第四話 鴉との再会


「ご、ごめんなさい」


 言った後で、今は誰にも見えない事を思い出した。だが、見上げるとそこに居た漆黒の髪の男は、私の知っている存在だった。浮世離れした美しいかんばせに一瞬息を呑む。……鴉だ。昨日とは違い黒い翼は無く、黒のチェスターコートを羽織り、普通の人間のようだ。人違いかと思ったがあまりにも似ていた。


【 よ"コセ】


 まだあの声が追いかけてくる。姿は見えないのに、舌なめずりしながら闇の吐息が近づいて来るのが分かる。恐怖に駆られて懐の対妖の、護身用の小刀を声に向かって振りかざした。


「来ないで……! 」


 すると、鴉が私の肩に手を置く。


「失せろ」


 その一言だけで、影に渦巻いていた怪しい者達の気配が消える。息をつき、鴉を見上げると頬に一筋、赤い傷が走っていた。


「ごめん! 痛い、よね……」


 先程の小刀で傷つけてしまったようだ。慌てて小刀を仕舞う。対妖用の小刀だから、治りにくいはず。生力を持たない存在である、妖を治す事は私には出来ない。ハンカチしか無いが……押さえるだけでもましだろうか。


「ちょっとだけ、屈んでもらえる? 」


 鴉は言われた通りに屈んだが、思ったより整った顔が近くて、指先が震えた。艶やかな漆黒の睫毛が長い……。唇を結んで意識を逸らすとハンカチで血を拭いた。傷を押さえる為に鴉に渡そうと考えるも、血を拭いた頬の下に、傷跡は無い。魔法のように傷は治っていた。小刀とはいえ、対妖用の武器で傷つけたのに再生が異常に早い。鴉が強大な妖力を持つ半不死の妖、と言う事を再認識した。


「助けてくれてありがとう。それから、ごめんなさい」


 私はハンカチを引っ込めると、鴉は屈むのを止める。鴉の顔色を伺うが……黒曜の瞳の下の感情は伺い知れない。やっぱり怒ってるのかも……と少し焦り始めた時、鴉の唇は言葉を紡いだ。


「気にしなくていい。千里に与えられるものなら、痛みだろうと愛しいのだから」


 なんて、浮世離れした美しい顔立ちに微笑みを浮かべて言うものだから、頬が熱い。心臓に危ない台詞セリフだと思う。どんなにドラマで使い古された台詞でも、彼ならば違和感無く自身の言葉になる。だがその台詞は現実的に考えれば一歩間違えば自虐的な性癖になってしまうと言うか、間違えているというか。


「そういうのは言わない方が、いいと思う」


 私が頬を染めたまま言うと、鴉は微笑みを引っ込めて俯いたまま、黙ってしまう。僅かに寄せられた秀眉しゅうびは、考え込んでいる様にも見える。特に怒ってる訳でもないみたいだし、元々寡黙な性格なのかもしれない。半不死の古い妖である筈なのに、緊張感の無いおかしなやり取りだった。堪えられずに、私は微笑む。今ならば、感じた疑問を鴉に聞けるのでは、と思い当たる。


「私の事、知ってるの?」


「昔から千里のことは知っている」


 鴉は頷く。やはり夢の出来事は事実だったのだ。だけど私は、夢以上の出来事を覚えてはいない。秋暁の下の光景といい、まだ疑問は尽きない。ふと、鴉と呼ぼうとして唇を開きかけたが閉ざす。鴉、と言うのは本当に名前何だろうか。大抵妖の呼び名は、人が勝手につけた通称の筈だ。目の前の存在は警戒すべき妖の筈なのに、私は親しみを覚えてしまっていた。


「ねえ名前はあるの? 鴉と言うのが名前じゃないよね」


「常に呼ばれている名前はない。好きに呼んでいい」


 鴉は再び包み込むように優しい微笑みを浮かべる。好きに呼んでいいって言われても、人の名前なんて付けたことがない。自身の子供に名付ける親ならいざ知らず、まだ十七歳の私には縁が無い筈の事態だった。

