本題

 日常が非日常に塗り潰されたのは、一瞬の出来事だった。

 モールを歩く人々が異臭に気付いた時には、“喜劇”の準備は整っていた。どこからか投げ込まれた火種が店舗区画に届き、火柱となって煌々と燃え上がる。炎は大きく燃え広がり、天井に溜まっていたガスに引火、爆発する!

 次々に破砕していくショーウィンドウとパニックになっていく客の群れ、それを見下ろして踊り続けるピエロ。生み出された騒乱は徐々にに広がっていき、人々は一斉に出入口に向けてひた走る!


「……どけ、俺が先に逃げるんだよ!!」

「ふざけんな、ちゃんと順番守れよ!!」

「シャッターが閉まってて出られないの!! 助けて!!」


 閉まったシャッターに詰め寄る客の群れは各々が生き残るのに必死で、その表情は鬼気迫っていた。炎とパニックが伝播していく最中、一人の客が気絶するように崩れ落ちる。その背後には、ピエロが立っていた。


「笑いなよ、どうせみんな死ぬんだから」


 陶酔し、腑抜けたように笑い続ける集団を尻目に、新太郎と結はエスカレーター下の空間で静かに身を潜めていた。遠巻きにシャッターに群がる人を観察し、新太郎は妹を抱える腕の力を強める。


「もうちょい待ってな。きっと助けが来るはずやから……!」

「……うん」


 新太郎の視界からは結の表情は窺えない。だが、彼女の身体が小刻みに震えていることは理解できる。それは、今まで新太郎が見たことのない反応だった。


「大丈夫、きっと大丈夫やから……。安心して……」


 視界の端で崩れた壁材が爆ぜる。湧き上がる黒煙を遠巻きに見つめながら、彼は己を落ち着かせるように諭し続ける。不安を感じているのは、結だけではないのだ。

 新太郎は内から湧き上がる恐怖の芽を抑え込もうと、妹の頭を何度か撫でた。ネガティブな感情が伝播すれば、次のパニックが起こるのはここだ。それを防ぐため、彼は心の動きを凪であるように努めていた。


ぃ、クマさんがどっか行った……」


 結はキョロキョロと周囲を見渡し、視線が一点に釘付けになる。彼女の友達になるはずのテディベアは、数メートル先に無造作に転がっていたのだ。隠れる際に回収し忘れたのか、ボタンのような目が寂しげに天井を見つめているようだった。


「……助けに行ってくる」

「ちょっ、結!?」


 瞬時に結は新太郎の腕を離れ、エスカレーター下の空間から抜け出した。テディベアを苦心しながら抱え、最短経路で兄の居場所へ戻ろうとする。幸いにも炎と煙は遠く、その場は安全である。その筈だった。


「見つけたァ〜〜。かくれんぼやってたのかい、お嬢ちゃん?」


 唇の端を吊り上げたような笑みのピエロが、細長い体躯を折り畳むようにして結に語りかける。彼女はピクリと静止し、声のする方に振り向いた。


「それ、ここで買ったやつだろ? このリボンの巻き方的に、誕生日プレゼントかなァ?」

「おじさん、誰……?」

「俺か〜? アルルカン、そう呼んでくれればいいよ」


 アルルカンと名乗るピエロは結からテディベアを取り上げ、パペット人形を操作するかのようにその腕や頭を動かす。そのままアルルカンは腹話術めいたファルセットで結に語りかけた。


「お嬢ちゃん、何歳? 教えて教えて〜!」

「あさってで、6歳……」

「そうか〜! じゃあ、お嬢ちゃんは5本だ!」

「…………?」

「お嬢ちゃんはァ、今日死ぬんだよ。6歳になれないまま、ここで死ぬんだ。命日祝いのケーキに立てるロウソクは、5本でいいよね?」


 突如として声色を変え、アルルカンはテディベアを床に落とした。無表情で困惑する結に詰め寄り、そのまま彼女を抱き上げる。そして、その顔をじっくりと観察しているのだ。


「……可愛い顔してんのに、全然笑わねぇな。それどころか、ビビってるような表情でもない。そこのテディベアの方がまだ表情豊かだよ」

「はな、して……!!」

「わかった、俺が笑わせてやるよ。道化アルルカンは笑わせるのが仕事だからな……!!」


 アルルカンは結を抱えたまま、片手で彼女の口元を掴む素振りを見せた。掌から発する笑気ガスによって、結の笑顔を無理矢理にでも引き出そうとしているのだ。必死に抵抗する彼女を力で押さえ込んでガスを吸わせようとした、その瞬間だ。


