第五十二話 腕時計と浴室
私は椅子に座ったまま、中々浴室から出られずにいる。血塗れていた身体を洗うためとはいえ、夜じゃないのに、お風呂に入るのは調子が狂う。右上を見上げると、曇りガラスの窓からぼやけて見えるのは、凄い勢いで灰色の空を切って落ちる雪だった。さっきまで優しく降っていた雪はあっという間に量を増やし、庭を見るのが怖い。黎映達を待たせているのだから、早く出て着替えなくては。湯を張る時間など元々無かったのだからゆっくりできない。だが、シャワーから背中を打つ温かさを止めてしまえば、すぐに身体が冷えるだろうと思うと、躊躇ってしまう。
あと数秒だけしたらシャワーを止めて出よう。そう覚悟を決めていると、何故か左側の折れ戸の向こうから、足音が聞こえ振り向くと……曇りガラスにぼやけて動く影がある。息を呑むが、すぐに聞き覚えのある声がする。
「悪い、忘れ物した」
智太郎が戻って来たらしい。普段は智太郎は狩人達が使うもう一つの浴室を使っているが、あちらに行くには客間の前の廊下を通らないと行けなかった。流石に黎映に血塗れた姿を先に見せたくは無い……という事で、私の部屋からほど近い、普段私が使っている浴室を使う事になった。智太郎の部屋からも近いし行き来の必要も無い。智太郎の方が酷く血に汚れていた為、先に入るように勧めたのだった。無意識に身体を縮める。絶対見えないとは思うけど、気持ち的に落ち着かなかった。
「そう言えば……黎映の事、言ってなかったね」
忘れ物を探す智太郎に問うと、声が浴室に反響した。
「地下で話してたあいつか。何者なんだ」
「伊月誠の弟だよ……私に謝罪しに来たの。だけどそれは建前で、本当は伊月誠を救うために私に協力して欲しいって」
「……それでお前は受けたのか」
智太郎の呆れた声が、シャワーの音に混じって私の耳元へ届く。言いたい事は分かっている。相変わらずお人好しだと言いたいのだろう。
「別にただ協力する訳じゃない。……鴉の過去夢を視る為だよ」
私は、青ノ鬼の能力だと言う未来視で、黎映が鴉の元へ導く存在だと伝えられた事……鴉の過去夢の中に智太郎を救う方法があるかもしれない事。伊月誠が大蛇と
「……
智太郎の怒りが折れ戸越しでも伝わってくるのが、ちょっと怖い。青ノ鬼がおそらく美峰に、私が他の人に知られたくないと思っている事を伝えたからだろう。事情なだけあって、せっかく協力してくれたのにフォローできない。二人に心の中で謝罪した。
「伊月家の連中なんて放っておけばいい……と言いたいが、お前は鴉に会おうとしてまで、俺が生き続けられる方法を探したいんだろ。……俺は初めからお前に協力するって決めてる。俺自身の事でもあるから。俺は、生きないといけない」
智太郎の生きたいと言う言葉を、はっきりと聞いて私は安心した。咲雪の姿に似た、地下牢での智太郎の姿を見て……私は不安を抱いていたのかもしれない。智太郎がもし、咲雪のように生きる事に絶望してしまったら。私は……もうあんな事を繰り返したく無い。傷跡なんてもう薄れてしまっているのに……手首が傷んだ気がした。
「ありがとう」
「当然だろ。お前は望むようにすればいい」
智太郎の声は私を安心させてくれる。私の味方だと、言ってくれたあの時から。
「ところで……何忘れたの? 」
智太郎は、まだ忘れ物を見つけた様子が無かった。そんなに見つけずらい物なんだろうか。
「腕時計。文字盤が三角のやつ。多分、見つからないから……そっちだ」
「ええ! 何でよ、壊れちゃうじゃん! 」
私は慌てて立ちシャワーを止める。身体が予想通り冷気が包むも、湯気のおかげか思ったより暖かい。浴室を見回すと、先程は気づかなかったが、窓枠の右端に、確かに文字盤が三角の銀色の腕時計があった。
「湿気とかでやばいんじゃないの……
「置こうと思ったら、お前が来たから……だったと思う」
「だって、先に顔だけ洗いたくて……」
そもそも智太郎が血を私につけるから……。
私はそのまま、智太郎に深く口付けられた事を思い出し、唇で人差し指の関節を僅かに咥える。首筋を這ったざらついた掌の感触を思い出し、唇を離れた人差し指は辿った感触を追うように、無意識に首筋に触れていた。
その後だって、私から掠めるように口付けをした。
だけど、何度口付けされたって、慣れる訳じゃない。
髪から滴る水滴が伝い、胸の間を辿って擽る。
「大丈夫か? 」
暫く黙ったままの私を訝しみ、智太郎が声をかける。
我に返り、腕時計を取る為に湯の無い浴槽に入る。
つま先立ちをするも、ギリギリ届かない。
「待ってね、今渡すから」
後から思えば、もう上がれるのだから智太郎に待ってもらえば良かったのだ。だが、指先がもうちょっとで腕時計に触れられそうなのに、なんだか悔しかった。
「あとちょっと……」
「……お前、もう上がれ。やっぱり俺が取るから」
「大丈夫……だか、ら! 」
その時丁度、腕時計の革を掴むことができる。達成感が身体を満たし安心する。だが、踵を戻すと何故か頭部の血が一気に下に引いていく。立ちくらみだ。手すりに掴まるも、立っていられずしゃがんでしまう。
「やば……湯冷めしちゃったかも。ごめん、もうちょっと」
待って、と言おうとしたら、折れ戸の開く音がする。
冷たい空気が、浴室に入り込み……頭が真っ白になる。貧血を起こした頭では、どちらにしろ紡ぐ言葉が見つからなかったのだが。微動だに出来ない内に、濡れた床を弾く足音がした後、柔らかなタオルが私の背中を包み込む。
「お前、さっき過呼吸起こしたくせに長く入りすぎなんだよ。止めなかった俺も悪いけど、倒れたら元も子もない」
呆れたような智太郎の声が浴室に反響し、今の状況を理解する。今、私……は、はだかなんだけど!!
