第44話 潜入、カガイパレス! 現れた最強の敵!

その1

 部屋の外に慌ただしい気配を感じて、晴一は目を覚ました。背中に硬いベッドの感触。慣れない枕で眠ったせいで、首から後頭部にかけて、妙に突っ張っている。

 ベッドの上で体を起こす。部屋の中に時計はない。窓から差し込む光の感じからして、まだ昼前。誰も晴一を起こしに来なかったらしい。


 裸足を床に下ろして、立ち上がる。打ちっぱなしのコンクリートは、身震いするほど冷えていた。狭い部屋の入り口を塞いでいるのは、分厚い鉄の扉だ。小さな覗き窓には、太い鉄格子が嵌め込まれている。


 大空晴一は、独房にいた。


 覗き込んだ小窓の外には誰も居ない。ただ、つながっているどこかの廊下を行き交う足音が聞こえている。しかし、そのどれ一つとして、晴一の独房に近づいてくる気配はない。

 黒服に連行されてから、今日で一週間になる。日中はひっきりなしの尋問を受け、出された飯を食い、シャワーを浴びて寝るだけの生活。今のところ、ショウジとユウコのことについては口を割らずに済んでいる。


 しかし、それにどれだけの意味があるのだろう? 尋問に現れる黒服――“輝く星の会”の職員たちは、晴一の言葉で答え合わせをしているようにも見えた。ひょっとすると晴一たちの活動はほとんど明らかにされていて……口を閉ざした分、不利になっただけかもしれなかった。

 その尋問も今日はない。


(なんだってんだ、クソ)


 既に聞くことはないということか。晴一は観念して、鉄の扉に背を預けた。

 あの後、さくらたちはどうしたのだろうか? 父親のああした姿を見るのは、あまり愉快ではあるまい。ノボルが逃走を続けているなら、その名前もきっと、メディアに出ることになるだろう。


(あまり思いつめてねえといいけど)


 晴一はそのまま滑り落ちるようにして、扉の下に座った。今日は朝飯も運ばれてきていない。空きっ腹のせいか、気分が沈んだ。

 すぐに追いつくと言ったのに、ユウコとショウジは姿を見せなかった。彼らも捕まったのか、あるいは――晴一は見捨てられたのだろうか。


「フーッ……」


 考えても仕方がない。“輝く星の会”の職員は、こちらの質問には一つも回答してくれなかった。“何もわからない”というのが、今の晴一の真実だった。

 思考を打ち切る必要がある。――ベッドに入れば、もう一度眠れるだろうか?


 立ち上がりかけて、晴一は息を殺した。スニーカーの足音が、彼の独房に近づいてきている。朝飯の職員にしては、足取りが重い。

 たっぷり時間をかけてやってきた足音は、やがて独房の前で立ち止まった。足音の主が、息を詰める気配がする。


「晴一くん。いる?」

 明星さくらの声が、奇妙に反響した。一瞬ためらった後、晴一は口を開く。

「いる」

「そっか。……朝ごはん、まだだって聞いて。おにぎり、食べる?」

「食う」


 晴一は立ち上がって、覗き窓から顔を出した。さくらが持ってきたラップに包んだおにぎりを押し込んでくる。鉄格子に挟まれたおにぎりは変形して、晴一の手元に来る頃にはかなり平べったくなっていた。


「塩気が欲しいな」

「魚肉ソーセージ、食べる?」

「欲しい」


 オレンジ色のパッケージを開けて、おにぎりと交互に魚肉ソーセージを食べる。ここに来てから、一番美味い食事だった。血糖値が上がって、思考が回り始める。

 洗面台から水を汲んできて、一気に煽る。晴一は息を吸った。

 しかし、先に口を開いたのはさくらだった。


「あの頃とは反対だね」

「ああ……」

 とっさに思い当たることがなくて、晴一は曖昧に答えた。しばらく考えてみたが、やはり思い当たることがない。

さくらが小さく笑った。見透かされたらしい。


「覚えてない?」

「悪ィ。けど、さくらは独房に入れられたことないだろ?」

「それはないけど……ほら、三年生の途中くらいまでさ。私、しょっちゅう学校休んでたでしょ。プリントを届けてくれるのは、いつも晴一くんだった」


「……そうだっけ?」

「そうだよ。その度に私の部屋の前まで来てさ、色々話してくれたじゃん。忘れちゃった?」

「ああ」

 晴一はぶっきらぼうに答えて、おにぎりを口に押し込む。

 本当は、とっくに思い出していた。小学二年生だか三年生だかの頃、さくらが学校に来なかった時期があった。当時、明星のおばさんは『さくらは体調を崩している』と言い、それは実際そうだったらしいが――そもそもの原因は、学校での嫌がらせにあったらしい。