「——待てや。妹に手出すな、阿呆アホが……!!」


 静かに立ち上がった新太郎が、意を決するかの如く声を張り上げる。周囲で燃える炎や充満する煙に邪魔されることなく、その声は高座から客席に届くかのようによく響いた。

 

「威勢の良いのが1人残ってたか。待ってな、お兄ちゃん。妹を笑わせたら次はアンタの番だから!」

「……今まで一回も笑ったことない子やぞ? 最初の一回が心からの笑みじゃないとかありえへんやろ。無理矢理笑わせて、何が楽しいねん」

「——やけに舌が回るねぇ。その格好と発声、落語家か? 俺も他人だれかを笑わせるのが趣味なんだ。仲良くしようぜ?」


 新太郎は膝の震えを感じていた。異常な状況に、奇怪なピエロ。視界の端で笑いながら炎に巻かれていく人々に、拘束を脱しようと必死で抵抗する最愛の妹。新太郎の理性はひたすらに彼自身の命の危機を叫んでいて、眼前に立つ圧倒的な存在に生殺与奪を握られることへの恐怖が身体を支配しているように思えた。

 だが、新太郎の心を同時に巡ったのは別の感情である。妹の命を握られていること、或いはその笑顔を反則じみた方法で奪われることに対して、言いようのない怒りが湧いたのだ。


「……調子に乗んなや。客の自由を奪って、芸以外の訳わからん手段で腑抜けた笑顔を受け取る? 人笑わすことから逃げて、楽しいんか?」

「ずいぶんな口を利いてくれる。ただ、体は正直だな。虚勢を張ろうが、俺にビビってるのは見え見えなんだよッ!」


 新太郎は唾を呑み、身じろぎする。眼前のピエロが放つ威圧感が肌を突き刺すようで、それ以上の抵抗を理性が許さないのだ。DNAに刻まれた何かが彼の行動を阻害するかのような反応に、新太郎は口惜しげに頭を伏せる。


「いいか、俺ら“オーヴァード”は人間を超越した存在だ。非オーヴァードのクズが逆らったとして、虫ケラみたいに死ぬだけだぜ? 諦めて、これで楽に眠ればいいんだよ」


 周囲の空気が煤けた煙の匂いから甘い香りに変わる。それでも新太郎は理性が拒絶する寸前まで手を伸ばし、妹の残影を探し続ける。既に視界には靄がかかり、軋んだ脳をなんとか騙しているのだ。


(届け……届け……!!)


 その時、一陣の風が吹いた。周囲の炎がさらに燃え盛り、熱に耐えられずに折れたモール天井のパイプがアルルカンの頭上に降り注ぐ!


「——邪魔だ、燃えろッ!」


 アルルカンは笑気ガスの放出を中止し、腕を頭上に掲げて落下物に対処する。掌から放たれた小さな火種が空気中の可燃ガスを纏い、バーナーめいた火柱となって落下するパイプを焼き切る!

 からん、という金属質な音ともに床に転がるパイプの切れ端を睨め付けた直後、アルルカンは違和感に気付く。視界から兄妹とテディベアが忽然と消えたのだ。


「……そんなに“終わり”が嫌なのかねぇ。もう、逃げ場なんかないのに」


    *    *    *


「在庫の搬入口……もしくは従業員用の出入口……あるはずや……」


 暗いバックヤードを脱兎の如く駆けながら、新太郎は状況整理を行なっていた。彼は気を失った妹を背負い、テディベアを抱えている。天井パイプ落下の隙を突き、朦朧とする意識の中で逃げることに成功したのだ。あとは脱出するだけである。

 周囲にある無数の段ボールが崩れて道を塞いでいる。アルルカンが追ってきた時に身を隠す遮蔽物になるかもしれないが、同時に炎が迫ってきた時の延焼材料にもなりうる。彼は壁を蹴るように跳躍し、障害物に足を取られるのを回避した!


