Episode01 不眠症の僕。


眠い。

もう一回瞬きをしたら寝そうだ。

ああ、ねむい。

こみ上げるあくび。

なんとか抑えてまばたきをした。

あ、寝るわ。

「……じゃあ、次の問題な、これ。」

チョークの軽い音にぎりぎりで引き戻されて、ノートに目を落とす。消しかすが目に入った。

数字が頭に入り、問題を解こうとするが、暖かい窓辺の日差しに僕が勝てるわけもなく。

こくり。

首も、もう限界。

シャーペンが静かに指から離れていく感覚。

こくり。

「よし、じゃあこれは高町たかまちに聞こうかな。37番の答えはなんだ?」

先生マリセンの声が段々遠ざかる。

うん、少しなら、寝ても、いいんじゃないかな。

いつも寝てるし、ばれないよな。

そもそもこの眠気に抗うという苦行はできないのだ。

こくり。

「おーい、高町?お前、聞いてるか?」

誰かが僕を呼んでるような、

「たーかーまーちーっ」

ま、いいか。

パンっ

「うっ。」

小気味いい音が教室に響いた。

僕の後頭部が少しヒリヒリする。

顔をさっと上げると、マリセンが綺麗な笑顔で立っていた。

あれ、僕寝てた。なんでバレたんだろう。

いつも気づいていないのに。

朝にスマホで見た、今日の運勢を思い出す。


『かに座でA型のあなたの今日の一言は、ずばり、変化!運命を変えることが起こるかもしれません!ですが、根気で乗り越えれます!頑張って生きましょう!』


そーっとマリセンから視線をずらした。

マリセンが右手で持っている彼の教科書が、折り目がつくほど強く握られていることに、僕は、関係ない、わけ…

…ないよね。

怒ってる。絶対怒ってる。うっすらと額に青筋も見えている。

冷汗が背中を伝う。目が覚めてきた。

「高町。ほら、37番はなんだ?」

「え~と、37番は、」

僕は日差しのせいで回らなくなっている頭を動かし、通し番号をたどった。

えーっと、僕が35で、三浦さんがいるから、

「森田君です。」

確か、37番は森田信一郎君だ。

僕がいうと、クラスのみんなが一斉に笑った。

え?まちがっていたのか?

ちらりと森田を見るが、彼も笑っている。

急いでマリセンの額を見る。残念なことに青筋は消えていない。うわぁ。

「違う、数学の答えだ。お前の同級生の番号ではない。」

あ。そうか。

急いで視点をノートに移す。

少し水がかかったように点々とページが透けているのは、多分僕のよだれだ。

うへ。速く乾いてくれ‼

できるだけ自然に、軽く右手でそれを包むように隠しながら、問題を探す。

「あっと、37で合ってますか。」

「違う。もう一回解け。」

「え?37番じゃないんですか?」

マリセンは何を言っているのだろう。

「あってるが。」

「「え??」」

僕は訳が分からず、きょとんとマリセンの顔を見つめる。

マリセンの顔にも「?」が書かれていた。額の青筋は消えているようだ。よかった。

そのことに、ほっとこことの中で一息つく。

だが、この沈黙は何だろう。

「「……」」

「二人とも間違えてますよ。」

謎の沈黙を打ち破ったのは隣の飯田いいだだった。

「「??」」

眉をひそめて飯田の顔を見る。僕の目はなぜか完全に覚めていた。今ならオセロで誰にも負けない気がする。

それにしても、飯田みたいに顔が良いと、憎いはずの態度も少ししか憎めない。この顔が武器になっているんだと思う。ぐっ、強い。

「37番の問題の、解答が25です。」

「「……??」」

え?

