第二話 智太郎の過去


――*―*―*―《 智太郎目線 》―*―*―*――


 

 言いかけた言葉を、俺は飲み込んだ。言いようの無い怒りが込み上げる。千里はいつもほんの少し、泣きそうに諦めたように笑う。なんで自分に枷を付けるのか。もちろん、周りがそれを望んでいることは知っている。

 

 ――先祖返りで生まれた、貴重な生力の持ち主。

 

 その生を授かった時から、自身の膨大な生力と、他人の生力を自在に操れる能力者の千里には自由が無く、桂花宮家の内で過ごしてきた。だが本当に望めば、僅かでも自由になれる筈なのに、自由になれる可能性を千里は自ら諦めてきた。


「怒ってるの?」


 眉を寄せて俯いた俺を、小首を傾げて千里が覗き込む。その表情は仕方ないと言うように、微笑している。千里の金の瞳には優しさが滲んでいた。肩まで整えられた、鶯色の髪がさらりと胸に流れる。いつも千里から仄かに香るのは、金木犀のような甘い香り。


「別に」


 俺は甘い香りを纏う千里から意識を逸らすように、視線を躱す。だが千里は気にする事無く、俺への言葉を続ける。


「智太郎は優しいね。私の……味方、だもんね」


「ああ」


 その言葉に俺は、今度は千里の金の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。昔、俺は千里と約束を交わした。 千里が約束を覚えていた事に、自らの胸の内を暖める感情があった。


 約束をしたのは、千里と会ったばかりの頃。十年程前か。俺は、物心ついた時には既にこの屋敷にいた。但し、住んでいたのは陽光の差す部屋ではない。窓が無い為、日が差さない地下室で母と二人で暮らしていた。


 思い出せる母の姿は、さらりと腰まで伸びる白銀の髪。花緑青はなろくしょうの瞳は強く輝く事は無いのに、いつも静かな願いを秘めていた。細い体は、消えてしまいそうな程白く透き通っている。よく煙管キセルを吹かしていて、苦い薬草の香りが地下に広がっていた。そして、母には人のものでは無い白銀のけもの耳と尾があった。

 

 母である埜上咲雪のがみさゆきは半妖だった。少女の頃に親を亡くした咲雪は、保護という名目でこの屋敷に軟禁されていた。煙管の中の薬草は、喫煙した妖を人の血肉を求めないように、麻痺させる物だった。半妖、というどっちつかずの存在を妖の狩人達は警戒した。


 人の血を引いているのだから、保護すべきではある。だが、ある日突然妖側へ裏切るのではないか? そんな疑心暗鬼に常に晒されていたようだ。それに、手元に置くことで桂花宮家当主の名声は上がる。妖を飼い慣らしていると。

 

 だが咲雪には転機が訪れる。屋敷の守り人だった尾白渉おじろわたると恋に落ちたのだ。父である渉と結ばれ、咲雪は俺を産んだ。父が生きているうちは、隔絶された生活の中でも確かに幸せだった、らしい。


 というのも、父である渉の事はほとんど覚えてはいない。二歳の時に、妖との戦いで亡くなったからだ。咲雪は、よくあの人が生きていれば、とか、あの人とよく似ている、と俺の頭を撫でた。時々遠くを見るように、過去に思いを馳せる母を複雑な気持ちで見ていた記憶がある。

 

 そんなある日のこと、屋敷の当主が、俺と同い年程の娘を連れて現れた。宿る色とは裏腹に、意思の弱そうな金の瞳がこちらを見つめる。千里だった。


「お前達の次のあるじだ」


 千里の父である桂花宮家当主、桂花宮 翔星けいかみや かいせいは告げた。咲雪は、ちらりと彼らを一瞥いちべつしただけで、また煙管を吹かし、白い煙を地下室に漂わせた。


「千里、です。よろしくね」


 ぎこちないながらも、千里は微笑んだ。屋敷の人間など気に食わなくて睨みつけただけで、俺は返事をしなかった。 だが、それから千里は一人でよく地下室に来るようになった。その度に、他愛ない無い会話を俺に望んだ。


「何故、そんなくだらないことを話に来る。他にも話す相手なんているだろ」


 ある日俺は、遂に我慢ならず聞いてしまった。千里は言われる事を分かっていたかのように、寂しさを口元に滲ませて微笑した。


「私ね、友達っていないの。外にも出たことないから、こんなことお話する人もいないの」


 意外だった。屋敷の娘ならば、さぞ自由だろうと思っていたのに。地下室から、屋敷の中までに変わっただけ。その時の俺は千里が次期当主という以外に、どういう立場なのか理解していなかった。千里は俯く。


「私は出ちゃいけないんだって。守り人、ができるまでは」


「守り人?」


「そう、私の事を守る人。でもね、皆私じゃなくて、『金花姫きんかひめ』の事を守りたいの」


「金花姫?」


 俺は眉を寄せる。聞いた事が無い存在だった。だが、千里の口から始めて放たれた言葉は、彼女がその存在に抱いている感情を俺に垣間見せた。


「そう。私は『金花姫』の事が嫌い」


「くだらない」


 気がつくと俺は、苛立ちのまま言葉を吐いていた。


「いつか、お前は外に出れるんだろ? 俺とは違う! 」


 もしかして、地下室から出れない俺と同じなんじゃないか、と一瞬でも思った自分が許せなかった。千里の抱える物を知らない俺は、過小評価していたのだ。


「ごめ、んね。……本当は友達になって欲しかったの。でも、そうだよね。桂花宮家わたしたちが智太郎と咲雪さんを閉じ込めてるんだよね」


 金の瞳は瞠目し、揺らいだ。掠れた声で言葉を残し、千里はそのまま地下室から出ていった。こちらが望んでないのに、千里は自分勝手に毎日のように地下室へ訪れていた。だが、友達になって欲しかった、という一言だけは抵抗すること無く、心に飲み込めた。

 

 もしかして、自分も千里と同じだったんじゃないかと気がついた。

 

 屋敷の人間なんて、皆気に食わない。だけど、母以外に信頼できる相手がいる訳でもない。

 

 ――孤独だったのだ。

 

 鉄格子の隙間から、千里の消えた扉の向こうを見つめる。俺にはあの扉は開けられない。例え、鍵が掛かっていなかったとしても。


「後悔してるの?」


 千里が訪れている間も、黙ったままだった咲雪が言った。


「別に、俺は母さんだけいればいいから」


 咲雪は、仄かに笑うとまた煙管を咥えた。日に日に咲雪は痩せていった。咲雪が言うには、父が死に、生力を直接貰える人が居なくなってかららしい。俺の生力をあげる、と言っても咲雪は首を縦には振らなかった。


「智太郎からは生力を奪いたくない。それに、奪ってしまえば智太郎は、いつか私のように……」

 

 それ以上咲雪は口にすることなく、唇を閉ざした。母の身体が細くなる度、孤独と恐れを覚えた。ある日、咲雪が煙管に入れる中身である、薬草の箱を開けた時だった。咲雪は目を細めた。


「これは……」


「なに、母さん」


 いつもは薬のような匂いがするが、今日は甘い香りがする。その中に、手紙が入っていた。


「これはお前当てだ。だが、まだ開けてはいけない」


 そういうと、俺に手紙を渡す。


「いつ開けてもいいの?」


「もう少し、したらね」


 そう言うと咲雪は慣れた手つきで、煙管に薬草を詰める。


「……消えかけの命だが、あの娘が望むなら、それも構わないか」


  いつものように咲雪が煙管を吹かすと、白い煙と共に甘い香りが広がった。

 

 それから数日が過ぎ……ついに咲雪は起き上がれなくなった。いよいよ恐れていた日が来ようとしている。こんな日が来るのは幼い俺にも分かっていた。だが理解する事と受け入れる事は、全く別だ。


「母さん……」


 震える手で、いつものように煙管を渡そうとすると、咲雪は首を横に振った。白銀の髪が僅かに揺れる。望みが叶ったような禍根の無い微笑みの意味を、理解したくない。母の手に渡る事が無かった煙管は、震える俺の手から滑り落ちて、空虚な音がした。


「もうごまかしはいらない。私はあの人の元に逝くから」


「そんなこと、言うなよ! 俺は母さんが死んだら……」


 それ以上俺は言葉を続ける事は出来なかった。言葉にしてしまったら……それは逃れられない事実となってしまう気がして。だが、咲雪は残酷にも事実から逃がさない。花緑青の双眸に、いつもとは違う強い光を宿した咲雪は告げる。


「お前を残して逝くのは心残りだけど……お前は一人じゃない。あの娘がいる」


 俺の心臓を掴んだのは孤独じゃないという事実か。それとも深い闇の中から光を見つけたように、目覚め始めた底知れない感情なのか。俺は動揺を隠す事が出来なかった。


「まさか、千里のことか? あいつなんて……」


「智太郎、あの手紙を読んでご覧」


 言われるまま、戸棚から手紙を出して開く。そこに書いてあるのは、桂花宮 正治けいかみや しょうじという男の住所だった。俺がこの屋敷を出て、正治と共に暮らすことを打診する手紙だった。


「その男は、前当主。今の当主と違って変わり者で、性格は悪くない。その男の元で暮らして、外の世界を見るのも悪くない」


「なぜ……まさかあいつが?」


 前当主ということは、千里の祖父だ。突然、前当主から、こんな話が来るなんてそれしか考えられない。


「智太郎、お前が考えて決めなさい。後悔の無いように」


 そう言うと、咲雪は俺の手を握る。体温を感じさせないその手は比喩でなく、透けていた。


「母さん!!」


 まさか半妖であり、俺よりも妖に近い母は、身体すら残らないというのか。咲雪が柔らかく微笑むのと、その身体が消えるのはほぼ同時だった。後には咲雪の纏っていた着物だけが残った。


 透明な何かが降ってきて、咲雪の白い着物を濡らした。地下室に雨が降る訳が無かった。自身の頬を生ぬるく濡らす涙だと理解すると、やけに部屋が広く感じた。本当に、孤独だ。


「……咲雪……」

 

 千里が声を発するまで、誰かが入ってきたことすら気が付かなかった。振り向くと呆然と立ち尽くす千里が、開かれた鉄格子の向こうにいた。


千里に会うのは暫くぶりだった。久しぶりに見た千里は以前よりも窶れているような気がして、咲雪と重なりゾッとした。


「この手紙はなんなんだよ」


 怯えを誤魔化すように声を張ったつもりが、我ながら掠れた声だった。すこし皺になってしまった手紙を千里に見せつける。千里は我に返ったように瞬きすると、唇を結んだ。


「智太郎は自由になるべきだと思うから。こんな所から」


 自由になる……この牢獄から?母も死んだのに。今更じゃないか。だが、産まれた時から出たことがないこの地下室の澱んだ空気が嫌いだ。ずっと外の光を見たいとあんなに願っていたじゃないか。咲雪は、後悔のないようにと言葉を俺に遺した。だが、自由を選んだ後何がしたい?

 

 後悔、それが、あるとすれば…。


「お前はどうするんだよ」


 自分の事を聞かれるとは思わなかったのか、千里は俯く。


「私には生まれた時から、やらないといけないことがあるの」


「それは、お前が決めたことなのか」


 そう言うと、千里の顔は歪んだ。


「私には、決められないの! 選べないの! こんな私には……逃げる権利なんて無い」


 こんなに声を荒らげた千里を見るのは初めてだった。いつも、顔色を伺うように、小さく微笑むばかりだったのに。千里は手首を痒いた。その瞬間、あの甘い香りが広がる。思わず、千里の腕をとると、滲んだ包帯が巻かれていた。


「ぅ……」


 千里の顔が痛みに歪む。


「なんだよ、この怪我……香り」


 傷からクラリとする甘い香りがする。血からこんな香りがするなんて。この甘い香りには覚えがあった。諦めたように千里は溜息をつく。


「やっぱり智太郎にも分かるんだね。私は人にも生力を与えられるけど…妖にも同じだから」


 妖が愛していない者から、生力を得るにはその血肉を口にするしかない。それは、目の前の金の瞳をした少女に繋がる。傷口の甘い香りと共に。


「まさか、母さんに、血を」


「……遅かったんだよ、何もかも。だから、私……」


 千里の身体は震えていた。自身の肩を抱く千里の表情は、俯いていて見えなかった。


「馬鹿じゃないのか! 母さんはそこまでして、生力を望んでなんか、なかった」


 そう、母さんは死ぬことを受け入れていた。きっと、この屋敷に来た時から、ゆるりと。諦めに心を満たしていた。父である渉の元に逝く為に、死を望んでいたんだ。

 

 ――俺を遺してでも。

 

 俺の手を振り払い、千里は外へと繋がる扉の元まで階段を登ると立ち止まった。千里は振り返りはしなかった。


「智太郎は……ここから出ていって。もう自由だから。今迎えをこさせる」


 その一言だけ言うと、千里は扉の向こうへ消えた。光が零れる扉は開いたままだった。


「本当にお前は馬鹿だよ」


 もう聞こえないのは分かっている。


「そんなに他人に尽くしたって、返ってなんかこないのに」


 空っぽになった部屋を振り返る。俺は後悔はしない、母さん。すぅ、と息を吸い込むと、外へと走る。


 生まれて初めて出る、光の世界。

 

 心臓が踊るように身体を叩く。ひたすらに、甘い香りを辿って走った。途中から妖が逃げた、と怒声が追いかけてくる。構わず走り続けたが、鶯色の髪の、千里の後姿を見つけた所で、男に押さえられてしまう。妖の狩人である男の力に、幼い俺が抵抗出来る足掻きは僅かしか無かった。


「千里!!」


「智太郎……」


 呆然としていた千里は、顔を顰め男に視線を向ける。


「何をしているのです。その者は先代当主の所へ預けるのですよ」


 それは俺の知る千里では無かった。俺の知らない何かを背負った少女。その少女は、妖の血を引く自分と何もかも、遠い。そんな事実なんてクソ喰らえだ!


