第30話 王者の行進02
フォルス暦九九〇年五月二二日。(帝国軍襲来まで、残り二七日)
――帝国に勝つために穴を掘る。
アスライとスタンリーの鼓舞により熱狂に包まれたレードだったが、実際に動いたのは千人余りに留まった。それ以外の人々は、帝国軍一三万という数に絶望し、街から逃亡する者が続出した。それが出来ない者は家族と共に神への慈悲を乞うか、酒場で酒に救いを求めた。
「この酔っ払いがっ! 金がないなら酒場にくるんじゃねえっ!」
酒場の主人に蹴りだされた男が道に転がる。夜の街を行きかう人々は男に目を止めるも、足早に過ぎ去る。
小汚い男だった。髪や髭は伸び放題で、服は所々破れ、饐えた臭いがしていた。
「へへへへへ…………」
どうせ皆死ぬんだ――男は酒精で混濁した思考で思う。
どうせ皆死ぬんだ。それなら呑まなきゃ損損。
立ち上がろうとして、男はドウッと倒れる。どんよりとした瞳で、自分の肘から先の無い右腕を見、「ふへへっ」と笑う。そんな男に、通り過ぎる人は憐みの視線を送る。
(今のうち嗤っていればいい。どうせお前らも、帝国兵に無残に殺されるんだ……)
男は再び、「ふへっ」と笑うと、意識を失った。
「――――い。…………ぞ?」
誰かに揺さぶられているのを男は感じる。
「うるせえ……」
そう言うと、揺さぶりが止んだ。こう言えばちょっかいを掛けてくるのを止めるか、蹴られるかのどっちかだった。
どっちでもいい。男は、グズグズになった頭でそう思う。
「……、…………い奴だ」
呆れた声の後に感じたのは、靴底の感触ではなく、温もりだった。果実のような、香草のような匂いが、鼻から脳を刺激する。
何かを体に掛けてくれたのだと気付くのに、しばらく時間が掛かった。その布のような物の中に膝を抱えてすっぽりと包まれると、男は、自分が寒かったのだと認識する。
目を開けると、布は真っ黒な外套だった。とても手触りが良く丈夫そうで、高価なものに違いなかった。
(誰が……こんなことを?)
周りを見回しても、憐み顔で善意の押し付けをしてくる奴はおろか、人っ子一人いなかった。
こんな高そうなものを置いてどこへ? 男が半身を起こす。と、ズキリと頭痛がした。二日酔いだった。それでも立ち上がり、ヨロヨロと歩く。
ザック、ザックと音がする。それに導かれるように男は進んだ。
「…………こりゃあ」
街の外に土が盛られていた。人の腰ほどの高さだ。それが左右に伸び、街の端から端まで、数キロメートルもの長さに渡り続いていた。
壁だ。これはレードを守る為に作られている防壁なのだ。
と、何かが朝日を遮った。それは下から上へ舞い上がり、リズミカルかつ正確に土壁の頂点へと乗せられていた。
「起きたのか?」
壁の向こう側から声がする。大きくは無いのに、耳元で囁かれたかのようにはっきりと聞こえた。
「五月とはいえ、朝はまだ冷える。あんなところで寝ていたら風邪を引くぞ」
喋りながらも、放り投げられる土に僅かな乱れも無い。男は下にいる者が見極めたくなり壁を跨ごうとするが、片腕ではバランスがとれず腰程度の高さでも苦労する。
(チクショウめ)
男は息を切らせながら毒づく。
壁の上に立ったとき、男は見た。全身が黄金に光る者を。
神の御使いか? 男は一瞬、衝撃に打たれるが、スコップを振るい土を投げるごとに躍動する筋肉と、肩と背の筋の谷間を流れる汗は、雄々しい生命力が迸っていた。
裸の上半身の汗と髪が太陽を反射しているだけで、神ではなく人間の少年であったことに、男はなぜか残念な気持ちになった。
ザックザックと掘っては土を放り進むその少年を、男は土壁の上を歩きながら追った。
「なんでだ……?」
男の口から突いて出た言葉に、掘削音が止む。
「何で、とは?」
スコップを突き刺し、括った金髪をクルリとひるがえさせ見上げてきたその少年は、想像以上に若く、端正な顔立ちをしていた。
「何でとは、何だ?」
純真な真紅色の瞳で、少年が問うてくる。見下ろしているのに、見上げているような思いになり、膝に力が入らなくなるのを男は堪える。
「なんで、こんなことをする? 帝国に、あのディグナ帝国の軍勢に、本気で勝てると思っているのか?」
「ああ。そのための準備だ」
少年は平然としていて、微塵の疑心も持っていないようだった。
「無理だ……絶対に無理だ! あの帝国が、一三万の大軍で来るんだぞ! 勝てない、皆、皆、殺されるんだ! ううーっ」
失われた右腕が痛み出し、男は傷跡を押さえる。
「腕が痛むのか?」
「あいつらは、あいつらは自分の腕を奪った! こんどは、命を奪いに来る。……怖い。自分は、帝国が恐ろしい…………っ」
「奪わせない」
少年の纏う空気が変わり、周囲の細かい砂が浮かび上がる。男も、自分の体毛という体毛が逆立つのをその身に感じた。
「奴らは、オレの父を、姉と兄を、同胞達を奪った。もう何一つとして奪わせない」
少年の激情に呼応し、肌がピリピリしだす。それが痛みに変わろうとする直前にフッと痺れが失せ、砂もパラパラと落ちる。
「……とは言え」少年は冷静になっていた。「帝国相手に一人ではどうにもならない。だからお前も、オレに力を貸してくれないか?」
こんな自分が助力を請われたことを呆気にとられたが、男は「へっ」と自嘲する。
「力を貸す? こんな片腕の無い酔っ払いが、一体何の役に立つってんだ!」