「な……勝手に入って来ないでよ! 」
慌ててタオルを、腕時計ごと胸元に引き寄せる! 声を張り上げると反動で、更に頭部の血が引く感覚がある。タオル越しなのに、私の肩に触れる智太郎の掌に、意識が集中する。タオルの内、自分の肌同士が触れるのをやけに強く意識してしまう。水滴の擽るような感触の下、鼓動が痛い。クラクラするのは、湯冷めのせいなのか、羞恥のせいなのか分からなくなりそうだった。頬が熱い。
「そんな事なんて、言ってられないだろ。お前いっつも、ギリギリまで無理するから」
「そんな事無い…… 」
「自覚が無い所が問題なんだよ」
タオル越しの手が離れていく。その事にほっとするも……智太郎は何故か、私のしゃがむ、湯の無い浴槽に入ってくる。
「ななな、何なの……!? 」
混乱しながらも、智太郎を振り返って見上げる。
腰に手を当てる智太郎は、私と同じく羞恥で頬を染めながらも、眉を寄せている。花緑青の瞳に宿るのは……怒りだった。
「お前、恥ずかしいのが自分だけだと思うなよ。抵抗するだけ無駄だ」
なんとか微笑みを作り、上目遣いで見つめるも……今回は効かないようだ。
「言っとくけど、
智太郎は目を細め、ぞっとするように魅惑的な微笑みを浮かべる。まるで追い詰めた獲物を前にした猫のようだ。……指図め獲物は、私、なのだが。
智太郎は私を抱きあげようと、左手を私の膝下に、右手を背中に触れようとする……が、私はタオルと腕時計を押さえていない左手で、智太郎の左手首を掴む。
「抵抗は、するに決まってるでしょ……! 」
「往生際が悪い! 」
睨んでそんな事言われても、今の状態で抱きあげられたら……肌が智太郎の手に触れてしまうし、タオルで色々隠しきれない……! 膝下は特に駄目、智太郎の手が近づいただけで……危機を感じる!
太ももを閉じ、唇を結ぶ。絶対に赤くなっているであろう顔で、智太郎を睨む。
花緑青と、金の瞳がバチバチと火花を散らす。
こうなったら、もはや意地の張り合いだった。智太郎の右手が背中に触れても、左手が私の膝下に入りさえしなければどうにもできないのだ。必死に智太郎の左手首を押さえるも、私の右手はタオルと腕時計を押さえねばならない。こっちも離したらやばい。だが、そもそもとして私が圧倒的に不利だった。私は両手で抵抗できないし、智太郎の方が力が強いのは言うまでもない。智太郎の手が、膝下に近づいてしまう。
その時焦りからか……タオルと腕時計を押さえる右手が緩んでしまった。咄嗟にズレるタオルを慌てて右手で押さえるも……腕時計が滑り落ちてしまう。
「「あっ」」
二人の声が重なり、腕時計を掴もうと手が伸びる。私が左手を伸ばすも、僅かに智太郎の左手のほうが早かった。浴槽に落ちる前に、智太郎は腕時計を押さえることができたが……その左手は腕時計と共に、触れてはいけない部位に触れていた。
智太郎のざらついた左手は……タオルが半分ずれた、私の僅かに膨らんだ左胸に触れていた。腕時計を追った私の左手は、智太郎の手に添えられるように重なっている。
「……っ」
私の悲鳴が、昼間の浴室に反響した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます