雨龍の娘

奥井環

傘のない少女

 陸地のすべてを川と湖に変えてしまう勢いの雨だった。街には日夜警報が鳴り渡り、「記録的」というフレーズが口々に叫ばれたある年の晩夏、わたしは少女に出会った。


 はぁ…やれやれ、まったく。こうなっちゃ傘は役に立たないわ、かえって邪魔になるわ。早く仕事を上がって早く帰宅するつもりが、ご丁寧なことに豪雨様も予報より早くおいでなすった。報われない努力ってまさしくこのことだよなぁ。街ゆく人びとは雨風を凌ぎ切れないのを分かりながらも傘を差したまま、脇目も振らず家路を急いでいる。ただ激しい雨脚のせいで誰も彼も周囲がまるっきり見えていない。鈍い衝突音が響くたびに怨嗟の声が路面に染み渡る。まぁ、そりゃ誰だって文句も言いたくなるわな。突風で傘を失ったわたしは冴えない商店の庇の下から中立的な同情をみんなに投げかけてみる。しかし余裕のない帰宅者の胸にそんな同情は届かない。傘を失って帰る算段すらつかないわたしは誰よりも惨めな境遇にあるはずが、実際は誰よりも穏やかな心持ちでいられるというのもまた皮肉なもんだ。昔のひとならこういうのを童話にしたかも知れない。道を急ぐひと達を観察しながらあれこれ考えていると何か引っかかった。ひとの流れだ。衝突というエラーやその副産物である怨嗟の声が発生しながらも全体的にみれば人流は一定速度でちゃんと進んでいる。しかし、あるポイントを境に人流の速度が明らかに停滞している。はじめは何か大きな水溜まりでもあってそれを避けているのだと思ったけど、よくよく目を凝らしてみてみるとそこには少女がぽつんと立っていた。どこまでも孤独に傘も差さずに、ただ雨ふる天をやさしく仰いで。何かとても大切な落とし物でものこしてきたような、少女はそんな視線をしばらく彼方へ注いだ。


 あれからどれだけ時間が経ったのだろうか。気付くと路上には少女とわたしと、ただふたりだけが立っていた。路上はドラマ撮影のために人祓いが行われたように無人だった。少女はこちらをじっと見つめている。あるいはわたしがセリフを言う番なのかも知れない。そんな奇想が頭をサッと横切る。わたしは少女の視線を正面から受けとめて、その意味をもう一度だけ探ってみる。どこか不思議な、懐かしいような印象があってわたしはつよく惹かれた。が、その惹かれる所以をどうも上手に言語化できない…。まぁいいか。せっかく早上がりしたんだしさっさとうちに帰ろう。わたしにだって帰宅してたっぷりと休むだけの権利はあっていいはずだ。雨脚も心持ち弱まった気がするしさ。少女はわたしに応えを求めているような気がするけど、きっと「気がする」だけなんだ。あぁ自意識過剰も甚だしい、こういう時は無視して構わない。だって実際ほとんどのひとがそうやって…。


 気づいたときには既に声をかけてしまっていた、雨に濡れるのも構わず。少女の視線だけでなく、少女を中心に特殊な磁場がつくられているような気がしてきた。そしてわたしはそれに抗うことができなかった。わたしは気を取りなおしていくつか簡単で形式的な質問を投げてみる。しかし…無言。話すことができないのか、あるいはただ話す気がないだけなのか。少女は質問に答えるかわりに、手をこちらに差し伸べた。降りしきる雨に打たれ透き通ってしまうような、そんな頼りない手を向けられ受けとらない訳にはいかなかった。当然の反応。手を握ったはいいけど、このまま少女を家に連れていっていいものか。それに少女はどこか遠く、遥か遠くに行きたがっているように感じた。しかし今は天候が天候だ。この極度の視界不良と警報級の豪雨のなか、わたしに思い浮かぶ場所はひとつしかなかった。


 たったいま川を渉ってきたようなびしょ濡れで玄関にたどりついてやっと、わたしは少女を間近にみることができた。外じゃ雨降りの跳ねっ返りも強くて見るものすべてが不確かだったが、今ならすべてハッキリと見える。そんな正常な両の眼でみて、改めて確信するに至ったが少女は異国の出身だった。灰色がかった青の双眸に、同じく灰色がかった金の髪。一度も染めてなんていない、生まれながらの色なのは見ればわかる。もう何年も前になる。歴史の授業でかつて我が国にも存在した異国の民についてすこし学んだことがある。しかし、まさかその実在を東方の辺境にあるこんな廃れた小都市で、それも自宅の玄関先で目にすることになるとは…。あるいは少女もこの国で育ったのだろうか。しかし巷間では混血すら根絶えてもう既に長いと聞くが…。


 いや、今はそんなこと考えていても仕方がない。はやく服を脱いで雨滴をちゃんと流し落とさないと。とくに晩夏の大雨は病を降らすと古から伝えられている。うちのおばあちゃんにも口を酸っぱく言われたもんだ。あの雨にゃわしらを超えた意志がつよく宿っておって、わしらの身体じゃそんなもんとても受け止めきれりゃせんって。そんな懐かしいおばあちゃんの姿を脳裏に浮かべなながら、濡れた足も構わず急いで風呂の支度をする。廊下なんて後で拭けばいい。それより布っきれ一枚の少女をはやく風呂に入れて着替えを用意してあげないと。家にはあいにく女物がなかったので買ったばかりのパジャマを少女に渡して、風呂に入るよう言った。少女はそれに何も答えず、ただ瞳をこちらに向けてゆっくりとひとつ頷いて足早に風呂場へと向かった。まったく、不思議な子だ。わたしとのコミュニケーションを拒絶している風ではないが少女に出会ってからその声をまだ一度も耳にしていない。やっぱり口がきけないのだろうか、…しかしそういった不具の印象も受けない。まったく、、不思議な子だ。わたしはせっせこ廊下の雨滴を拭き取りながらそう呟いた。


 まったく、、、不思議な子だ。三度目。今度はテーブルを挟んだ向こうにぶかぶかのパジャマ姿で少女が座っている…、座っている…と言っていいのだろうか。少女は体育座りの亜型とも言えるような形で椅子の上に落ち着いている。そしてそれをあまりにも自然にやってのけているので、見ていてとくに悪い気はしない。とにかく少女はテーブルの向こう側に座って、さっきまでに比べて幾分落ち着いた様子をみせている。とりあえず他に必要なものはあるか、そう尋ねてみる。……無言。フレーズを変えながら何度か試してみるが、………無言。ただ質問の途中で少女の瞳に一瞬だけ煌めいたような気がした。わたしは少女が質問のどの部分に反応したのかしらばく頭を悩ませ、そしてその答えが浮かぶとキッチンへ走った。スープとパン。出来合いのものだけど、これくらいあれば少女ひとりには十分足りるだろう。テーブルにそれらを並べてみると少女はこちらをみて、ゆっくりと二度頷いた。そうか、やっぱり腹減りだったか。コミュニケーションも案外なんとかなるもんだ。そうホッとひと息つくや否やスープとパンとがすっかり空になっていた。それはあまりに一瞬すぎて我が眼を疑った。でも念のためおかわりを多めに持ってくると、それも一瞬のうちに平らげてしまう。確信した、少女はほんとうの大食いである。もちろんわたしは「ほんとうではない大食い」というものを寡聞にして知らないが少女こそほんものであると断言できる。そして歴史の授業で学んだ知識が正しければスープとパンなら地域問わず食べ方がさほど変わらないらしいのだけど、少女の食べる様はわたし達の食事作法からみて異様だった。少女のルーツが一体どこにあって、少女の家族がいまどこでなにをしているのかふと気になった。質問が積もってゆくばかりだ。しかし訊いたところで答えが返ってくるわけでもないし…まぁ今は仕方ないか。あのとき少女は歴史的豪雨のなか傘も差さず路の真ん中に取り残されていた。専門家でないから分からないが、少女は何かしらの心的外傷を負って一時的な健忘にあったのかも知れない。とにかく全ては豪雨が去ったあとにゆっくり話し合ってみよう。考えてみると定時で帰るためたに昼食を抜いたんだった。こちらの腹へりもそろそろ誤魔化せそうにないし、わたしは取り分がなくなってしまわないうちにと足早にキッチンへ向かった。


 結局、冷蔵庫はすっかり空になってしまった。まったく何という胃腸。わたしが困った顔で少女のほうをみると既にテーブルに突っ伏して熟睡している。その白く小さい左手にはスプーンを持ったまま。動物的、その表現が適切かはわからないけど少女にはどこかひとを超越したなにかを感じる。それでもいて頼りないのでどうも放っておけない。どうしてか往々にひとから疎まれ、またあまりひとに愛着を抱けなかったわたしがここまで親身になるのは初めてだった。気づいた時には少女に自然な好意を抱いていて、少女もわたしの前では安心しているような気がする。はぐれもの同士、そんな感じなのかな。振り返ってみれば普通から一線を画している、そんな印象ははじめからあった。皆が傘を差したままぶつかろうが蹴飛ばそうが構わず足早に去るなか、ひとり天を仰いでいたあの瞬間から。しかしなぜ………ひとりで考えても仕方ないか。今日はドッと疲れたし、眠気もひどい。自分が寝落ちてしまう前にベッドの支度をして少女を運んで、そっと寝室のドアを閉めた。わたしはどうせ寝付きもいい方だからソファーベッドで構わない。


 横になりながら一日に起きた出来事を順に並べて検証しようとする。してみるものの、何回やっても正しい順序が思い出せなかった。実はそこには始まりも終わりもなく、すべて蛇が自分の尻尾を咥えるように環状になっている。今日はそんな一日だった。あるいは明日もそうなのかも知れない。とにかくいまは恐ろしいほどの眠気で頭が働かないし、諦めて寝るか。そう思ってわたしはほの暗いリビングで沼のような眠気に身を委ねた。

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雨龍の娘 奥井環 @okui_kann

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