マリセンは太い眉をひそめていて、彼もまだ理解できていないようだ。

頭が再起動中の僕の視界に、一部の女子たちがキャーと盛り上がっている姿が入る。

飯田は顔に加えて頭も良いみたいだから、女子が騒いでも仕方がないとは思うが。

というか、僕は何か間違っていたのだろうか。

飯田はなぜ答えを言ってしまったのだろう。僕、答えはもう既に暗算で出していたのに。

頭に疑問が浮かぶ。

「高町が何番の問題を答えるのか聞くために「37ですか?」って聞いて、せんせーはそれを答えだと思って、「違う。」って言ったんですよ~。」

飯田が前髪を撫でながら言った。

「「なるほど。」」

思わずうなずいてしまう。いつものように、僕の声とマリセンの声が被った。

クラスがどっとわく。

飯田への喝采も上がっている。僕も拍手をした。マリセンもした。

「コントかよ!」

前に座るノリのいいムードメーカー、中津なかつが自作のハリセンで僕の教科書を叩いた。

やめてほしい。教科書がかわいそうだ。

教科書を急いで抱え、両腕で守る。

「やめてよ、中津。」

「あ、すまん。代わりに俺の教科書をやろう。」

中津が授賞式のように教科書を差し出してきた。

女子たちがクスクスと笑っている。

「いらないよ。それ、落書き多いだろ?」

「え~。そんなことないよ。」

口をとがらせ、教科書をまだ引っ込めない中津。

「もう怒ってないから。」

「よっしゃ、サンキュー。」

表情がころころ変わる中津。

差し戻そうとした中津の、ページなどが色々折曲がった教科書を、マリセンが奪う。

「よし、簡単に人にあげられる教科書は、先生が借りようか。」

「え、マリセン⁉」

うわぁ。マリセンの浮き出た青筋はさらに増えているようだ。

「さて、返してほしかったら高町と一緒に職員室に来いよ。明日には失くしているかもしれないなー。」

「そんなぁ…」

中津が絶望したように僕を見た。

なぜ、僕が巻き込まれないといけないのだろう。不可解だ。

中津の教科書を人質にしたマリセンが、教卓へ戻っていく。

「俺の教科書…」

悲壮な中津の声にクラスで忍び笑いが漏れる。

ああ、嫌だ。

僕は気持ち良く寝たかっただけなのに。

これも全部のせいだ…

僕は肩を落とした。




 青く晴れた、雲一つない空。


 漫画の主人公なら、丁度敵を倒し終わったころだろう。だが、高町風音かざねの心は雨、いや、みぞれだった。ある意味で、風音は敵を倒し終わったのかもしれない。

「——で、高町は結局一人で職員室に行ったんだ。」

「そうなんだよ!中津が『おれ、帰宅部の放課後練があるから。』とかよくわからないこと言って、気づいたら、目の前から消えていたんだよ。」

「あれま。」

 みぞれのように吹き荒れる風音の愚痴を聞くのは、たちばな日向ひなた。風音の隣の家に住む幼馴染で、幼稚園の頃から一緒に育った親友でもある。

「おかげで、マリセンの怒りが、全部僕に向いて…」

「あらら。」

おどけたような口調の日向。白い高めの柵の上に座って棒付きキャンディーを舐めながら、風音を見下ろしている。

「……」

風音はあまりの暑さに閉口した。半袖をさらに捲る。

「……で、今に至ると。」

「そう。」

風音は草むしりをしていた。


『よし、お前、授業中寝ようとしたから中庭の草むしりの刑な!安心しろ、中津の刑は夏休み中の男子トイレ掃除だ。ああ、中津の教科書は俺の慈悲で特別に残しておく。大丈夫、軍手は貸す。』


(う~ら~め~し~や~、熱中症で幽霊になったら真っ先に中津を呪ってやる!いや、マリセンが先だ!)

 風音は決意した。また草を引っこ抜いてポイと黄色いビニール袋に捨てる。それを繰り返すだけ。トイレ掃除の方が、どこを綺麗にするか考えることができるから、楽しいはずだ。臭いだろうけど。

