第28話 さくらのスイーツ大作戦! ティラミスは思い出の味!

その1

 日曜日の朝。9時過ぎに起きると、母はもういなかった。テーブルの上に出かける旨の書き置き。呆れるほどのバイタリティだった。

 そのうち、またボーイフレンドを紹介されるのだろうか。晴一はいささか憂鬱な気分で冷蔵庫を開けた。作り置きの皿が一つ残っている以外は、ほとんど空っぽだ。食料品の買い出しを進めておかなければならない。


「いや、ちょっと待て……」


 そろそろ食べてしまわないといけないものがあった気がする。晴一は再び冷蔵庫を開けて、中身を漁った。思った通り、一番上の段に大空家のものではない鍋が冷えていた。

 先週、さくらの母にお裾分けしてもらったカレーの鍋だ。そろそろ中身を空にして、鍋は返却しなければならない。


 朝飯はカレーですませることにした。冷凍のご飯をチンして、残りのカレーと一緒に平らげる。空になった皿と鍋を洗ってから、晴一は鍋だけ持って、外に出た。


「あら」


 明星家のインターホンを鳴らしかけた時、聞き覚えのある声がする。鍋を抱えたまま振り返ると、野和るり子が立っていた。


「奇遇ね」

「おう……」


 晴一はいささかきまり悪く、答えた。るり子は白いブラウスに、デニムのハイウエストスカート。制服とは少し違った魅力がある。

 それに、昨日のことがある。晴一はるり子の前でガイスルーと戦ってしまった。逃げろと言ったにもかかわらず、彼女は現場に残っていたのだ。

 るり子が晴一のことを誰か……しかるべき大人に話せば、かなり面倒なことになる。


 晴一はこわごわ、るり子を観察した。昨日は停電していたし、月も出ないで真っ暗だった。ひょっとすると、顔は見られずにすんでいるかも知れない。


 出し抜けにるり子が口を開いた。

「貴方も、明星さんのお家にご用?」

「ああ。……鍋を借りてたもんで」

「お鍋?」

「カレーのお裾分けがあったんだ」

「へえ。貴方のお家って……」


 るり子が首を傾げる。晴一は黙って、自分の家を示した。


「そう、お隣さんなの。道理で明星さんと仲が良いと思ったわ」

「別に。親同士の付き合いが長いんだ」

「そうは見えなかったけど……本人が言うなら、そうなのかしら」


 るり子は目を細めて笑った。それから、怪訝な様子で玄関の向こうを覗く。

「誰も出ないわね」

「あ、悪ィ」

 晴一は手を伸ばして、インターホンを鳴らした。

「まだピンポンしてなかった」


 すぐにバタバタッとした足音が聞こえて、さくらが玄関先に顔を出した。

「野和さん!」

 さくらはるり子に笑いかける。

「おはよう」


「それから、晴一くん?」

 さくらは不思議そうに晴一を見た。

「おう」


 ころころ表情を変える幼なじみに、晴一は鍋を示す。

「鍋、返しにな。野和さんとは、そこで鉢合わせたんだよ」

「あ、そうなんだ。なーんだ、びっくりした。……カレー、どうだった?」

「え? ああ……ちゃんと美味かったよ。おばさんにも、よろしく言っといてくれ」


 晴一は「じゃ」と手を挙げた。


「あれ、帰っちゃうの?」

「帰るよ。野和さんと遊ぶんだろ?」

「うん。みんなでお菓子作りの日なんだ。晴一くんも上がって行ってよ。お料理できる人がいると、助かるし……」

「いや、俺は――」


 奥のリビングから、ななみとみちるが顔を出していた。ルミエールが勢揃いというわけか。

 晴一は助けを求めてるり子を見た。できれば、これはかわして帰りたかった。鍋だけ持ってきた晴一は、あまり他所行きの格好ではなかったし¬――もともと今日は、ショウジに出された“宿題”をこなす予定だったのだ。

 だが、期待に反してるり子は肩を竦めた。


「お言葉に甘えたら良いじゃない。得意なんでしょう?」

「うーん……」

 晴一はさくらの顔色を伺った。期待に満ちた眼差しが、彼を見返していた。

「まあ、ちょっとだけなら」

「やた! じゃ、上がっといて。私はお鍋、返してくるね!」


 エプロンを翻したさくらを見送って、晴一はため息をついた。菓子作りにはあまり良い思い出がない。そうでなくても、女の子の中に男が一人というのは気が重かった。

るり子がくすくす笑った。それが今の晴一には、妙に癇に障った。


「何が面白い」

「あら、ごめんなさい。貴方たち、本当に仲が良いのね」

「だから、そんなんじゃねえって」

「そう? 少なくとも貴方は――」


 不意にるり子が晴一の耳元に口を寄せた。さらりとした髪が、花めいて香る。冷えた声が鼓膜を突き刺した。


「明星さんのために、戦ってるんじゃないの?」


 さっと血の気が引く感じがした。赤点だと思っていたテストが予想通りに赤点だった時のような諦めと受け入れ――しかしこの場合、補修を受ければ済む問題ではない。


「何言ってんだ?」

「あら、とぼけても無駄よ。証拠があるんだから」

 るり子がスマホを見せびらかす。

「明星さんにも見せてあげようかしら……」

「それはやめろ」


 晴一はるり子のスマホを引ったくった。

「じゃあ、やっぱりあれは貴方だったのね」


るり子が目を細める。晴一は自分の失策に気づいた。るり子はやはり、確信を持っていたわけではなかったのだ。

 もはやこれまで。赤点を確信したテストを提出する時のような太々しさが腹の底に宿る。晴一は据わった目の中心で、るり子を捉えた。


「……だったら、どうする」

「別に、どうも。確認したかっただけよ。誰にも言わないから、心配しないで」


 るり子は晴一の背中を軽く叩いた。


「そんな顔してると、また明星さんに心配されるわよ」


 実に魅力的な微笑みを浮かべると、転校生はローファーを脱いで、家に上がった。彼女がななみやみちるに歓迎される声を聞きながら、晴一ものそりと靴を脱ぐ。

 さて、どうする……。


 失敗に思考を硬直させながらリビングに入る。ぶち抜きになったダイニングでは、もうお菓子作りの準備が始まっていた。


「あっ、大空くんだ」

 真っ先にみちるが顔を上げる。晴一は小さく会釈した。

「……どうも」

「さくらちゃんから聞いてるよ〜、お菓子作りの天才なんだって?」

「まーな。俺のせいで、店が一個潰れた」

「おっ、マジィ? そりゃ頼もしいや! 今日はね〜……」

「ティラミスだろ。作ったことある」


 ななみが目を丸くした。

「材料を見ただけで? 驚いたわね。本当に経験があるの?」

「そんなに意外かよ」

「有り体に言えば、そうね。大空君にそんな印象、ないもの」


 本当に有り体で、晴一は少し笑ってしまった。


「だから言ったでしょー? 晴一くんは“お菓子の晴一くん”なんだって」

 したり顔のさくらがリビングに入ってきた。片手にパステルカラーのエプロンとバンダナを抱えている。

「ほら、晴一くんはこれ使って。前髪はちゃんと全部しまうんだよ」

「わかってるよ、うるせえな……」


 面白そうにこちらを見ているるり子に気づいて、晴一は顔をしかめた。

 バンダナで髪をひっつめて、なんらかのキャラクターがデザインされたさくらのエプロンをつける。最後に、まだこちらを見ているるり子を見返して、晴一はエプロンの紐を背中で括った。


 こいつが何を考えているかは知らないが――少なくとも今日一日、口を滑らさないか監視しておく必要がある。何か思惑があるのなら、それはその後、改めて話を聞けば良い。

 晴一はいつになく攻撃的な気分でハンドミキサーを掴んだ。


 もしその思惑が、晴一や、さくらたちの害になるものであれば――。


 晴一はトリガーを引いた。ハンドミキサーが高速回転して、空気をかき混ぜ始めた。


    ◆


「――さて!」

 さくらが手を打った。

「今日はティラミスとマカロンの二本立てです。張り切っていきましょー!」

「おー! ……ほら、みんなも!」

「お、おー!」

 みちるに促されて、ななみが手を突き上げる。るり子も不思議そうに倣った。

「おー……?」

「おう」

 最後に晴一の声が短く応える。さくらが腕をまくった。

「じゃ、どこから始める?」


「少し考えてきたわ」

 ななみがエプロンのポケットからメモ帳を出した。晴一がちらりと見た限り、ななみプランではティラミスから手を付けることになっているらしかった。


 妥当なところだろう、と思う。ティラミスはレシピ通りに作れば失敗するようなお菓子ではないが、食べられるまでには時間がかかる。仕上げに5時間ほど冷やす必要があるためだ。その間に、マカロンを作る。

 女の子たちが動き始めた。晴一は一歩引いた位置で、邪魔にならない位置で手を動かした。さくら以外の3人とは、特別親しくしているわけではない。晴一が飛び入りしたことで、妙な気を使わせたくはなかった。


「ななみちゃん、お砂糖計れた?」

 さくらが尋ねる。

「もう少し待って。小数点以下が合わないの」


 ななみは皿のような目で秤を睨みつけている。るり子が首を傾げて、みちるを見た。


「彼女、いつもあんな風なの?」

「あっはは……そうだね。ななみちゃんはキッチリしてるから」

「ふーん、意外ね。もう少し融通が効く子だと思っていたのだけど」

「そう? いつもあんな感じだよ」


 みちるはハンドミキサーのスイッチを入れると、メレンゲを泡立てた。ななみが計り終えた分のグラニュー糖を少しずつメレンゲのボウルに投入し、手早くヘラで混ぜ合わせる。覗き込んだるり子が、また首を傾げた。


