第19話 ミロイズ共和国02
ミロイズ共和国北東に位置するアドガン要塞は、ディグナ帝国と国境を接する難攻不落の防衛拠点である。
そそり立つ防壁は三〇メートルもの高さにおよび、コの字型に設計された防壁上から数万もの兵が十字弓射を可能にする。建造以来二〇〇年もの間、帝国の魔の手から人々を守ってきた共和国の盾であった。だがその盾に、十三万もの大軍勢からなる凶悪な矛が突きつけられていた。
「壮観だねえ……」
地平が、帝国のシンボルカラーである赤一色に染まっていた。一三万人も集まるとここまでになるのかと、スタンリー・ラックは苦笑いをしながらも冷や汗が止まらない。地上三十メートルの防壁上に居ながら、全容が遠く霞んで捉えきれないほどだ。恐るべきは、一三万もの兵士を養い派兵する、帝国の国力の強大さだった。
帝国軍は大軍にも関わらず、静まり返っていた。だが発せられる圧力で空気が重くなり、呼吸が苦しくなる。帝国兵一人一人の戦意は、今か今かと昂ぶっているようだ。
共和国軍・三万二〇〇〇の兵は、すでにアドガン要塞の防壁上に配置されていた。開戦の準備は互いに万端であった。
「……う~ん?」
しかしスタンリーは、予想と異なる光景に首を捻る。いつ攻撃を仕掛けてきてもおかしくない様子なのに、攻城兵器の類が見当たらない。
一三万対三万二〇〇〇。城攻めには三~五倍の兵力が必要なのは兵法の初歩であるが、攻城兵器があればそれだけ損害は少なくなる。
投石器に破城槌、霹靂車。そういった移動に時間のかかる攻城兵器に、たっぷりの油と火矢を浴びせてやろうと手ぐすね引いて待っていたのに、そういったものが目に付かない。数に任せて突撃してきてくれれば楽なのだが、戦争に長けた帝国が、そんな愚策を選ぶわけがあるはずも無かった。
「気持ち悪ぃなあ……。おいナマル、どう思う? ……ナマル? ナマル上級兵?」
「……………………」
「どうした? 黙ってないで何とか言え。おい、ナマル?」
青褪めたナマルが、ブルブルと震えだす。
「う、うわ~んっ! おいら帰る! お家に帰るッス~っ!」
ナマルが脱走しようとするが、そこは三万二〇〇〇もの兵が集結した防壁上の最前線、逃げることは出来なかった。
「おいそこ! うるさいぞっ!」
「ハッ! 申し訳ありません! ……落ち着けー、ナマル上級兵。これ以上わめくなら、文字通りお前の首を切らなきゃならん」
腕でナマルの首を絞めるスタンリーの目は本気だ。
「う、うぐ……っ。りょ、了解……ッス」
腕をタップするナマルを黙らせて、スタンリーは叱責してきた上官にヘコヘコと頭を下げる。カーンが目を向けてきたが、すぐに隣のバンレノとの会話に戻る。
(何で俺たちじゃなく、傭兵どもに頼るかねえ……)
スタンリーは憤懣を押し殺す。
コの字型なっている防壁上で、右翼に一万、左翼に一万、中央に一万二〇〇〇が配置されている。そのうち左右は共和国の正規兵だが、中央は正規兵二〇〇〇と傭兵一万だった。指揮官たるカーンは、最も重要な中央を傭兵で構成した。しかしそれも仕方の無いことだろう。
カーン・ゴイズスは、『首切り魔』という蔑称がある。長引く帝国との戦争で財政難にある共和国は、軍事費削減のため大規模な兵士の解雇を行った。
人件費の嵩む正規軍を縮小し、必要な時に雇える傭兵で代替する案を実行したカーンは、その功績を評価され将軍の階級とアドガン要塞総指揮官の地位を得た。しかし仲間をクビにされた正規兵たちの不信感は強く、自らが雇った『暁の戦士団』を重用することが多かった。
指揮官と兵士の間に軋轢があり、リルヴ族はいない。苦しい戦いになりそうだと、スタンリーは偏頭痛がしてくる。
「わ、わ、わ、き、来た。来た来た来た! おかあちゃーんっ!」
「ちょっと黙ってろ」
あわあわするナマルを押しのけ、スタンリーは目を凝らす。
(あーん? 交渉にでも来たか? ……にしては動きが妙だな?)