男が唾を飛ばしながら、肘から先の無い右腕を突きつけると、少年は不思議そうに首を傾げる。
「お前は、既に役に立っているではないか?」
「…………はあ?」
男はさも馬鹿にしたような顔をしたが、少年は落ち着いたまま、自らが進んできた方角を見遣る。
「オレが掘って投げた土を、お前が踏んで固めてくれた。帝国と戦う為の高い壁を築くのに、お前は既に役立っている」
「そ、そんなの……そんなの、誰にでもできることじゃねえか!」
「そうだな。そして今必要としているのは、その誰にでも出来ることなんだ」
少年は、真剣な目で頼んでくる。「お前に、力を貸して欲しい」
男は、がっくりと膝を付く。なんなんだこのガキは? 自分のような役立たずなんて放っておけばいいのに。他の奴らは皆そうしてきた。
「……自分は、共和国の兵士だった」
口から、言葉が漏れ出る。
「国の為、必死に戦ってきた。だが三年前、帝国との戦いで負傷し、そのせいで右腕を失った。そうしたら、僅かな見舞金を渡されお払い箱にされた。利き腕の無い兵士はいらないと。国の為に戦ってこんな体になったのに!」
誰にも言ったことの無い心の叫びだった。
もう剣を振るうことも、馬に乗ることもできない。兵士であることを誇りに思っていた。なのにこんな体では、誰の役に立つこともできない。生きている意味も無い。「自分には、何も無い」と、男はすすり泣く。
「そうか……やはりお前は、戦士だったのだな」
いつの間にか、少年が隣に立っていた。間近で見ると、目の眩むような美しい少年だった。そんな彼が、柔和に微笑む。
「同胞に、優れた男の戦士がいた。男は狩りで両足を失ったが、戦士時代の知識と経験を活かし、村一番の鍛冶屋になった。同胞に、優れた女の戦士がいた。女は病気で戦士を続けられなくなったが、持ち前の明るさと統率力で、若い女達のまとめ役になった」
少年は、男の肩をそっと抱く。
「オレたちリルヴ族は戦士を、戦い挑む者を尊ぶ。お前は右腕を失ったが、それは戦い、挑んだという証拠だ。それは辛い出来事だっただろうが、それによって全てが失われたわけではない。お前には左腕も両足も、戦う魂も残されている。何よりまだ、お前は生きている」
少年の瞳は、燃えているように赤い。
「生きている限り、人には成すべきことがある。オレはオレの成すべきことを成す。お前も、お前の成すべきことを成さねばならないのではないか?」
「…………自分の。……わから、ない。自分は、自分はどうすればいい…………?」
「では、オレに力を貸してくれないか?」
少年は、三度言う。男はグシャグシャに顔を歪める。
「こんな、こんな自分が役に立つのか? 片腕のない、酔っ払いだぞ?」
男に対し、少年は笑みを深める。
「『役に立たない人はいない。しかし人を役立たせられない人はいる』。我らの始祖、リルヴの教えだ。オレはこの教えを教訓に、人を役立たせられる人間でありたい。お前を大いに歓迎しよう。オレの名はアスライ。お前は?」
男の目からは涙が止まり、力が漲っていた。
「て、てててテンタール。テンタール・ホーブス……です」
「テンタール。よろしく頼む」
「あ、ああ……はい」
「敬語はいい」
アスライの差し出した手を、テンタールは強く握る。
「美味い食事と清潔な寝床を保証する。それに風呂に入るといい。だが、帝国を倒すまで酒は禁止だ。いいな?」
テンタールはしっかりと頷く。
「ねー? おはなしおわったー?」
土壁の下で、アスライと同じ髪色の子供達が、欠伸をしながら待っていた。
「ああ、新しい仲間を紹介しよう――」
アスライがテンタールを子供達に引き合わせる。テンタールは腕を失って以来はじめて、心から笑った。
テンタールを切っ掛けにするように、徐々に防壁と空堀の築造に参加するレードの住人が増えていった。
日に日に高くなっていく壁に勇気付けられたのか、家で震えている者よりも作業に従事している者の方が生き生きとしていることを羨んだのかは分からない。だがどのような経緯にしろ、兵士と避難民を合わせて七〇〇〇人ほどだったのが、八〇〇〇、九〇〇〇となり、一万を超えると、それが二万になるのにさして時間は掛からなかった。
スコップが足らなくなり、家庭にある鍋や包丁がそれに変わった。だが一つの鍋で数百人へ食事が提供されるようになったので、どこからも不満の声は上がらなかった。
土建屋が、より効率的な掘削や運搬法を伝授した。木こりが支柱になる木材を伐採し、医師が栄養と休息の重要性を説き、料理人がそれを実践した。
一人一人が己が能力と知識に見合った仕事をし、無駄があればすぐさま改善された。
アスライは、朝誰よりも早く仕事に取り掛かり、誰よりも遅く作業を続けた。その働きは他の十倍を優に超えていた。
力仕事が不得手な者達は、日が落ちてから一所に片付けられたスコップを補修する役割を担った。壁に立てかけられた持ち手が磨り減り、泥と血がこびり付いたアスライのスコップに触れながら、彼と彼女らは祈りを捧げた。
しかし当のアスライはというと、毎朝清められ、刃が磨がれた状態になっている自らのスコップに、「誰がやってくれているのだ?」と首を捻るばかりだったが。
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