 鴉は翼だけでなく、髪も瞳も艶やかに黒い。昔、父様の部屋で同じような艶やかな黒い石を見つけたことを思い出した。鴉の瞳を見て、似ていると感じていた。


「黒曜、なんてどうかな」


 鴉を一瞥するが、彼は漆黒の睫毛を僅かに羽ばたかせただけ。気に入らなかったかな、と私は逡巡する。


「構わない」


「良かった! じゃあ黒曜」


 私が笑顔でそう呼ぶと、黒曜は瞳を細めて微笑んだ。不思議な感じがした。慈愛が宿る、その微笑みは懐かしいと感じられたから。


「その……私、黒曜に確かめたい事があって」


 疑問はあり過ぎて箇条書きじゃ、今の私には纏められない。逡巡する私はふと、手の中の黒い羽の存在を思い出す。闇の声に追い掛けられ、恐怖で握り込んだままだった物。黒曜は、黒い羽を持つ私の手に触れた。その手は冷えていたが、私の体温が伝わるのを拒まず、想像していた様な無機質な冷たさでは無かった。だが、それでも私は軽く混乱した。


「この羽は、黒曜のなんだよね? 」


「羽は千里の好きにしていい。望めば、今日くらいはあの屋敷の結界など意味がなくなる」


 やはり、漆黒の羽が舞い落ちてきたのは偶然では無かったのだ。しかし偶然で無いならば、目的が有るはずだった。


「私を屋敷から連れ出したかったの? 」


 私は小首を傾げて問うが、黒曜の瞳は、綺麗な月夜つくよのように穏やかだ。だが、漆黒の中には妖の者である証の細い瞳孔がのぞいている。永い時を生きた妖である黒曜には私の考えてることなど見透かされていそうだった。私が黒曜に問う事が有るように、黒曜も私に対して目的が有るはずだった。唯、私を連れ出すだけが目的と言う可能性は無いだろう。だが、屋敷の外で妖と二人という状況なのに何時いつもより呼吸が軽く感じる。やっぱり私は心の何処かで自由を望んでいたのだろうか。覚悟したはずなのに、不意に胸を針で付かれた様になる。


「少し歩こうか」


 黒曜の言葉に頷こうとして、私は智太郎の存在を思い出す。私を守ろうとしてくれているのに、このまま黒曜に応えていいのだろうか。答えの無い私の逡巡を読み取った様に、黒曜は言葉を続ける。


「私に確かめたい事が有るのだろう? 」


「そう、だけど……」


 黒曜は一度私に触れた手を離し、掌を差し出す。迷いの無い眼差しに、自分の中の逡巡が浮き彫りになる。


「なら、手をとるといい」


 僅かな恐れを超えて、未知への追求の方が勝った。躊躇った末に、差し出された掌に自らの手を重ねた。 その瞬間木の葉と共に、屋敷から金木犀の甘い香りを巻き込んだ金風きんぷうが吹いた。細かな塵が目に入りそうになり、思わず私は瞼を閉じた。その風はすぐに止み、頬にそよぐ空気は風と言うには穏やかだった。香りすらも変わった。飲食店の裏口からする罪悪感のある香り。車の排気ガスの砂埃っぽい香り。通りすがりの誰かの香水の香り。無臭と勘違いする程薄く、入り交じった雑多な香り。

 瞼を開くと、そこは知らない街だった。様々な店が向かい合う、洋風のお洒落な通り。ミントカラーのジェラート店や、モダンなインテリアショップなどが立ち並ぶ。


「今日は行きたいところに行けばいい」


 私の手を取る黒曜が振り向くと、完全に思考停止していた頭が稼働を始める。まるで、闇に潜んだ者達に追われていた事の方が夢だったのかと勘違いしてしまいそうになる。確かに先程まで桂花宮家のすぐ外に居た筈が……黒曜が私を連れ、一瞬でここまで移動したのだった。

 ふとお腹が空腹を訴えて捻れかけ、慌てて私は両手で押さえる。そう言えば、朝食がまだだった! ……聞こえて無いよね、とヒヤヒヤしながら黒曜を上目遣いで見つめる。黒曜は瞠目して瞬くも、秀眉を下げ悪戯をするような笑みで綻んだ。端麗な顔立ちに子供っぽい表情が浮かぶと、驚くほど魅力的だった。私は一瞬、羞恥を忘れ放心する。目の前の存在が妖である事を忘れてしまいそうだ。


