第48話 嵐の日06

「アスライ兄様はすごい。私の、死なない化物を殺す方法を考えついた。

 いまなら死ねる。いまなら私、死ねるの。私が死ねばもう、誰も不幸にならない。誰も私のせいで殺されなくて済むの。だから死なせてください。お願い……お願い……します…………っ」


 トワは泣きながら、「お願いします。お願いします」と懇願する。

 トワの深く暗い絶望は、アスライには想像することもできない。その深く暗い闇がこの小さな少女の心に巣くっていることが、どうしようもなく辛く哀しかった。


「……それは不可能だ」

 アスライは言い、刃を握る手を離すと、傷ついた掌をトワへ向ける。


「…………?」

 掌を見たトワの目がハッと見開かれると、さらに大粒の涙が溢れた。


「この場の神気は、戻りつつある」

 アスライの傷は、その内にある【不死】の神授により、治りかけていた。

 本来一人の人間が、大河に等しい神気の流れを一時的にせよ断絶させていたこと事態が理に反することだった。そしてそれは、世界の正常を保つ為に修正されようとしていた。


「そんな……」

 トワが剣を離すと、カランッと落ちる。トワはオタオタと床に手を付き、頭を垂れる。


「もう一度、もう一度やってください……お願いします……お願いします…………」


「ダメだ」

 アスライは断固拒否する。


「どうしてっ!」トワがアスライに掴みかかる。「私のせいで、私のせいで大勢の人が死んだ!父も母も、知っている人も知らない人も、リルヴ族の人達も皆っ! だから私は死なないといけない。私が生きていたら、また誰かが不幸になる。なのに……どおしてぇっ」

 アスライは揺さぶられる。しかしその力は弱い。

 トワの手首には依然として穴が開いたままで、足首からは血が流れ続けていた。

 アスライは自分を掴むトワの手を、そっと包む。


「それはお前ではなく、お前を利用しようとした奴らの罪だ」


「でも、私がいなければ起こらなかったッ!」

叫びが心を苛む。己の無力さをアスライは呪った。どれほど無実を訴えても、彼女の絶望を癒すことはできないだろう。

 アスライは、涙でグチャグチャになったトワの頬を拭う。


「……初めて、オレと出会った時のことを覚えているか?」

 トワが力なくアスライを見る。


「あの日は、聖山行の最後の一日だった。始祖たちが越えたセイリーン山脈で一ヵ月を過ごすことで成人と認められる、リルヴ族にとって最も重要で神聖な儀式だ。だがオレはその最中、ずっと違うことを考えていた――なぜこの世界は、こんなにも不幸なのだろうと」

 トワの表情にわずかな疑問が浮かぶが、続ける。


「山頂からは、三つの大国が見渡せた。ディグナ帝国、ミロイズ共和国、カド神王国。それぞれの国は主義主張は異なっていても、とても豊かだ。けれどそこに暮らす人々は、幸福だろうか?」

 目を伏せるトワ。帝国で生まれた彼女は彼の国の内情を、嫌というほど知っている。


「侵略した国の人間を奴隷として酷使する帝国、金銭の多寡で人の価値が決まる共和国、異教徒を弾圧する神王国。どの国も大きな問題を抱えていて、一つとしてまともな国は無いように思える。

 オレは幼い頃に母上を亡くしたが、父上がいて姉上と兄上がいて、多くの同胞に慈しまれて育ったから、とても幸福だった。……しかし、それでいいのだろうか? 自分さえ幸福なら、不幸な他人のことなど放っておいてもいいのだろうか? そんなことばかりをつらつらと考え、結局答えが出せないまま聖山行の最終日を迎え、下山している途中、お前に出会った」

 忘れもしない、あの時の衝撃は。


「お前は、魔獣に喰われ死んでいた。この世界はダメだ。こんな場所で、痩せっぽちの少女が一人で死んでしまう世界が正しいはずがない。そう強く思った。だがオレに何ができるというのか? オレは自分の卑小さに打ちひしがれ、無力感で一杯だった。さらに――」

 アスライは自嘲する。


「さらにオレは、現れた魔獣に敗れ、殺されそうになった。それを助けてくれたのが、お前だった」


「それは、」

 言わせない。トワが口を挟む前に言葉を紡ぐ。


「確かにあの魔獣は、お前の血肉で不死化していた。そうでなかったら負けなかっただろう。だがそれでもオレが殺されかけたのは事実で、助けられたのも事実だ」

 トワの目を見る。


「オレは心が震えた。不幸だと思っていた少女に、命を救われた。逃げる事だってできたのに、この少女は危機にある他人を助けることを選んだ。これにオレは、天啓を得た。自らの内に稲妻が走った。これだ、これが答えだ。この少女こそが、オレの捜し求めていた答えだったんだと」


「……答え? 私が?」

 アスライは頷く。


「この世界には強い者、賢い者がいくらでもいる。だが世界は幸福からは程遠い。それは強い者も賢い者も、己の欲望を満たすことばかりを考えているからだ。だから世界を幸福にするのは、不幸から救うのは、強い者でも賢い者でもない」

 きちんと通じているのか不安になったが、トワは真剣に耳を傾けてくれている。


「病に罹らなければ病の原因が分からないように、不幸にならなければ不幸の治し方も分からない。だからこそ、この不幸な世界を救う者は、不幸な者だ。

 トワ。もしお前が自らの不幸を克服すれば、多くの不幸な人々を救うことができる。お前はとても……とても不幸だから」

 親から引き離され、神から与えられた神授のせいで無数の人が死に、そんな自分を受け入れてくれたリルヴ族の村は滅ぼされた。そんな地獄を生きねばならなかった一五才が他にいるだろうか?


「それは……そんなの、ムチャクチャです……」

 世界を不幸にすると思っていた者に、世界を救う力があるなどということは信じられないだろう。けれどトワへ、アスライは微笑む。


「オレはお前に助けられたとき幸福だった。一八年の人生で一番と言えるほどに。お前はオレの命だけでなく、心も救ったんだ。これもまた、お前がいなければ起こらなかったことだ。

 トワ。お前は不幸をよく知っている。そしてオレも不幸になった。この不幸に屈服するか、それとも克服し強くなるか。オレは後者の道を歩みたい――お前と共に」

 トワに手を差し伸べる。


「だから変えよう、人を不幸にするこの世界を」

 トワは眩しいものでも見るようにアスライを見つめた後、深く瞼を閉じる。

 そして瞼を開いたとき、その瞳には光があった。


「私は……生きていて、いいの?」


「生きなければ世界は変えられない。トワ、お前は生きろ」


「――――ッッッ」

 言葉にならない思いが、トワの全身を駆け巡っているのを感じる。


「どうする?」

 アスライが問うと、トワが力強く答えた。


「私は、生きます。生きてこの命を、苦しむ人のために使いたい。私のせいで死んだ人達に、少しでも償いができるように」

 トワが真っ直ぐにアスライを見つめ返す。その顔には、常に張り付いていた哀しみや後悔、恐怖といった感情は一切なかった。

 彼女は自らの境遇を受け入れ、乗り越えようと決心したのだ。不幸に立ち向かおうとする人間の強さと美しさが、彼女から溢れていた。


「良し」

 破顔したアスライに、トワも笑った。荒野に咲いた一輪の花のような笑顔で。

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