「こんな動けたんか、僕? 火事場の馬鹿力ってやつなんか……?」


 実際、彼は普段より身軽だった。風のようにバックヤードを駆け抜け、妹を背負って全速力で走り続けているはずなのに、疲労の色も見えないのだ。自らの身体に感じる違和感を奇妙に思いながら、新太郎はそれをアドレナリンの放出によるものだと解釈する。今の彼に、複雑なことを考える余裕はなかった。


 整頓して積まれた貨物を横切り、新太郎は広い空間に行き着く。電気系統は断たれ、目を凝らさないと全景を見渡せないほど暗い。壁に手をつきながら部屋の輪郭に沿うように歩き、新太郎は指先の感触からその場所に制御盤があることを認識する。


「頼む……ここが終着点なら出口に繋がるものがあるはずや……」


 祈るように制御盤を叩きながら、新太郎はタイムリミットが近づきつつあることを察知する。研ぎ澄まされた彼の聴覚は、轟々と燃え盛る炎と戯けたテンポの足音を確実に捉えていた。どちらも、徐々に接近している!


『——電力供給が停止しているため、非常用モードに切り替えます。安全を確保し、避難の準備をしてください』


 無機質なビープ音が響き、制御盤に付いたモニタの光源が明滅する。新太郎はそこに書かれた文字列を読み取り、小さく声を洩らした。この部屋に最初から出口はない。どこかで道を間違えたのか、広い空き倉庫に迷い込んだのだ。

 ここは袋小路。今から引き返すのも、もう遅い。追い詰められた新太郎が熟慮の末押したのは、防火シャッターの起動スイッチだ。ゆっくりと下がっていくシャッターによって、空き倉庫は一時的に隔絶状態になる!


「おやおやァ〜? やっと逃げるのを諦めたか。苦しむ時間が長くなるくらいなら、さっさと楽になればよかったのに……」

「諦めた? 目の前の防火シャッターが見えへんの? 今、アンタの方が危機的状況やろ……!!」

「なるほど。今の状態なら俺の方が炎に近い。このまま燃え広がって俺が死ねば、お前らは安全な防火シャッターの中で救助を待てる、と。咄嗟の判断にしては、なかなかやるねェ」


 シャッター越しに聞こえるアルルカンの声は真意を悟らせないトーンで、新太郎は黙って敵の心理を伺う。薄氷の上を渡るようなやりとりだ。この場で折れたなら、炎に巻かれて死ぬのは自分たちなのである。


「残念だなァ! 防火シャッターが完全に降りきってたらその理論も通用したのに、床との間に数ミリ隙間があるんだもんな。このちょっとした不具合が、ガスの通り道を作るんだぜ?」


 それは、新太郎が今日見た中で一番輪郭のはっきりした気体だった。渦を巻くように隙間から入ってくる黄緑色の毒ガスは、空き倉庫の高い天井を埋めるように蓄積されていく。

 彼は咄嗟に姿勢を低くし、背負っていた結をシャッターから最も遠い隅へ寝かせる。既に制御盤の光は消え、暗がりに慣れた目に黄緑色の煙が焼き付いていく。


「視認しやすい色だろ。これが下まで降りるのが先か、俺が火だるまになるのが先か。苦しい苦しい我慢比べの時間だ。予告するけど、お前ら兄妹は3分もしないうちにこの部屋から出たくなると思うぜ?」

「……誰が出るか。アンタも火を付けた事を後悔するんやな」


 新太郎は静かに毒づくと、鼻と口を押さえて床に伏せた。ここからは持久戦になる。上からゆっくりと降りてくる悪夢が徐々に空間を支配していくのを、黙って耐えなければならないのだ。彼は胸の内から湧き出る不安を抑え込み、聴覚を研ぎ澄ます。炎の音は、未だ遠い。


「炎はまだまだ来ないぞ〜? 今シャッターを開ければ、お前らの人生を楽に終わらせてやれるんだぞ〜?」

「……………………」

「俺の異能にかかればガスの成分調整なんてのも余裕でな、今入れたやつにはとっておきの成分を仕込んでる。なるべく長〜く苦しめるやつだよ。俺に従えば、外の奴らみたいに笑顔でいれるのに……」


 新太郎は沈黙し、その場から石のように動かない。酸素濃度は徐々に低下し、本能的な眠気が襲う。彼は欠伸を噛み殺し、妹の分の酸素を消費しないように努めていた。

 事態が硬直したまま、数分が経った。そのまま何事も起こらなければ、新太郎は耐え抜くことができたかもしれない。だが、彼は何気なく周囲を観察し、結果的に大きく呼吸をしてしまった。文字通り“息を呑んだ”のだ。


