第三話 黒い羽
私は自分の部屋の襖を閉めると、へたり込んだ。いつも通りに振舞えただろうか。動揺は隠せていた?
智太郎は勘がいいからよく知っている私の心の内なんて、バレバレかもしれないけど。
金木犀の木の下で、私を捉えた花緑青の瞳を思い出す。その奥に宿る感情を、私が探る事は出来なかった。
何で……智太郎はキスしたのかな。思い出すと、顔から火が出そうになる。優しく触れてきた感触を思い出すと胸が知らない鼓動を打ち始める。
でも、何にも言わないって事は……智太郎が私に告げた言葉の通り、意味なんて無かったんだよね。それならば、自分だけ動揺したって仕方ない。いつも通りに振る舞わなければならない。不自然な表情は訝しまれてしまう。何も無かった事にすれば、このままの関係で居られる。
私はそのままの繋がりで、初めに私に口付けた存在を思い出した。智太郎に見られてしまった事もそうだが……自分が鴉の口付けに一瞬でも抵抗出来なかった事が信じられない。しかも、ファーストキスだったと言うのに。初めてなのに好きな人としたかったとか、もやもやする暇も無かった。
私とは、無縁な悩みだろうけど。 突然、二人に口付けされるなんて異常事態だと思う。とんだ災難、と言って片付けてしまっていい物なのか……私には経験が無さすぎて分からない。
浮世離れした美しさを持つ男。その背には人の物では無い漆黒の翼があり、私とは違って自由に何処へでも行ける。黒曜のような深い黒色の瞳が近づくと、私の金の瞳を反射し夜空のように瞬いた。その瞳に宿るのは、静かな黒とは真逆に焼け付くように深い想い。私の覗けない深淵にある感情。
『…思い出して欲しい』
鴉の告げたあの言葉と共に、瞼の裏に浮かんだ秋暁の空の下の光景を思い出す。知らない誰かになった私は、鴉の頬に伝う、暁光を受けて金色に光る涙に触れた。
鴉は何故辛そうに泣いていたのだろう? 私の唇を奪ったのは、どうして?
普通の人間だったならば、好意を抱いていると解釈していいのだろうけど……私は鴉の事を知らなすぎる。妖が人に抱く感情は、私は恨みしか知らないから分からない。
智太郎が私に口付けしたのは、妖の毒から守る為、だし。……思えば、守り人って結構大変な仕事だよね。どこか釈然としないまま智太郎に同情した。
智太郎と鴉の事をもやもやと考え続け、逡巡するループから抜け出せないまま……私は早々に湯船に入り、夕飯を摂ると、逃げるように眠りについた。
疲れている時は眠りが深いから夢なんて見ない、と聞いた事があるのに、意識の闇の中、私を迎えに来る光がある。……あの金の光には既視感があった。
庭の金木犀の下で遊んでいる夢だった。これは知らない誰かじゃなくて、私の過去だ。やけに金木犀の木や、屋敷の屋根が高く見える。目線が低いから、きっと幼い頃だろうか。縁側の高さが、庭にいる私のお腹程の高さだから……四歳程だろうか?
