ワイルドハント・ロア
狐
『たがや』と『死神』
マクラ
「……横に払った一文字、殿様の首が中天高くすぽーんと上がる! 観ていた見物人が声を揃えて『たが屋ァ〜〜!!』。お後がよろしいようで……」
白い羽織の青年は扇子で眼前を横一文字に薙ぐと、座布団の上で恭しく頭を下げた。20分を超える演目をすらすらと淀みなく、慣れた様子で演じ切る。その報酬は大歓声と満面の笑みではなく、正面に立つ少女の仏頂面と部屋の外から疎らに聞こえる拍手の音だけだった。
本来なら大入り満員の演芸場に、今日は笑わない少女1人。表情を変えることなく一席観終えるさまを一頻り眺め、青年は手元のネタ帳にひとつ取り消し線を引いた。
「これもあかん? じゃあ次は『死神』やな……」
青年の名は白尾新太郎。まだ客の前で高座に上がった経験のない、16歳の落語家だ。
「それ、ホンマに妹に聞かせる演目のチョイスか……?」
開け放した扉の外で腕を組んでいた壮年の男が、苦笑しながら新太郎の元へ近づく。羽織に袖を通し、歩き方さえも丁寧で完璧な所作。四代目〈白尾新永〉は、新太郎と少女の父親であり、白尾一門の長だ。
「……勧善懲悪は年齢層を選ばんでしょ? 『たがや』は理不尽な目に遭った弱者が圧倒的な強者に立ち向かうレジスタンス的な話ですし、実質桃太郎みたいな話ですって!」
「殿様の首飛んどるんやけど……。で、『死神』は?」
「あれは話の筋が童話っぽいですし、『アジャラカモクレン〜』って呪文がキャッチーやないですか。子どもにもウケますって!」
「それでは誤魔化せんくらいサゲが暗ないか? 誉れの幇間くらいサゲを変えるならまだしも……」
「それぐらい激しいやつやないと、
新永は
「……そろそろ客の前でやってもええんちゃうか、“五代目”。お前は才能もあって、物覚えもいい。正直、ウチで抱えとるお前の兄弟子と比べても頭ひとつ抜けた腕や。高座に出て知名度を上げれば、白尾新永の名を継いでも文句言う奴は居らんよ」
「身に余る光栄やわ、師匠。でも、まだお客さんの前で演るつもりはないよ。やり残したことがあるから!」
新太郎は後頭部で結んだ髪を撫で、小さく息を吐く。家の名を継ぐことに不満はない。だが、気掛かりが残るのだ。
「結のことなら、もうええやろ。あの子は生まれてから今まで笑わん。感情を表に出すのが苦手なんや。母親の腹から出た時は産声を上げても一言も泣かんかったし、喜怒哀楽を表すところを見たことがない。昔っからクールな奴や。……それでええやないか。敢えて笑わせようとせんでもあの子はあの子なりに生きとるし、自分の考えはしっかり伝えられる。それ以上を望むのは、酷ちゃうか?」
「……身内1人笑わせられへん奴に、お客さんを笑わせられると思いますか?」
「あのなァ、あいつは“特殊”で……」
「これは、僕の
新永は白髪混じりのオールバックを撫で、暫し黙考する。その表情はどこか静かで、半ば何かを諦めているようだった。
「……まったく! 考えるのはやめや。新太郎、結と気分転換に行ってこい! 年の瀬の恒例行事の用意や!」
「結の誕生日プレゼント選びやね……?」
「小遣い渡すから、早よ行け!」
新永は懐の財布からポチ袋を取り出し、新太郎に投げ渡す。息子がそれを受け取って部屋を出るのを確認し、彼は静かに呟く。
「ほんまに、完璧な芸やのにな……」
* * *
Q市、某大型ショッピングモールにて。
年の瀬に集う人々をかき分けながら、新太郎は逸れないように結の手をしっかりと握る。小さな指は未だ冷たく、その肌は透き通るように白い。時折吐く息が白く広がることを除けば、その表情は人形のように変わらないのだ。
「結、他に欲しいものある? まだ余裕あるし、父さんには内緒でなんか買おか!」
「……おっきいクマさん、ほしい」
結の視線の先、玩具売り場の棚に積まれたテディ・ベアは、大きな体に愛らしい笑みを浮かべていた。新太郎は結を人混みから守るように引き寄せ、彼女の体ほどもあるぬいぐるみを苦心しながら手に取る。運ぶのは少し大変だが、値段自体はそこまで高くない。クリスマス時期を逃したためか、在庫を一掃するかのように安値を付けられていたのだ。
プレゼント用のリボンを結んでもらい、大きなテディベアは兄妹の手に渡る。財布にはまだ余裕のある、安い買い物だった。
「……これでええの? 遠慮せんと、もっと高い物でもええんやで?」
「これでさびしくないとええね、クマさん」
表情を変えずにそう呟く結の頭を撫で、新太郎は破顔する。妹は感情表現が苦手なだけで、他人を思いやることはできる。それが何より嬉しかったのだ。
「……結は優しいなぁ。クマさんも、新しい友達ができて喜んでるんちゃう?」
「
それまで白尾家の一人息子だった新太郎に妹ができたのは、6年前の大晦日だった。産まれた時から笑わない以外は変わった様子がなく、新太郎はそれまで体験したことのない兄としての立ち振舞いをすぐに身に付けた。多数の弟子を抱える父親や噺家の妻として多忙な日々を送る母親と比べて一緒にいる時間が長かったのだ。新太郎は最も身近な場所で、笑わない妹の顔を見続けていた。だからこそ、彼は結を笑わせる事に執心するのだ。
いつか彼女を笑わせる。できるならば、己の手で。それが新太郎の今の望みであり、目標だった。
(そろそろ“結びの一番”になるネタ、考えとかなあかんなぁ……)
大きなプレゼントを抱えながら、新太郎は思考を巡らせる。やはり『死神』だろうか。それとも『粗忽長屋』か? それとも、もっと子どもにも人気がありそうな演目がいいのか……。このような検討を重ねる時間を、彼は何よりも楽しみにしていた。
モールを歩く人々もそれぞれの時間を楽しむ、平和な年末の風景だ。皆が各々の人生を生きて、他者を注視することは滅多にない。たとえ、それが小さな日常の違和感の原因であろうとも。
スタッフ以外立ち入り禁止の通路から悠々と出て行くピエロの仮装をした男を見ても、日常を暮らす人々は何かのパフォーマーだと気にも止めない。判を押したような笑顔のピエロは踊りながら遠くを見つめ、魔法を掛けるように指を鳴らす。
その瞬間、出入り口の自動ドアが機能を停止し、上から防災用のシャッターが下がり始めた!