「結……なんで……!?」


 新太郎が見上げた先には、気を失っていたはずの妹の姿がある。ガスによって視界の悪いなかで陽炎のようにぼやけているが、いつもの表情で立ち竦んでいる。

 彼は咄嗟に結の手を掴み、地面に伏せさせようとした。立ち上がっているとそれだけガスを吸うリスクがあるからだ。だが、その手は無情に払われる。声を失う新太郎に、結は無表情を崩さない。


『兄ぃ。いつまでこんなこと、やるの?』

「……!?」


 結は大きく首を振り、呆れたように溜め息を吐く。表情は変わらないが、新太郎はそこに失望の色を感じ取った。


『わたしが笑えないことなんてわかってるのに、いつまでムダなことをつづけるの? わたしの気持ちを無視して、むりやり笑わせようとする。そんなんじゃ、あのおじさんと同じだよ!』


 それは、新太郎が妹を笑わせようとし始めた時から心のどこかに抱いていた不安だった。彼が妹を笑わせようとするのは、執着で、ある種のエゴである。彼自身にもその自覚があり、それは自身の業として理解しているつもりだったのだ。

 だからこそ、アルルカンが笑気ガスで結を笑わせようとした時に言葉にならない怒りを覚えたのだ。それは自分が得られないものを得ようとしたことによる嫉妬だったのかもしれないし、彼自身の行動に対する内なる不安の転嫁だったのかもしれない。〈同族嫌悪〉という言葉が口を衝きそうになり、彼は黙りこくる。

 自分の行動は、身勝手で、独善で、ただの自己満足に他人を巻き込んでいたのかもしれない。新太郎は這いつくばるように頭を垂れ、妹の瞳を真っ直ぐ見つめることができないままその場にうずくまる。危機的状況に何度も軋んでいた心が、今にも折れそうだった。


『今の兄ぃにだれかを笑わせるシカクなんてない。だれかを守るシカクなんて……』

「結………」


 煙の中に消えていく妹の姿と、脳内でリフレインし続ける声。彼は青ざめ、荒い呼吸を繰り返す。ガスはもう頭上数センチまで降下し、彼が全てを諦めようとした、その瞬間だ。


「兄ぃ、たすけて……!!」


 全てを洗い流すような風に乗り、その言葉は彼の耳に確かに届いた。


    *    *    *


 防火シャッターが降りてから13分が経った。アルルカンは時折周囲の様子を窺いながら、最後の獲物である兄妹が自ら部屋を開放するのを待ち続けていた。


「まだ耐えるかァ。いい感じにバッド入ってる筈なんだけどな。そろそろ動いてくれないと、厄介なことになるんだよ……」


 ピエロは苛立ちを発散するかのように指先で炎を弄びながら、背後で響く炎が爆ぜる音に別の音が混ざっていることを察する。炎を突っ切るように行軍する、無数の足音だ。


「これだけ暴れたらUGNの連中にも気付かれるか……。めんどくせぇ、あとちょっとでフルコンプなのになァ!」


 彼の人間離れした能力を以ってすれば、シャッターを破壊して侵入することは可能だ。だが、それは我慢比べの敗北を意味する。彼が見下している“普通の人間”に負けるのはプライドが許さないのだ。

 背後の足音は徐々に近づいてきている。アルルカンがいざという時の脱出用意を始めようとした時、幕が上がるかのように防火シャッターが開く! 


「開いた開いたァ! やっとお前らを笑わせられる! Happy Death Day!!」


 黄緑色の煙が倉庫の外に放出され、通路の熱で揮発していく。アルルカンはロウソクのように揺れる炎を光源代わりに、生き残りがいるはずの暗闇へ足を踏み入れる。迅速に楽しみ、迅速に撤退する。安全圏から今後も喜劇を楽しむために、彼が編み出した作戦だった。

 小さな光源は部屋の全景を捉えることなく、男の視界は空き倉庫の中心で項垂うなだれるように座り込む青年——白尾新太郎の姿を映す。


「前言撤回、お前から楽にしてやるよ〜! 吸ってみたらハッピーな気分のまま逝けるんだぜ。ケーキのロウソク吹き消すくらい簡単に、人生を終わらせられる。苦しい思いして生き続けなくていいんだ。最高にハッピーだろ!?」