「近くにカフェがある」


 やはり聞こえてしまっていた! ? 黒曜の声に、私は赤らんだ顔を押さえ、天道虫てんとうむしのように小さくなりたくなる。だが何とか自らを奮い立たせ、身を翻して歩み始めた黒曜の後を追う。

 暫くして辿り着いたのは、ラベンダーの外壁が穏やかな北欧風のカフェだった。黒曜と共に中へ入ると、アイボリーの内壁と、天井に飾られたドライフラワーが特徴的な内装だった。チークの木目で統一された丸テーブルの客席には、三人の女性客が談笑している。大学生と高校生だと分かるのは、一人がセーラーカラーの制服に黒髪だから。私と黒曜が丁度彼女らの隣の席に座ると、女子高校生はぴたりと会話を止めて一瞬目が合う。……好奇心旺盛な眼差しは、非常に気まずい。知り合いでは無い筈なんだけど。 女子高校生は再び会話に戻った……と思うと、私の心臓を凍らす一言を言い放つ。


「お洒落カップルだね、良いなぁ……」


 羨ましそうな女子高校生の言葉に、私は今日の着物を思い出す。生成色の着物に、はぎ色と浅葱あさぎ色の二連のスカラップ刺繍。自画自賛したくなる程お気に入りの着物は、確かに気合いが入っている様にも見えるだろう。だが、問題はそこではない。

 目の前の黒曜は、すらりと長い脚を組んで、僅かに漆黒の長い睫毛を伏せている。シンプルなデザインの筈の黒のチェスターコートは、彼の持つ憂いのある雰囲気を引き立てている。浮世離れした美しさは、素朴なテイストのカフェと乖離するかと思いきや、寧ろ名画を鑑賞しているかのように周りの空気ごと変えてしまった。

 周りの人から見た今の私は『金花姫』でなく、黒曜は妖でない。だけど、恋人同士では無いんです! それは大きな勘違いです! と否定して回りたいが、そんな事をする訳にも行かず私はテーブルのチークの木目と対峙する事しか出来なかった。水を運んで来た女性店員に顔を上げるも、彼女も黒曜の雰囲気に呑まれ頬を染めた。

 それとも、これが妖の力……!? いや……何か違う気がするけど。顔を上げた私は必然的に黒曜と視線が絡む。視線が合う度、ほんのりと微笑んでくれるから、恥ずかしくて再び俯くしかない。


『誘惑……されてんなよ』


 私にそう告げた智太郎の言葉を思い出した。あの花緑青の、強い瞳の輝きは私を現実に引き戻す。あの口付けも智太郎が言うように、私を惑わすため?


「黒曜は、やっぱり私の力が欲しいの?」


 口に出すと、それが当たり前な気がする。黒曜は妖なんだから、金花姫である私の生力を得たいと思うのは当たり前だ。私を追ってきた闇の声のように。


「確かに、千里は甘い香りがする。だが、私が千里を求める理由にはならない」


 気がつくと黒曜は私の頬に触れていた。白檀の香りが近い。ひんやりとした手に、私の熱が移りそう。黒曜と視線が交差すると、自然と唇が目に入る。黒曜の口付けを、私は知っている。意識しないように、震える睫毛を伏せた。


「私は、貴方をハッキリと覚えていないけれど」


「千里とは、あの金木犀の木の下で会った。千里が幼い頃、よく一緒に遊んでいた」


 その言葉に朝見た夢を思い出す。夢で見た時間に絵筆で、色が塗られていくよう。


「金木犀の花で飯事ままごとをして遊んでたよね、それは覚えてるよ」


「だが、会ったのはもっと昔だ」


 その時も私は十分幼かったはず。それよりも昔とは、どういうことだろう。


「思い出して欲しい。私との約束を……」


 忘れている約束って何……? 考えようとすると、秋暁の光景が脳裏を支配した。


 

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