* * *
事態は数十分前に起きた。防犯カメラのモニタリングや営業時間外の施設管理を行う警備部が、不審な男の存在を確認したのだ。それはピエロの姿で、無数の監視カメラのうちの一つを見つめながら緩やかに踊り続けていた。
「許可を出したパフォーマーの名簿には載ってない。……上に報告すべきかな?」
「まずは警備員だろ……」
管理室でモニタリングをしていたスタッフがPHSを操作し、警備員に連絡を試みる。数秒の待機音の後、着信音は彼らの背後から響いた。
監視カメラには既にピエロの姿はない。スタッフが振り向いた視線の先、休憩用のソファに戯けたように座る警備員風の男がニヤニヤと笑っていた。
「警備員さん! 不審者がフロアに……」
「……理不尽だよな、世の中って」
男の素顔は制帽によって窺えない。だからこそ、スタッフたちは奇妙な違和感を覚えた。聞き慣れない声色のその男は、本当に警備員なのか?
「オープンセール、新年、誕生日……。物事の始まりばかり好意的に迎えられるのに、終わりはむしろ嫌われ者だ。年の瀬も、別れも、どこか物悲しいニュアンスで語られる。“終わり良ければすべて良し”っていう言葉があるのにだぜ?」
「……アンタ、何者だ?」
鳴り続けるPHS端末を制服のポケットから取り出して電源を切り、男はそれを煩わしそうに放り投げる。チラリと見えた制帽の下の素顔は、白粉を塗ったように白い。
「逆なんだよ。終わりこそ祝福されるべきで、笑って迎えられるべきなんだ。それがゴールであれ、別れであれ、人の死であれ」
男は制帽を脱ぎ、仰々しく立ち上がる。奇妙な化粧をした素顔は、ピエロのそれだ。
モニタに映る倒れた警備員の姿を確認し、スタッフは恐怖する。何らかの目的があってここに来た不審者は、次に自分たちを襲うつもりだ。そう察したからである。
「け、警察に連絡を……」
「ケーサツ? 無駄だよ」
通報するために立ち上がったスタッフの1人の前に立ち塞がり、男は掌をスタッフの鼻先に近付ける。瞬間、スタッフは脱力したかのように
「亜酸化窒素。麻酔効果があり、ヒトが吸うと強い陶酔感を得る。“笑気ガス”、そう言えばわかるか?」
気を失ったスタッフを蹴り転がし、ピエロ男はもう1人の顔を覗き込む。何が起こったかを徐々に理解したのか、その身体は震えていた。
「何か仕込んでたと思うだろ? 違うんだよ。タネも仕掛けもない、単純なやり方だ。俺の身体からガスを生み出したんだよ。“オーヴァード”の力を以って、俺自身が!」
「オー……ヴァード……?」
「俺は人間を超えたんだよ。くだらない世の中をぶっ壊す事だってできる!!」
ピエロは一頻り嗤ったあと、施設の防犯設備を管理する端末を指す。パスワードによるロックがかかっていたのだ。
「チャンスをやる。ここのパスワードを教えてくれたら、お前を追うことはしないさ。約束するよ」
「た、頼む……。教えるから、命だけは……!」
スタッフは震える手でパスワードを走り書きし、千切ったメモ用紙を男に手渡す。それを合図に、その場から脱兎の如く逃げようとした。同僚を連れて逃げる余裕はない。なんとか、自分だけでも……。そう思うスタッフの必死の逃走は、無情に降りるシャッターによって遮られる!
「な、んで……?」
「確かに“追わない”とは言ったけど、逃がすなんて言ってないから。
部屋内に充満していく笑気ガスによって朦朧とする意識の中、そのスタッフは男が最後まで余裕を崩さないことに静かな恐怖を覚えていた。同じ空間にいるだけで意識が飛びそうなのに、男はまるで自分の毒で死なないコブラのように平然としている。まるで、化け物だ。
「そう固くなるなよ。笑えって、最期なんだから……」
ざらつく視界の中、自らの緩んでいく表情と混濁していく意識は止められない。床を這いずるスタッフが最後に見たのは、男の手元で揺らめく炎だ。
「……Happy Death Day!」
それは終焉を祝うロウソクの炎か、これからその身を焼く篝火か。部屋内を充満する空気の匂いが変わったことにすら、倒れたスタッフが気付くことはない。それが強い可燃性を持つガスであったとしても、彼らは笑顔のまま受け入れるしかないのだ。
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