黒い集団が向かってきていた。数は一〇〇ほどか。だが交渉の使者にしては数が多いし動きも速い。交渉旗も上げていないから、射殺されても文句は言えない。
「バンレノ、弓の準備を」
カーンが指示を出す。それにバンレノは恭しく従う。
「畏まりました。ビャック! 矢を番えさせろ!」
「ガハハッ! 戦じゃ戦じゃ! 弓を構えい!」
ビャックと呼ばれた筋骨隆々の男の命令で、防壁中央の傭兵達が弓を構える。
「いいんッスか? おいら達なにもしなくて?」
「こっちに命令は出てないからな」
カーンが動かしたのは中央だけだ。たかだか一〇〇の敵兵なら十分すぎる。
アドガン要塞に接近してくる敵兵は、大盾を頭上に掲げていた。どうやら本当に一〇〇人で攻め込んで来る気らしい。自殺行為そのものだが、帝国の赤ではなく黒い鎧の敵兵たちに、迷いは見られなかった。
「……撃て!」
カーンの号令でバンレノが上げていた腕を下ろすと、弓兵が一斉に矢を放った。
「……ああん?」
スタンリーは思わず声を漏らした。引き付けて放ったはずの矢が、敵に届く前にヘロヘロと落下していった。命中したものは僅かだ。左右の正規兵から失笑が漏れる。
「バンレノ! どういうことだこれはッ!」
「こ、こんなはずでは……しっかり狙え貴様らッ!」
顔面を真っ赤にしたカーンがバンレノを怒鳴りつける。だがそれはそうだろうとスタンリーは嘆息する。
傭兵の中にどれほどの弓達者がいるのかは知らないが、三〇メートルの高所から点のような目標を射るのには、長い訓練期間と経験が必要だ。それを与える為に正規兵には金がかかるのだ。
「クッ、もっと射かけよ! もっとだ!」
カーンが側近の将官たちに命じ、左右の正規兵も動かす。右翼の一角を任されているスタンリーにも命が下った。
「ご指名だ」スタンリーは旗下の兵五〇〇に命じる。「撃て」
ジャッ! と力強く弓が唸り、矢が吸い込まれるように黒の兵士に殺到する。十分な訓練期間を経た一級の弓兵が放つ、高さ三〇メートルから打ち下ろされる矢は、盾はおろか鎧兜ごと易々と貫く。スタンリー・ラックの部隊五〇〇名は、アドガン要塞でも屈指の精鋭たちであった。しかし、
「……おんや?」
数百の矢が全身を貫通し、致命傷を負ったはずなのに、一〇〇人の帝国兵からは一人の脱落者も出ない。第二、第三、と矢が雨あられと降り注ぎ、盾が砕け兜に矢が深々と突き刺さっていても、黒の兵士の進行速度は緩みもしなかった。
「おいおいおいおい、嘘だろっ!」
スタンリーは驚愕のあまり叫ぶ。黒の兵士が矢の嵐を耐え凌ぎ、アドガン要塞に到達。盾を捨て、防壁を昇り始める。
悠長に構えていた共和国兵らも、慌てて矢を射掛ける。たかが一〇〇名ほどの敵兵に、あり得ない数が攻撃を仕掛けるが二、三〇本の矢が突き刺さっても、黒の兵士は壁にしがみ付き、グイグイと昇ってくる。ハリネズミと化すほどの大量の矢を受けて、やっと地面に落下していくが、信じられないことに墜落した者もしばらくすると起き上がり、再び防壁を昇りはじめる。
「な……何だこいつらは……?」
