れたのかと狩人の皆に緊張が走り、後藤はすぐに駆けつけ脱衣所の扉を叩いたのだ。脱衣所の扉を開き、現れた智太郎の頬に腫れた赤い手形があるのを見て、後藤は遠い目をして納得したらしい。
「尾白……私もこんな事は言いたくないのだが……」
「あ、あの! 今後気をつけますので! 」
後藤が智太郎の堪忍袋の緒に触れる前に、私は慌てて後藤に謝る。これ以上、その件を広げてはいけない。絶対に。
「大体何で、呼び捨てなんだ」
智太郎の呟きに、ポカンと惚けたのは黎映だった。どうやら、黎映が私の事を呼び捨てにしたのが気に食わなかったらしい。黎映は気を取り直し、微笑みを智太郎に向ける。
「私は千里に、そう呼ぶようにと許可を頂きましたので」
無言で私をじっとりと横目で睨む智太郎に、私は小首を傾げる。
「だって、これから協力しないといけないのだし……さん付けじゃ、なんだか心地悪いというか。それに、綾人だって、私の事を呼び捨てにしているし」
「綾人は美峰がいるから良いんだ。それに綾人と違って会ったばかりだろ。しかも得体の知れない奴だ」
「……尾白さんの許可が必要だったのですね」
黎映は、得体の知れない奴、と言われた事を気にする様子も無く、くすりと笑う。しかし、その次にとんでもない爆弾を放り込んだ。
「お二人は恋人同士でしたよね。軽率でした……」
潤んだ赤と白の瞳を伏せながら、告げられた黎映の言葉を理解すると、私は茹でダコのように顔が熱くなるのを感じた。失踪前に伊月誠から聞いたのかもしれない。確かに智太郎には、偽の恋人を演じてもらっていたけども……! 今は違う。確かに偽の恋人では無くなったのかもしれない、と思う。かと言って本当に恋人同士では無いはず……。お互いの気持ちは分かったけど、私は智太郎に言えない罪がある。告げられないまま、恋人になんて……なれない。……どちらにしろ告げれば、共には生きられないのだから。ちらり、と智太郎を振り返ると……黎映を微笑んで見つめていた。但し、その微笑みには冷気が纏わりついていた。この冷気には覚えがある……殺気だ。智太郎は黎映に告げた。
「ええ、そうです。だから、千里とは距離を保って接してください」
似合わぬ敬語に、冷気を湛える笑みを浮かべる智太郎が告げた言葉に衝撃を受け、私は紅潮した頬のまま瞠目した。
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