 這うように座る青年は顔を上げ、静かに口を開く。靡いた髪がどこか幽鬼じみた風格さえ感じさせる、奇妙な雰囲気だった。


「……両国の花火は江戸の華と言いまして、花火が打ち上がるたびに『玉屋ァ〜』『鍵屋ァ〜』と掛け声を上げるなんてのは夏の風物詩、なんて言われておりますが」

「おいおい、狂ったか? ちゃんと会話できるか? まだ幻覚見てんのか……」


 言い慣れたチャントを諳んじるかのように言葉を発し続ける新太郎を、アルルカンは憐れみを込めた目で見つめる。幻覚成分を強めすぎたのだろうか、と考えている間に、彼は視界の端に微かな違和感を覚えた。


「ある時、一人のたが屋が見物人に揉まれながら橋の上を歩いておりますと、売り物の“たが”が外れて近くを見物していた殿様の笠を飛ばしちまう。平伏して謝るたが屋に、怒髪天の殿様は『その場で手打ちじゃ!』と叫ぶ……」

「……何が言いたい? 現実逃避してんじゃねぇぞ!!」

「たが屋は開き直り、『斬るなら斬れ!』と一言。そのまま斬りかかった御付きの侍の刀を奪っちまう!」


 何かが足首に纏わりつくのを感じ、アルルカンは視点を下に移す。暗闇に辛うじて浮かび上がるそれは、透き通るような白い肌にすらりと伸びる細い指が特徴的だった。眼前に居るはずの新太郎の手首が、男の足をしっかりと掴んでいるのだ。

 眼前で座り込んでいる新太郎の袖から蛇のように伸びた腕が空を切り、締め上げるように何度も脚に巻き付いた。アルルカンは動揺し、躓いて体勢を崩す。妖が自らの世界へ獲物を招くような、異形の拘束だった。


「……お前もオーヴァードだったのか? いつ覚醒したんだよ!?」


 瞬間、アルルカンは数十分前の出来事を思い返す。落下したパイプに気を取られている間にエスカレーター下に隠れていたはずの新太郎が妹を奪還できたのは、この能力によるものなのだろう。その時に覚醒したのなら、まだ能力を使いこなせていないのかもしれない。


「……人間を超えた気分はどうだい? お前は弱者からオーヴァードという強者になったんだ。俺と一緒に自由を謳歌しないか? 気に入らない奴に自分の力を示してやるんだ!」


 伸ばした腕でアルルカンの脚を締め上げながら、新太郎は薄く笑う。その瞳は、まだ絶望に死んではいなかった。


「この噺は——『たがや』は、押し付けられた理不尽に叛逆する噺や。自分が強いと思っとる奴の鼻を明かして、逆に斬り伏せる。そんな力が、この噺の主人公にはある」

「……勝てるとでも? お前が、俺に? さっきまで膝震わせてビビってた奴が、偶然得た力で? ヒヒッ、面白い冗談だ。さすが落語家って感じだな!」

「笑わせて終わらせたいんやろ? じゃあ、最後まで黙って聞いてくれないとあかんなぁ。この噺のオチを演るのはアンタじゃなくて、僕や」

「——舐めた口を利くなァ!!」


 アルルカンの手元で空間が歪み、ロウソクめいた火種を極彩色に染めた。極限まで濃度を高めた笑気ガスを圧縮し、直で嗅がせる。足を縛られていても、風を利用すれば数メートルの距離など関係なく新太郎を昏倒させられる!


「死ね、笑って死ねッ!!」


 その瞬間、アルルカンの足首を締め上げる力が急速に弱まった。伸びた腕が縮み、元の位置に戻っていく。

 ロウソクの炎が照らすのは、歪な青年の姿だった。正座の状態から姿勢を低くするかのように上体を反らし、極限まで身体を捻じる。異常な柔軟性で肉体を変異せしめているのか、その姿は妖怪めいている。新太郎は懐に添えた腕を揺らし、静かに呟いた。


「——横に払った、一文字」


 それは、我流の居合だった。アルルカンの眼前を水平に薙ぐように振るわれる一閃は、旋風となってガスで澱んだ空気を切り裂く。瞬時にアルルカンの視界が捉えたのは、切り裂いた空気の中を駆ける残影である!