スタンリーは頭を撃ち抜いた矢を自ら引き抜き、上がってくる黒の兵士に慄く。
「百統! ラック百統! どーするんッスかこれ! どーするんッスかっ!」
スタンリーは、取り乱すナマルのお陰で正気に返る。
指揮官が冷静さを失ってどうする! スタンリーは己を叱咤する。
「油壺を持て!」
「「「ハッ!」」」
油なら、事前にたっぷりと用意してあった。
旗下の兵が次々に油壺を叩きつけると、黒の兵士らの登攀速度が鈍る。油で滑っているのだ。この様子にスタンリーは僅かながらも胸を撫で下ろす。化物じみたこいつらにも、油で滑る生き物らしいところがあるのだ。
「よし、火矢を放て!」
オレンジ色の光が、無数に宙を舞う。次の瞬間、ゴウッと防壁が燃え上がった。大量に撒き散らされた油に引火したのだ。その熱と光の強烈さに、スタンリーの視界は焼かれる。
火達磨になった敵兵が、ボロボロと落ちていく。
「やった! やったッス! わはははははは……は、…………はあっ?」
ナマルの高笑いが裏返った。漆黒の兵士達はブスブスと黒煙を燻らせながら立ち上がり、未だ炎を猛らせている防壁へと向かう。
「……ねえ、百統。おいら、悪い夢を見てるんッスかね……?」
ナマルの呟きに、スタンリーは答えられなかった。彼もまた、同じことを思っていたからだ。
と、廃棄されていた盾の一つが動く。その下から細身の男が這い出てきた。その男が防壁目掛け、全速力で疾走する。
「ッ! あの男を狙え! 近づけさせるな!」
戦場を生き抜いてきた経験が、細身の男に最大級の警戒を鳴らす。素早く命を下したスタンリーだったが、男の方がさらに速い。矢の雨を掻い潜り、スピードに乗ったまま防壁に張り付いている黒の兵士を足場に跳躍。あっと言う間に天辺まで昇りきった。
そこはカーンら共和国兵と、傭兵のいる場所だった。
「…………」
細身の男は、自身を取り囲む傭兵に無言の威圧を放ちながら二本の小剣を抜刀。目にも留まらぬ速さで繰り出す。
「グッ」「ガッ」「ヌッ」と、瞬時に斬りつけられた六人が傷を負う。が、肩や手首を浅く傷つけられただけで、致命傷ではない。にも関わらず細身の双剣使いは、二本の小剣を納刀した。
「……? 落ち着け、敵は一人だ! 囲んで槍で突き落と――」
突き落とせ、と続けようとした将官が、グルンと白目を剥き倒れる。他にも五人倒れ、ブクブクと口から泡を吹いている。双剣使いに斬られた六人であった。
「ど、毒だ! こいつ、剣に毒を塗ってるぞっ!」
シャキンッ、と再び抜刀した小剣は、透明な液体で濡れ光っている。鞘に毒を仕込んであるのだ。
双剣の毒使いは更に五人を負傷させ、戦闘不能にする。傭兵がたった一人に手を拱いている間に、続々と黒の兵士たちが頂上へ到達する。
「クソッ!」
黒の兵士らに踏破されたのは防壁の中央部。左翼も登頂されるのは目前で、右翼のスタンリーも他人事ではない。矢も油も炎も効果は弱い。たったの一〇〇人で、中央と左右の防壁を攻略されようとしていた。
と一際大きな男が、双剣の毒使いのせいで無防備になった中央の防壁をよじ登っていく。
(アレはヤバイだろ!)