 それを晴一が知ったのは、中学に上がった後のことだ。当時の彼にとって本当に重みを持っていたのは、少年野球のチームでレギュラーになれるかどうかで、体調を崩している女子について、深く知ろうともしなかったのである。

 今答えたのは、その日の大空晴一だった。


「そっか」

 さくらの声が微かに沈んだ。

「でも、私は覚えてる。晴一くん、全然帰らないんだもん。お母さんにプリントを渡した後に上がってきてさ、ずーっと喋ってて……最初は、ちょっとうっとうしかったんだよ」

「おれでもそう思うだろうな」

「うん。私は返事なんかしないのにさ。しょっちゅう来ては、その日の話をしてくれて。あの頃、私にとっての“外の世界”は、それが全部だった。喋ってる時の晴一くんは、いつも楽しそうで、うらやましかった」


「そうか」

 晴一はおにぎりを飲み込んだ。再び煽ったコップの水が苦い。

 さくらは考え違いをしている。小三といえば、父と母の関係がこじれ始めていた頃だ。両親はどちらも帰って来るのが遅くなって、晴一は鍵っ子になった。誰もいない時の一軒家は冷めていて、暗かった。

 一人でチーム練習から帰ってきた時には、それがますます身に染みた。


 明星家に行けば、さくらの母がいつもいた。部屋から出て来なくて返事もしないさくらは、晴一のお喋りを黙って聞いてくれる便利な壁だった。


「けど、記憶を美化し過ぎてるぜ」

 晴一は低い声でそう言った。さくらを勘違いしたままにしておきたくなかった。

「おれはそんなに楽しい話はしてないよ。家に帰りたくなくて、ダラダラ喋ってただけだ」

「そう? 私は聞いてて、面白かったよ。晴一くんがいるならって思って、外に出たくらいなんだから」


 こつん、と扉が音を立てる。明星さくらは、すぐそこにいる。

「今日は私が扉の外で、晴一くんが部屋の中。だから反対。でしょ?」

「そうだな」

 おにぎりを包んでいたラップを丸める。晴一は立ち上がった。


 覗き穴から顔を出すと、さくらの瞳が彼を見返す。

「……けど、私は晴一くんをここから出そうとは思わない」

 さくらが唇を震わせた。

「遅刻が増えたり、怪我してきたり……ずっと、何かあるかもって思ってた。けど、晴一くんが前みたいに、ずっと元気になってたから……また、打ち込めるものを見つけたんだって。お父さんと一緒になって、ガイスルーと戦ってたなんて」


 あ、と思った。さくらの次の言葉が、晴一にはわかった。

「なんで?」


 予想通りの言葉を吐いた少女の瞳には、黒い怒りがとぐろを巻いている。まぶたが受け止められなかった怒りが一筋、涙になって頬を伝った。


「お――いや、僕は」

 晴一は言葉をつまらせた。さくらの投じた「なんで?」こそ、彼が最も恐れていた質問に相違なかった。

 必要なのは、誠実な答えだった。ユウコやるり子、そしてしばしば晴一自身を納得させるために口にした、筋を通しただけの“正解”ではなく――彼が戦う本当の理由を。


 口を開いてコンマ数秒、晴一は記憶をひっくり返して、それを言葉にしようとした。ユウコやショウジ、そしてノボルが持っている、単純明快な真実。


 晴一にもあるはずだ。


 夜のコンビニでブラックと対峙した時に感じた怒り。駅前広場でクロオの目を潰した時の高揚。ノワールが撃たれた時に感じた衝撃と恐怖。あるいは、横断幕を掲げる高校生や、礼二に対する優越感。

 どれも真実だ。だが、それは戦いに付随する感情で、戦う理由ではない。戦っているときはいつも無我夢中で、自分の気持ちを考えている余裕はない。


 きっと、必要なのは「続ける理由」だ。理屈で詰めれば、イカれてるとしか思えない危険な戦いに、また繰り出していくことができる理由。晴一がまた、次回も頑張ろうと思える理由。

 全く正直に答えるとすれば、それは既にるり子に見透かされた通りのことだった。


「好きなんだ、さくらが」

「――」

 さくらの瞳孔が微かに広がる。晴一はとっさに言葉を続けた。

「ノボルさんも、一緒だったはずだ。誰かを傷つけようとして、あんなこと……結果的には、弁護の余地はないかも知れないけど。始まりは違うんだ。おれも……」


 晴一はかぶりを振った。また、不要なごまかしをしてしまっている。

 それに、とっくに見限った親のことを他人に弁護をされる時の、あの居心地の悪さ。それは晴一の方がよく知っている。


「ごめん。変なこと言った。忘れてくれ」


「ううん。いいよ。わかるよ」

 さくらの目はもう、さっきのように据わってはいなかった。

「けど、もう……私は、大丈夫だから。心配されなくても、平気だから」

 少女が困ったように微笑む。それで晴一にはもう、何も言えなくなってしまった。


「さくら」

 通路のどこかから、張り詰めた声がした。晴一からは死角になった通路のどこかに、ななみが来ているらしかった。

 さくらがうなずく。

「うん。じゃあ、晴一くん。私はちょっと、行って来るから」

「あ、おい――」

「……さっきの話は、帰ってきた後で、ちゃんと聞く。許したわけじゃないからね」


 晴一が言いかけた時には、さくらは走り出していて、立ち止まることはなかった。鉄格子の隙間から遠ざかっていく背中を見つめ――晴一はやがて、深い息を吐いた。

 失敗した、という実感があった。誠実であろうとしたのに、最後はごまかしに逃げた。これなら、最初から適当なことを口にしていた方がよほどマシだ。


「あれ?」

 俯いた晴一の耳に、ちょこちょこした声が飛び込んでくる。さくらの去った通路に、みちるの姿がある。

「さくらちゃん、もう行っちゃったのかな」

 みちるは晴一を振り返った。教室にいる時のような気軽さだった。

「大空くん、知らない?」

「あいつなら、海野が連れてったぞ。たった今」

「ありゃ、入れ違っちゃったか。しょうがないな、も〜」

 みちるが額を叩く。


 晴一は尋ねた。

「慌ただしいな。どこか行くのか」

「それは、ひ・み・つ! ついてこられちゃったら困るもーん」

 みちるは顎に手を当てて、晴一を覗き込んだ。

「きみたち、ガイスルーと戦ってたんだって? よくないなあ、そういうのは。さくらちゃんが聞いた時、どれだけきみたちのことを心配したか。それに、きみのためにどれだけ骨を折ったか。想像つくかな? ほんとはきみだって、おまわりさんのお世話になるトコなんだよ?」


 晴一は言葉に詰まった。いつも通りに気安いみちるの声には、しかし、確かな怒気が含まれている。

「まあ、その中も快適とは言えないかもだけど。しばらくはそこで、大人しくしてな〜」


    ◆


 みちるはひらひらと手を振って、去っていった。取り残された晴一はベッドの上に寝転んで、もうずっと、天井を見つめている。

 しばらく前から、独房の外は静まり返っていた。食事は出されず、尋問が始まる気配もない。晴一は本当に、ただ閉じ込められているだけだった。


 ルミエールたちは彼の推測通り、カガイヘイムに旅立ったのだろうか。“輝く星の会”では、次元物理学の研究も活発に行われていると聞く。

  “輝く星の会”は、こちらから異世界への扉を開く研究を、いよいよ完成させたのではないか? 施設全体があれほど慌ただしくなり、全員が晴一のことを忘れるほどの一大事となると――。


(後は、前みたいな大規模侵攻くらいか)


 そう思った時だった。

 ずん、と建物全体が揺れる。晴一はぱっと身を起こした。地震か? かなりデカい――。

ややあって、再度の衝撃。どこか間延びしたような破裂音。施設のどこかで、何かが爆発したのだとわかった。

 地震ではない。“輝く星の会”は、何者かの攻撃を受けている!


 ヴーッ! ヴーッ! ヴーッ!


 扉の外でけたたましい警報が鳴り響き、天井の回転灯が回り始めた。バタバタした足音が再び通路を行き交う。もう一度、建物に衝撃が走った。

 やばい。

 晴一は鉄格子に取り付いた。このままだと生き埋めになりかねない。


「おーい! 誰か!」

 ばばばばば。

断続的な射撃音が、彼の声に応えた。かなり近い。敵が侵入してきているのか?

 晴一は口をつぐんで、独房の奥に下がった。下手に動くよりも、ここでじっとしていた方が安全だろうか? いや――。


 晴一はベッドのマットレスを剥いで、フレームから鉄棒を引き抜いた。やって来ているのは、十中八九ガイスルーだろう。ルミエールが出発したのと入れ違いに、カガイヘイムの奴らがやって来たのだ。

 ユウコやショウジ、ひょっとするとノボルも、集まってくるだろう。そんな時に晴一だけ、隠れ潜んでいるわけにはいかない。


 握った鉄棒を素振りして、なまった体に活を入れる。


(武器はこれでよし)


 次は脱出の方法だ。晴一は扉に駆け寄った。通路に足音が近づいて来たのは、ちょうどその時のことだった。

 職員か? 渡りに船だ、扉さえ何とかなれば――。


「少年! 少年、どこにいる?」

 鉄棒を背中に隠しかけた晴一の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。鉄格子の外では、ミリタリージャケットを着込んだ女子大生が声を張っている。

 晴一は鉄格子の隙間から手を出す。すぐにユウコが気づいた。

「ユウコさん! ここ、ここです!」

「爺さん、こっちだ! 早く!」


 二つ分の足音が近づいてくる。

「ちょっと待ってろ、な……」

 ショウジの手元で鍵の束がじゃらじゃら鳴った。どこから手に入れて来たのか、それは独房の鍵らしい。ショウジは扉の鍵穴に最初の鍵を差し込んだ。鍵は開かない。

「ハズレか」

 ショウジは次の鍵を差し込んだ。鍵は開かない。

「急いでくれ」

「だぁから、ちょっと待て。」

 ショウジは次の鍵を差し込んだ。鍵は開かない。


「……爺さん、部屋番を見るんだ」

「今やっとるだろが! クソ、老眼鏡を忘れた……」

「もう、貸して!」


 ユウコの指が正しい鍵を寄り分けた。たちまち扉の鍵が開く。

「少年、無事か? 酷いことされなかったか?」

「リッツ並みの待遇でした。平気です」

「ごめんな。本当ならもう少し、早く来る予定だったんだけど」

 ユウコは晴一の両腕を握り、それから両足を握った。それで、彼女の検査は終了したらしい。


「本当に大丈夫そうだな」

「そう言ったでしょ」

「万が一ってのがある。なにしろ――」

 建物がまた、ずしりと揺れた。

「これだ。早いトコ脱出しないとまずい」


 晴一はショウジを振り返った。

「じゃあ、これはお二人の手引きじゃないんですか」

「いや」

 ショウジは晴一の肩を叩いた。

「今は気にせンでいい。無事なら行くぞ。すぐに」

 老人は言葉を切った。その視線が、晴一の肩越しに、通路の奥をさまよう。ユウコは既に、彼と同じ方向を凝視していた。


「どうしたんですか――?」

 怪訝に思った時、晴一にも“それ”がわかった。彼の背後から、何か巨大な気配が近づいて来ている。がしがしと歩いてくる何者か。その歩幅は、信じられないほどに広い。

 晴一は背後を振り向いた。窓のない通路の奥はとっくに停電して、闇に閉ざされている。

 姿は見えない。しかし、この雰囲気。友好的な存在のそれとは思えない。恐らくは、施設を襲撃した敵――カガイヘイムの放ったガイスルーに違いない。


 敵は、もうすぐそこまで来ている。先に武器を借りておけばよかったと思った。

 晴一は鉄棒を持ち上げる。この距離にユウコがいれば、彼の出る幕はないかも知れないが――。


「おや」


 平凡な声。すぐにその主が姿を現す。

「君たちか」


 晴一も見知った男だった。会社に行く時と同じ灰色のスーツに、ブラウンの革靴。全くいつも通りのスタイル。背中から二股に伸びた黒い影が、三本目と四本目の脚めいて、通路を踏みしめている。男の体は、空中に縫い止められているようにも見えた。

 晴一は呻くように、その名前を口にした。

「ノボルさん」


「ああ、私だよ」

 空中の男が、答えた。

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