 後ろを見ると、緑色の地面が茶色っぽくなっていた。あと半分。軍手の掌は、もうすでにたくさんの土と砂で汚れていた。ジャージのズボンについた土を手の甲で払う。

「いやー、夏休み前に中庭の草むしりしている風音くんが哀れだね。」

綺麗なレモン色のキャンディーを日の光にあてながら、日向は棒読みする。

「あ~、見てないで手伝えよ~」

風音は倒れたくなった。

「嫌だ。スカート見えるもん。」

「う。」

一瞬の逡巡も見せず、断る日向。

「自分の仕事なんだから、頑張って。」

「う。」

あまりの正論に呻く風音。再び草むしりを始める。

 太陽がギラギラとやかましい。日向は少し哀れになった。

「……愚痴だけは聞いてあげるわ。感謝しなさい。」

「ありがとうございます日向様。よければ、一つ、一つだけでいいので飴をください。」

「嫌よ。」

「……うん。知ってた。」

憐憫のかけらもない日向の言い草に、肩をすくめる風音。

「……そういえば、なんで授業中寝そうになったのよ。あなた、中学まで授業中寝たことがなかったって、前聞いたんだけど。」

「それがさぁ…」

風音は言い訳を始める。

 風音は中学三年生まで、授業中に寝たことは一度もない。だが、正しくは、中学受験まで。中学受験で、もともと頭の良い日向が、偏差値の高いこの学校を選んだ。だが、風音は一番家に近いところに入るつもりだった。

 ところが、日向の母と風音の母が、


「あら日向ちゃん、○○高校受けるの?日向ちゃんならきっと受かるわ。家に近いし

、いいわね。都立って、親孝行者ね~、うらやましいわ。」

「あら、風音君も数学がものすごくできるって聞いたわよ。うちの日向は数学が苦手なの。ぜひ、勉強会しない?」

「いいわね~。でも、風音は数学よ?それ以外は本当にダメなの。」

「大丈夫よ。数学ができるなら他のもできるわ。」


というような、会話をしたがために、風音は半強制的に日向の成績に合わせなければいけなくなった。

 風音は数学しかできない。数学は毎回、満点か最高点を出し、トップを常に独走しているが、後の教科は0か、最低点を独走、いや、迷走する実力。

 日向は基本全部トップクラスで、数学が上の下と言ったところだ。

 そして風音は感覚派の天才、日向は努力派の天才だった。

 さらに、勉強会は3回目からお菓子討論会になった。よって、勉強会は自然消滅。

 だが、風音は「家から一番近い」高校に入るつもりだった。つまり、何か事故があっても、歩いて帰ることができる、安心感のあるところ。

 その高校が、たまたま日向の志望するこの高校だった。


 風音は頑張った。あと3か月しかなかったので、昼は学校、夜は徹夜で勉強…といった日々が続く。風音は昼と夜の区別が段々つかなくなった。

 もともと体が丈夫だったからか、2週間に一回10時間寝れば、自動回復した。勉強にあけくれる日々。風音はこんなにブラックな時期は今までも、これからも無いものだと信じている。


 結果、風音は受かった。もちろん日向も。


 だが、風音に重大なミスが生じた。

 『寝たくても寝れない』のである。

 不眠に慣れた風音の体は、もうすでに作り替えられていて、夜間の睡眠を増やそうとしても、増やすことができなくなった。できるのは昼寝だけ。昼寝も、せいぜい一時間。

 ——『不眠症』。風音はそれになってしまった。

 それが、風音が授業中に寝てしまう理由である。


「……どんまい。」

「眠い。こんなに暑いのに、眠い。まぶたが、さがる。」

 気の毒そうな顔になる日向。風音はが常に住んでいる目の下をこする。話している間に、草むしりはもう終わっていて、風音は軍手を外していた。日向も、キャンディーの棒をなめているだけである。彼女の左手にはイチゴ味の、赤い棒付きキャンディーが握られていた。

 さんさんと太陽の光が、黒い土ばっかりの中庭に差し込む。

 日向は言った。

「あ。良い事思いついた。」

「え?」

風音が黄色いビニール袋を縛る。

「風音が寝れないのを治す、とっておきの方法。」

「そんなものあるの?」

処方された薬や、インターネットに乗っていた健康法を使ってみたが、風音に効果はなかった。まず、受験勉強で不眠症になる例が、あまり無かった。

「ジャージ着替えたら、うちにおいでよ。」

日向はもったいぶるように、白い柵から降りる。そして、にかっと笑い、白い歯を見せる。いつもよりも2倍ぐらいの笑み。風音はため息をついた。

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