「俺は、お前の守り人になる!」


「何を……」


「俺が、お前の味方になってやる! だから」


 妖が何を言うのか、と叫ぶ声がする。だが、そんなもの、どうでもよかった。目の前の千里にこの誓いが届かなければ、俺は最後の光すら失ってしまう!


「……泣きそうな顔すんなよ」


 はっとした顔で千里が目元を抑える。

 千里の頬に、指先から逃れた涙が伝った。



 妖の血を引く者が、次期当主の守り人を努めるなど前代未聞だった。妖への憎しみを持つ者が多く集まるこの屋敷では特に。だが、守り人候補になり、他の候補と圧倒的に差をつけて、実力を身につけられたのは、妖の血を引くせいだろう。初めて、妖の血を引いていることに感謝した。だが、守り人になった今も、千里の現状は変わらない。寧ろ、守り人になっても、千里の成長と共に、この家が縛る枷も強くなっていく。


「お前、また泣きそうな顔してる」


「でも、今は私には智太郎がいるから」


 そう言って、千里は微笑む。確かにあの頃とは違う。千里を守れるくらいには強くなった。だけど、傍にいることでどれほど状況を変えることができたのだろう。


「お前が望むなら……一緒に逃げたっていい」


 本気でそう言うと、一瞬、千里の瞳が揺れる。


「確かに……たまに凄く逃げたくなること、あるよ。でも、智太郎がそう言ってくれたことを思い出すと、私はそれだけで救われるから」


 千里は、縦に頷くことはない。あいつなら、千里は頷いたのだろうか。突然現れた、鴉を思い出すと、腸が煮えくり返る。だが……どうしてあんな事をしてしまったのだろう。


 微笑む千里の桜色の唇が目に入る。


 

 あの時……金木犀の下で、鴉が千里の唇に交わした口付けを理解した瞬間。焼き尽くすかのように、激情が身体ごと自らの内側を支配した。

 

 鶯色の髪も、怯弱な意思を宿す金の瞳も、千里自身の肌と、桜色の唇に纏う、金木犀に似た甘い香り。

 

 それは決して、穢れた闇その物の、あやかしなんかが触れて良い物なんかじゃない。

 

 俺自身も含めその筈だった。それなのにあいつは俺の懊悩を嘲笑うかのように、千里に触れた。深淵の中へ、柔らかな曙光しょうこうを堕とすかのように。

 

 支配した激情は、内側を這いずるような嫌悪を、荒々しく駆逐する憎悪の炎だけじゃない。千里が浮かべた焦がれるような当惑に、眠らせていた切望を覚醒させた。

 

 桜色の唇に、鴉では無く自らの穢れで支配するかのように唇を重ねた。掴んだ腕は華奢で、壊れてしまいそうだった。溶けるような甘い香りを纏う柔らかな唇に罪悪感が頭の隅を掠めるが、切望を満たし始める乾いた器には僅かな障壁にしか過ぎなかった。


 千里の呆然とした顔を見ると自分が仕出かした事をようやく理解した。下手な言い訳までして、馬鹿だ。


 

「智太郎、私……部屋に戻ろうかな」


 千里の声に、我に返った俺は自分の役割を思い出す。彼女を守らなければ、俺は隣に居る事すら出来ない。

 

「ならいつも通り、隣の俺の部屋にいる。何があるか分からないから」


 微笑を浮かべて頷いた千里は、襖を開けて自分の部屋に入った。襖が閉ざされた音は『今』を切り、自らの部屋に戻る前に、再び追憶を連れてくる。

 

 口付けをした理由など、本当は考える必要もない。ただ、認めたくないだけだ。自分が、死んだ後には何にも囚われず、自由に外の世界を見てほしい。その反面、過ごした時間で深く爪痕を残して、忘れないで欲しいと思う矛盾のせいで。

 

 ――甘い味がまだ残っている気がする。


 生力を、貰ってしまったかもしれない。雲が形を成す、朱赤の鱗を生やす怪物に喰われかけた空を睨んだ。

 

 

―*―*―*―《 智太郎目線 end 》―*―*―*―

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