甘い香りと舞い落ちる薄黄色の花の下、私は一人で遊んでいる。そして、木の影から見える黒い翼の持ち主に声をかけた。 金木犀の花で作ったサラダを両手で掬って向ける。
今日も彼は私と遊んでくれる筈だから。私は期待を込めて微笑みを向けた。
私に気づくと、彼は振り向き、黒曜石のような瞳を細める。穏やかな慈愛で包み込むように微笑みを返してくれたから、私は安心して伝えられた。
「ねえ、一緒に遊ぼう?」
幼い自分の声で夢から目が覚めると、見慣れた木目の天井が目に入る。障子から透ける庭の陽光と、鳥の鳴き声で朝だ、と認識する。
あの夢の存在は鴉だろうか? 私が四歳程なら、智太郎と出会った頃より前の筈だ。七歳の時に智太郎と会ったのだから。そんなに幼い頃の記憶は無かったが……何故桂花宮家に妖の彼が居たのだろう。この前も結界など無いかのように、私の前に現れた。古い妖だというから……強大な妖力を持つが故なのか。
起き上がると、私は朝の身支度を始める。
さぁ、着替えなくては、と着物箪笥を開く。桐の香りと共に、本畳みされた着物達が仕舞われていた。
今日は何にしようか……と考え込む。今日はお勤めが無かったから、少し自由にしてもいかもしれない。そうなれば着たい着物があった。
早速私は取り出すと、鏡の前に立つ。
裾と袖に刺繍がある着物だ。生成色の着物に、
帯は合わせて同じ浅葱色の、正面とお太鼓に白い鶴が舞う名古屋帯にした。重ね衿と帯揚げは萩色、帯締めは
守り人の智太郎は、部屋が隣だ。恐らく、もう起きているだろうけど。昨日のことがあるから、きっと
帯締めの結びに満足した時……突然、障子が開いた。
「起きたか」
朝の陽光を纏う智太郎は、ふわふわとした白銀の髪も相まって幻想的に見えた。少女のような顔立ちに
「もう、突然開けないでよ! 着替え中だったらどうするの」
唇を尖らせて、私は腰に手を当て怒るふりをする。何時もなら一言くらい告げてから開けてくれるのに、智太郎も昨日の出来事のせいで警戒しているのか余裕が無いように感じられた。
「お前の着替えなんて、興味無い」
智太郎は瞬きをしたくらいで、表情を一切浮かべないままに告げ、絶句してしまう。そりゃ、昨日私に口付けしたって、何も無かったような様子だったけど……。
いつもと変わらない態度は有難いを通り越して、少し悲しいくらいだった。
「でも私は気にするから、止めてよね」
智太郎は歩き始める。慌てて着いていく。守り人の朝のお迎えもすっかり雑になったものだった。
……言葉も返さないのは、何だか様子がおかしい気がするけど、やっぱり警戒しているせいだと思う。朝食へこのまま二人で向かうから、ついでに問いただしてみようか。
今日は金花姫のお勤めも無く、来訪者などは居ないから私だけは余裕がある。智太郎含め、屋敷の警護につく妖の狩人達はピリピリと緊張が耐えないけれど。
金木犀の甘い香りが私達の歩く縁側に届く。その香りに再び、鴉の事を思い出す。秋暁の光景と、私の過去の一片。
確かめられるならそうしたい。植え付けられた疑問は私の心を覆うばかりで晴れてはいかないのだから。
だけど、鴉に会う方法なんて無い。特にこんなに警戒が厳しい中では。こっそり溜息をつくと、私の前に黒い何かが舞い落ちてくる。
「黒い、羽? 」
ふわふわと手の中に落ちてきた羽に触れた瞬間、ピリッと刺激がある。静電気、じゃないよね。
「智太郎…」
安易に怪しい物に触れてしまった後悔から、声を掛ける。だが、智太郎はまるで私が声を掛けたことすら、気づかないようだった。
おかしいのは智太郎の態度じゃなくて、何かの力が私達に起こす不可思議な干渉の事。
「この羽のせい……? 」
私は反対方向に歩き出すと、試しに屋敷の外へ向かう。途中、屋敷の者とすれ違ったが、やはりこちらには気づいていないようだった。
遂に外に出てしまったが、誰も気づいた様子はない。一人で外を歩くのは初めてだ。勢いで飛び出してきたものの、行く宛てなんかない。それに……建物の影や、道の僅かな水溜まりから、怪しい気配がする気がする。
【あマ"ィ、香リ"、ヨ"こセ……】
不味い……聞いてはいけない声を聞いてしまった。直ぐに屋敷の中へ戻らなくてはいけない。闇の香りのする声から逃げようと走り出すと、誰かにぶつかってしまった。
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