スタンリーは一目でその大男の危険性を察したが、右翼の防壁を昇ってくる黒の兵士らで手一杯で何もできない。大男はものの一分で、防壁の頂上へ達する。
大男は背に担いでいた巨大な鉄棒を手にする。
「バッハハハッ! 何とも薄気味悪い奴らよ! だが鱠なます斬りにしてしまえば生きてはおれまいて!」
「おおっ、ビャックだ!」「そうだ、ビャックなら!」「やっちまえ、ビャックの旦那ぁっ!」双剣の毒使いに萎縮していた傭兵たちが、『暁の戦士団』最強の男の登場に気勢を上げる。
ビャックと大鉄棒の男が相対する。共に人間離れした二メートルを超す巨体で、両者ともその得物が長大だった。大鉄棒は大男の背丈を上回る三メートルはあり、ビャックのものはそれよりは短い二メートルほどだが、成人男性の上半身を隠せてしまえるほどの幅がある大戦斧であった。
「我こそは三国に轟く『暁の戦士団』随一の猛者、ビャック・ブレンマル! 我と戦い散ることを、あの世で誇りに思うが良いっ!」
「…………」
大男はビャックの啖呵に反応することなく、ダランと大鉄棒を下げている。その態度に青筋を立てたビャックは、高々と大戦斧を振り上げる。
「良かろう! 我が大斧にて果てよ! 死ねえぃっ!」
岩さえ両断するビャックの一撃を、しかし大鉄棒の男は回避する素振りも見せずその身で受け、鎧ごと肩から腹まで斬り捌かれる。
「バッハッハッ! なんじゃ、見てくれだけの木偶の坊か! ……ぬ? ぬうッ!」
だが、バックリと斬り開かれたはずの傷口が合わさり、ビャックが押しても引いても大戦斧が抜けなくなる。
懸命に武器を引き抜こうとするビャックに影が落ちる。大男が、三メートルもの大鉄棒を、片腕で頭上に掲げていたからだ。
「ば、ちょ、ま」
ぐしゃり。大鉄棒によってビャックの頭部が胴体に埋め込まれ、股の間から抜ける。右半身が防壁の外へ、左半身が内へと弾け飛ぶと、恐慌をきたした傭兵達が壊乱。逃亡しだす。
「な、く、に、逃げるな貴様らぁっ! バンレノ! どうにかしろバンレノぉっ!」
だが、傍にいたはずのバンレノの姿が無い。必死で探すカーン。しかし見つけられない。
それはそうだろう。バンレノはビャックが倒されると誰よりも早く、防壁から降りる階段へと走り去っていたのだから。
(野郎…………逃げやがったッ!)
遠くから一部始終を目にしていたスタンリーは、あんぐりと口を開いた。怒りを通り越し、感動すら覚える逃げ足の速さであった。
スタンリーは逃げ惑う傭兵どもでごった返す通路を掻き分け、「バンレノ! バンレノ!」と居もしない者の名を叫び続けるカーンの元へと辿り着く。
「ゴイズス将軍! カーン・ゴイズス将軍! 落ち着いてください!」
スタンリーはカーンを揺さぶる。
「う、あ……ラック百統? バ、バンレノは? バンレノはどこだ?」
「奴ならとっくにケツを捲っちまいましたよ! 傭兵どももです! でもまだ俺達がいます。さあ、ご指示を!」
事の成り行きによって簡単に裏切る傭兵と違い、正規兵は共和国に生まれ家族もいる。無論、我が身かわいさに逃げ出した者もいたが、多くがこの場で踏ん張っていた。まだ白旗を揚げるには早すぎる。
「しっかりしてください! あなたが総指揮官なんですよ!」
「う…………わあああああ――――っっっ!」
「へ……? ちょ、ど、どこへ? …………ええっ?」
スタンリーが伸ばす腕を振りきり、カーンは戦場に背を向ける。
(に、逃げた……? あ、あのクソ野郎、逃げやがったッッッ!)
小さくなっていくカーンを映す視界が本当に真っ白になり、スタンリーは失神しそうになる。が自らを殴りつけ、意識を保つ。
(つ、次に偉い奴、次に偉い奴は……)
将軍の下の階級の『佐将』を見つけるが、殺されていた。次の佐将も死体だった。ではその下の『万統』を探し『千統』を探すが、どこにもいない。
(あん? ……もしかして、いま一番偉いのって…………俺?)
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