 風向きが変わった。ガスの放出よりも速く間合いを詰められれば、倒れるのは自分だ。アルルカンは背筋が冷たくなるのを感じ、小さく身を震わせた。その表情から、既に笑顔は消えている。

 ひゅん。乾いた風切り音と共に、アルルカンの首に衝撃が走る。間合いは音速で詰められ、対処することもできない!


「しまッ…………!?」


 斬られた。そう確信したアルルカンの脳裏に、別の感覚が往来する。鎌鼬カマイタチのような旋風によって皮膚は裂かれているが、刃物が深く刺さった感触はない。これは打撃だ。


 閉じた扇子をアルルカンの首筋に打ち据え、新太郎は静かに息を吐く。彼は扱い慣れた扇子を日本刀に、『たがや』を演じた。勇気を奮わせるには、何かになりきるのが不可欠だったのだ。

 だが、与えた実質的なダメージは少ない。武器も持たず、異能の扱いも心許ない彼にはこれが精一杯で、だからこそ必要以上にハッタリを効かせないといけないのだ。新太郎はアルルカンを観察し、敵が想像以上に狼狽えていることを確認する。


「火が……火が消える……」


 アルルカンの手元で揺らめく炎が、旋風に煽られて勢いを失っている。戦意と同調しているのか、まさしく風前の灯火だ。新太郎はその様子を見て、もう一つの十八番を連想する。


「なにが命日のロウソクや。それは、アンタの寿命を表す炎やろ? 燃え盛ってた時はたくさんの人に影響を与えられたかもしれんけど、今じゃその頃の威勢もない。アンタ、もうじき死ぬよ」

「ちが……違う! これは俺の能力で」

「現に、アンタは何かを恐れてる。そうこうしてる間にも、炎はすぐ消えるよ」


 『死神』だ。『たがや』の次に練習していた演目から、新太郎はオチに近い部分を引用する。これしかない。そんな確信めいた直感に従い、彼は次になりきる存在を決めた。


「ふざけんな、ふざけんなァ! ここで消えたら、殺られるだけだろうが! 点け、点けよォ!」

「……今にも消えそうや。さっさと僕に攻撃しないと、死ぬかもな」


 アルルカンは頻りに背後で燃える通路の様子を確認しながら、炎を強めようと意識を集中していく。周辺の可燃性ガスを慎重に手繰り寄せ、熱による反応を狙うのだ。その手は、明らかに震えていた。


「震えると消えるよ。消えると死ぬよ……」

「うるせェ……! 消えちまう……消え……」


 白煙が天井に延び、終焉を祝う炎は静かに消えた。唯一の光源が消滅し、周囲は闇に包まれる。

 暗闇に響く慟哭は、道化気取りの男から仮面が剥がれたことを新太郎に確信させた。人を笑わせて殺すことに愉悦を見出していた男は、命の終わりを明確に恐れている。新太郎の語る噺に引き込まれているかのように、震える手で火種を覆いながら崩れ落ちていった。


「そこを動くな、オーヴァード!!」


 暗闇を切り裂くような懐中電灯の光がその場を照らし、防火服にガスマスクの集団が殺到する。彼らが通った廊下は既に消火済で、燃え残った段ボール片が乱雑に積まれていた。

 彼らは動かないアルルカンの頭に銃口を突き付け、統率の取れた動きでその身体を拘束する。そのうちの一人が立ち尽くす新太郎に気付き、僅かに接近した。


「……もう一つのレネゲイド反応。君が、アルルカンを無力化したのか?」

「警察か消防の人……?」

「そう見えるか? 面白い冗談だ。確かに、治安維持と救助は行うが……」

「それより、結が……妹がまだあの中に居るんです! 早く助けないと……」


 新太郎は背後のロッカーの一角を指差し、扉を開けようと近づく。ガスから少しでも妹の身を守るために空気穴を塞いだため、彼は焦っていた。

 取手に指を掛けた瞬間、不意に全身の力が抜ける。肉体が許容する一日の運動量を超えたのか、新太郎はその場に倒れ込んだ。


「むす、び…………」

「安心してくれ。生存者の保護と事後処理は、我々の仕事だ」


 朦朧とする意識の中、新太郎はロッカーから救出される妹の姿を確認する。テディベアを守るように抱えながら眠りにつく彼女に、怪我をしている様子はない。その様子を見て安心しながら、新太郎の意識は徐々に沈んでいった。

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