第四十九話 欲望


 

――*―*―*―《 智太郎目線 》―*―*―*――


 

『……わたしは、智太郎の事が好きだから、怖いの』


『……私は知られたくない。偽物の私でいいから、智太郎には笑ってて欲しい。好きだから、生きてて欲しいの』


 金の瞳を伏せて、苦しげにそう告げた千里の涙は、凍てつく雪の白に染みた。思い出す度に俺は、これが現実がどうか分からなくなる。だが、鼓動が五月蝿い程に自分を震わすのに、目も、耳も、温もりを感じた繋いだ手も、全ての感覚は、あの時の千里を確かに覚えている。

 だが、千里は何かを俺に隠している。想いを受け入れるのを躊躇う程に。全てを知っていたはずの存在の中に、顕現した秘匿。それを認識した事実は、秘匿を暴き蹂躙したいという欲求に変わった。


――欲求は、燻っていた欲望と同化する。

  

 幼い頃……。

 咲雪が亡くなり、地下から出たばかりだった頃だ。千里が遊び疲れて、眠ってしまった事があった。包帯が解けそうになっていたから。あの手首の傷がずっと甘く香っていたから、我慢できず、千里の傷に衝動的に口付けをしてしまった事がある。消毒されたガーゼのこもった匂いの中、強く感じる甘い香り。

 滑らかな白い肌を唇が掠めた途端……眠っていた妖の本能が、俺を引き裂く様に咆哮した。白い肌を牙で引き裂いて、血の一滴足りとも残さずに、喰らってしまいたい……。自身の中に潜んでいた凶暴さに愕然とした。手首を離し、少しでも離れようと藻掻くように後ずさると、尻餅をついてしまう。眠る千里の呼吸。桜色の唇。鶯色の髪から僅かに見える、白い首筋の下の脈動を明確に感じる自分が恐ろしくなり、俺は震える身体でその場から逃げ出した。

 その時から、幾度も、衝動に怯える夜を過ごしてきた。妖の狩人として尾白の名を継いだ時から、対価として、地下の部屋で血を与えられるようになった。千里を本能のままに殺さない為だ。桂花宮が連れてきた、人間の血を喰らった。彼らの眼差しは深淵を覗いたように絶望を宿し、死を望んでいるのかもしれないと心の何処かで気づいていた。血を喰らっても、彼らを死なせたく無いと唇を噛んだ。千里の傍であの甘い香りに耐えきれない時は、それでも牙を彼らの首筋に突き立てた。人として妖の本能を否定したい思いとは真逆に……血に歓喜する自分がいた。

 地下は狭い幸せの世界の象徴でもあったけど、今の俺には欲望の象徴でもある。翔に視せられた、地下に千里が横たわり、幼い自分が牙を千里の血で赤く染めた夢は俺の本能だった。眠る千里の鶯色の睫毛も、桜色の唇も、白い手足も、金木犀の花に似た甘い香りも、鶯色の髪一筋に至るまで、全て俺のものに出来たら。その切望は……本能なのか、想いなのか、分からなくなる程に心を強く占めていった。母さんは、こんな叶わぬ切望に耐えきれなくて死を選んだのだろうか。

 

……グゥヴヴヴヴヴヴッ


 獣の唸り声で、俺は我に返る。獣の妖はこちらを唸りながら睨んでいた。陽光に照らされるのは、似合わぬ血塗れた雪原だった。風花が、凄惨な血の跡を少しでも覆うかのように降ってくる。妖は血の滴る、人間の片腕を咥えている。咀嚼し骨が折れ、血肉を引き裂く嫌な音がする。宮本の腕だ。血の生臭い匂いが鼻をつく。宮本に庇われ、呆然と座り込む今泉を叱咤し、先に二人を桂花宮に送り返した。宮本を引き摺りながら支える今泉の足跡が、背後に続いている。腕を喰らった獣の妖を、俺は先程、花緑青の妖力を纏った銃弾で撃ち抜いた。冬景色に同化するような白練色の体毛を震わせ、撃ち抜かれた腹から血を滴らせる妖を俺は見つめる。もうこの妖は、死にかけだ。この白練の妖は、眠りから目覚めると共に人を喰らいはじめていた。白練の妖は本能のままに人を殺したのだ。許せない、と思うと同時に、もし俺が完全に妖となってしまえば、目の前の妖と一体何が違うのだろうという恐れが足を竦ませた。

 僅かな隙を狙い、白練の妖は、咥えた宮本の片腕を離し、その赤く濡れた牙でこちらに襲いかかった!

 俺は妖力を解放し、銃を投げ捨てる。花緑青の陽炎が自身の右手を纏うのを確認すると、白練の妖の首を切り裂いた! 憎悪に咆哮した表情のまま妖の首がとび、玩具のように白い地面を跳ね、血の跡をつけた。残された胴体は肉と骨の断面が見えた。胴体は倒れると、じわりと雪原をまた赤く染めた。

 白練の妖は倒した。安堵するのと同時に違和感が身体を襲う。視界を掠める自身の白い尾に、愕然とする。俺はいつの間に妖化していた? 疑問が掠めるのも束の間、花緑青の陽炎は抑えようとする意思に関わらず、強く燃え上がる! 熱の奔流が津波のように理性を押し流そうとする!


「駄目だ!! 」


 身体に爪をたて、自身を燃やそうとする熱の奔流に逆らおうと藻掻いた。

 俺は、千里の元に帰らないと行けない。

 生きて、隣に立つと決めたのだから。

 金の瞳を細め微笑む千里に、俺が欲しいのは千里の存在そのものだと気がついた。俺が死んだ後も、共に過ごした時間で深く爪痕を残して、忘れないで欲しいと思っていた。だが、本当は千里と共に生きたかったのだ。千里の隣を独占するのは、これからも俺だけでいい。千里が好きなのは、鴉では無かった。千里の想いが自分と同じだと分かった瞬間……衝動が俺を貫いた。

 僅かに見開いた千里の金の瞳に、俺の花緑青の瞳が反射し支配欲をくすぐった。決して逃がさない、と千里の手を繋いだまま、体温を閉じ込めるように、白い吐息を桜色の唇ごと奪った。信じられない程、柔らかな熱に、胸が焦がされたようになり理性が揺らいだ。渇望していた、甘い味がした。


「何故だ……」


 お互いの想いが分かった時からじゃない。金木犀の下で千里に口付けた時から……今まで抑えられていたはずの想いと本能は揺らぎ始めていた。千里にはこの血塗れた欲望を知られたくないのに、千里を想う度に理性のたがは外れていった。妖力を、妖の本能を、コントロール出来なくなっていったのだ。


「俺も、お前に笑ってて欲しいだけなんだ……」


 血塗れた雪原に、何かが落ちて染みる。

 微笑んだ、自分の頬を伝った涙だった。

 涙の跡が、冷たく頬を引き攣らせる。


 千里の傍に、帰りたい。


 そう思った瞬間、何かがぷつりと切れた。あんなに耐えられなかった熱の奔流が嘘みたいに静まり、身体を冷やす。違う、無くなったわけじゃない。身体の奥底を支配したのだ。身体が自分の意思とは関係なく、動く。二人の狩人の足跡を追うように。


 その妖は白銀の耳と尾を揺らし、赤い双眸をひらいた。自身の中に燻り続けた衝動のまま、血塗れた雪原を歩み始めた。


 

―*―*―*―《 智太郎目線 end 》―*―*―*―


 

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