第四章
第13話 ディグナ帝国001
エンナラーム城。
ミロイズ共和国の北東、ディグナ帝国の南西の国境にある、帝国屈指の堅城である。
広大なビュレイ湖中央の浮島に建ち、帝国と共和国とに渡る跳ね橋は、成人男性の胴回りほどの鎖によって支えられている。この跳ね橋を上げてしまえば、船でも使わないと城に辿り着くこともできないが、湖に流れ込む河川の上流はセイリーン山脈、下流は帝国領内へと向かう為、共和国側から船を運び入れることは不可能。仮に船を用意できたとしても、岸から城までの五〇メートル以上の距離を矢で集中砲火されることになる。
この地の利のお陰でエンナラーム城は築城一五〇年もの間、何者の侵入も許していない天下の名城であった。しかしそんな名城の領主の間で、似つかわしくない罵声が飛び交っていた。
「――何をしておるのだ! 何をしておるのだ貴様はっ!」
「いやあ、申し訳ないです」
喚き散らしているのはディグナ帝国・トーク州領主、デベンゾ・トーク。派手な衣装を着た貧相な小男だ。それに低頭しているもののどこか真剣みの足りないのは、長い黒髪と白衣を着た長身痩躯の若い男。マッギオ・サイスクルスという、神授研究者であった。
「き、貴様は、皇帝陛下からお預かりしたあの実験体を逃したばかりでなく、よ、よよ寄りにもよって、あの出来損ないのリルヴ族どもに生け捕られてしまっただとう!」
領主の間に居並ぶ家臣がざわめく。「こ、これは一大事ですぞ!」「もし『獅子皇帝』陛下のお耳に入りでもしたら……」「早急に奪還せねば」「しかしあの雷ネズミどもをどうやって?」
「だ、黙れ! 黙れ黙れ黙れえっ!」
皆が口を噤み、水を打ったかのように静まり返る。デベンゾの荒い呼吸音だけが虚しく響く。
「だ、誰ぞ、誰ぞ妙案を出せぃっ!」
黙れと命じた舌の根も乾かぬうちに案を要求する主に、臣下は顔を伏せたまま身動ぎもしない。デンベゾは青筋を立てがなり立てる。
「き、貴様らあ! 日々皇帝陛下の栄に浴しておりながら何たる無知無能ぶり! 嗚呼、なぜ我輩にはこのような浅学非才の愚臣しかおらぬのか!」
自らの境遇を嘆くデベンゾに、臣下たちは俯きながら冷ややかな視線を向ける。
「あのぉ」重苦しい沈黙を破ったのは、マッギオだった。「ボクに、案があります」
「この……痴れ者めがぁッ! 言うに事欠いて、案だとう! 誰の失態でこのようなことになったと思うておるか!」
毛の無い頭の天辺まで真っ赤にして怒鳴るのは、エンナラーム城・守将長、オビィ・プルーブリィ。エンナラーム城の防備を任される彼は、実験体であるトワが逃亡した当日に警備に当たっていた部下を処刑され、また自分自身も降格の危機にあった。
「まあまあ、将軍。聞くだけ聞いてみましょう。閣下もそれでよろしいですね?」
「う……うむ」
オビィの剣幕に慄いていたデベンゾは、家臣の取り成しに威を取り繕う。オビィは激昂しながらも言葉を飲み込む。
「閣下と将軍のご寛恕に感謝します。案というのは他でもありません。ボクに、名誉挽回の機会を与えて欲しいのです」
「名誉挽回……とな?」
「はい。ボクに討伐の許可をください。そうすれば必ずやリルヴのネズミ共を、この地上から一掃してごらんにいれましょう」
一同に動揺が奔る。それはトワが逃亡したことの比ではなかった。
「バカな! 血迷うたかマッギオ! 奴らの巣は魔獣の生息するセイリーン山脈の先、ストロキシュ大樹海にあるのを忘れたか! 無闇に出兵すれば、殲滅の憂き目に遭うのは我らの方ぞっ!」
デベンゾにオビィが賛同する。
「耳を貸してはなりませんぞ閣下! 此奴は己の過失を誤魔化さんがために、出来もしない戯言を吐いておるのです! 誑かされては無為に兵を失うだけです!」
オビィに我が意を得たデベンゾは、「却下」と首を振る。しかしマッギオは余裕綽々の笑みを浮かべる。
「いえいえ閣下。そのご心配には及びませんとも。ボクは閣下から一兵もお借りすることなく、一〇日――いや五日のうちに奴らを葬り去り、その首魁の首を献じましょう」
「なんと? お主……正気か?」
「抜かしおったな、この頭でっかちの青瓢箪がっ! そのような大言壮語を申したからには、失敗したときにどうなるか、覚悟はできていようなッ!」
蒸気を噴き出さんばかりに昂ぶったオビィに、マッギオが冷静に切り返す。
「無論ですとも。もし約定を果たせなかったなら、この命をもって償います」
マッギオが己の首筋に手を当てる。
たかが研究者ふぜいが自分の命をかけるほどの覚悟をしていたとは思いもしなかったオビィは、「ぬう……」と呻き声を上げた。
「ほ、ほっほう……。お主の命とな……」
デベンゾは顎髭をしごき、薄ら笑いをする。
「あいや分かった! マッギオ・サイスクルスよ。お主の汚名を雪ぐ機会、このデベンゾ・トークが与えん。今すぐ準備にとりかかるがよい」
マッギオは額ずき、感謝の意を示す。
「このご恩、生涯忘れません」
マッギオは再び拝礼し、領主の間を辞する。
オビィは憤懣覚めやらぬ様子でデンベゾに問う。
「閣下、あのような青二才になぜ!」
デベンゾはオビィを見もせずに一笑する。
「思慮が足らんな将軍よ。思い出すが良い。奴がサイスクルス家の一端であることを」
「ぬ? ……おお、そうでありました!」
マッギオはディグナ帝国の名家、サイスクルス家の三男である。嫡子ではないとはいえ、その首の値段は、千金の価値を持つ。例え失敗しようと、全責任をあの世間知らずのお坊ちゃんに被せてしまえば、デベンゾ達の皇帝への面目は保たれる。
「我輩に損は無い、ということよ」
「その深謀遠慮、さすがにございます」
「この知略、我が事ながら恐ろしいわ!」
デベンゾとその臣下たちは、呵呵と笑い合った。
「さてさてさて……。リオネイブ、いるね?」
「ここニ」
肩を揉みながら城の廊下を進むマッギオの背後に、音も無く赤い全身鎧を纏った大男が現れる。
「道化芝居は終幕だ。予定通り、行動を開始してくれたまえ」
「……承チ」
返答に間があったリオネイブを、マッギオは不思議がる。
「おやおや? 何か言いたげだね、リオ?」
「ここまで、やる必要があったのですカ?」
「トワ君が逃亡するように誘導し、わざとこの状況を作ったことが、かな?」
マッギオがおどけて言う。
「あまりに過剰かト……」
「理解力が無い」
一切の表情を消したマッギオに、リオネイブの足が止まる。
「……申し訳ありませン」
「いやいや、キミのことじゃないよ。ゴメンゴメン。彼ら、凡愚のことさ」
マッギオの長い溜息には、憐れみが込められていた。
「彼らは、己の立場を守ることしか頭に無い、憐れむべき存在だ。今ごろ喜んでいるだろうねえ。全部をボクに押し付ければ自分の首は繋がるんだから。
彼らは、世界の変化が自らの知能では図れないことを理解していない。ボクの研究成果が帝国に、世界に、どれほどの変革を齎すのか理解できない。これは大いなる損失だよ。それを彼ら程度の知性でも理解できるようにするには、目に見える状況を設えてやらなければならない」
「それが、この状況であるト?」
「その通りさ」
マッギオは生徒を褒める教師のような眼差しを送る。
「ところでリオネイブ。トワ君の奪還とリルヴ族の殲滅を五日で出来ると宣言してしまったんだけど、短すぎたかい?」
不安そうな子供のような表情を作るマッギオ。
「三日で十分でス」
両腕を大袈裟に広げ、マッギオは驚いてみせる。
「あのリルヴ族を三日で! それでこそボクの最高傑作だ!」
意気揚々と肩で風を切るマッギオの後ろに、何の気配も無く黒い鎧の男達が次々と参列する。
「では行こうか。我らディグナ帝国こそが、世界唯一の支配者であることを知らしめる為に」
笑うのはマッギオだけで、後ろに控える男達は無言のまま、無表情で付き従う。まるで幽鬼のように。
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