「手際がいいのね」

「えっへっへえ、ありがと。まっ、家の手伝いでしょっちゅうやってるからね〜。このくらいはできないと!」


 みちるが得意げに胸を張った。その勢いで気を使ってくれたのか、彼女は晴一に水を向ける。


「大空くん、調子はどう? 生クリーム、できた?」

「まだだ」


 晴一は低い声で答えた。ハンドミキサーは一台しかない。ティラミスを作るには、チーズも生クリームも泡立てる必要がある。

 早々にミキサーを取り上げられた晴一は、泡立て器一本で生クリームの泡立てを任されたのである。ボウルに注いだ生クリームは以前液状のまま、クリームらしくなる気配はない。


「おー、まだかかりそうだね〜」

「もうちょっと待っててくれ」

「おっけー、ゆっくりでいいからね」


 次いで、みちるはななみの様子を見に踵を返した。晴一はダイニングの隅に腰掛けて、ひたすら手を動かす。泡立て器とボウルが擦れて、カシャカシャ音を立てていた。

 あの頃もこうして、一人で生クリームを泡立てていた。母やパティシエの男と付き合っていた、四年前のことだ。


 何度か顔を合わせたボーイフレンドと母は、既に破局しかかっていた。四年生の晴一は、“子はかすがい”なる言葉を覚えたばかりで、どうにか母を救おうと躍起になっていた。

 どういう経緯でそこに至ったのか、今となっては覚えていない。ただ、その時の晴一は、自分が母のボーイフレンドを喜ばせられるお菓子を作れれば、何もかも上手くいくように思ったのだ。二人は仲良くなって、母は早く帰ってくるようになる……。


 晴一は手を止めた。それは全く脈絡に欠けた子供の考えだった。

 案の定、結果は散々だった。晴一が母に食べさせてもいいと思えるものが作れたその日、母はいつもよりずっと早く帰ってきた。母はいつもよりずっと荒れていて、晴一の作った菓子が母の、そしてもちろんボーイフレンドの口に入ることはなかった。


 そうだ。あの日晴一が作ったのも――。


「うわっ!」


 その時さくらが“何かやらかした時の声”を上げた。はっとして顔を上げると、空中に銀色のボウルが浮かんでいるのが見えた。大口を開けたさくらが、ゆっくり床に倒れていく。何かの拍子に足をもつれさせたらしい。


 いや、そんなことはどうでもいい。キャッチだ!


 泡立て器を左手のボウルにぶちこんで、右手を動かす。時間にしてコンマゼロ秒以下、瞬発力はまだ衰えちゃいない。これなら、さくらのボウルに十分追いつける。

 晴一は腕を伸ばした。怪我のことは、すっかり忘れていた。


「うっ」


 ビキリ。肘関節が音を立てて、呻き声が喉から漏れた。くそったれの右肘。さくらのボウルは、晴一の守備範囲をすり抜けて――。


「おっと!」


 分厚い手が横あいから伸びて、ボウルの底を受け止めた。屈んだ巨躯が立ち上がり、ボウルがリフトめいて持ち上げられる。

 低い声がゆったりと言った。


「ぎりぎりセーフ、かな。かなり危なかったがね」

「お父さん!」

 さくらが目を丸くする。

「えーと……今日はお仕事じゃなかったっけ?」

「ああ、お客さんが渋滞につかまっちゃってな。いつ着くかわからないからって、リスケになったんだ」


 さくらの父――明星ノボルが、ボウルをテーブルに戻す。

「皆さんは、さくらのお友達? 今日はお菓子パーティかな」

「お邪魔しています」

 ななみがさっと会釈する。「まーす!」と続いたのはみちるで、ワンテンポ遅れて頭を下げたのはるり子だった。


「ああ、大空くんも一緒か」

 ノボルは今気づいたみたいにそう言った。晴一はよそよそしく挨拶を返す。こういう時には、そうすることになっていた。

「……どうも」

「両手に花だな。まあ、今日はゆっくりして行ってくれ」


 晴一の肩に、分厚い手が圧をかける。さくらが割って入った。


「もう、お父さんやめてよ! 早く部屋に行ってってば」

「ちょっとくらいいいだろう? 私もお友達と話してみたいんだが……」

「いーいーかーら! ほら、行った行った!」

 ノボルは少し、拗ねたような表情を作って見せた。

「仕方ないな。おじさんは退散するとしよう。ま、皆さんゆっくりしていってくれ。さくらと仲良くしてくれて、ありがとうな」


 しっしっ、と娘が父を追い払う。ノボルの足音が階段を登っていくのを聞いて、ようやくさくらはため息をついた。


「ごめんね、皆」

「だいじょぶだいじょぶ! あんなもんだよ!」

「そうね。素敵なお父さんだったわ」

 みちるとななみがそれぞれにフォローを入れる。

晴一は黙って右手を見下ろした。


「痛むの?」

 るり子が覗き込んでくる。晴一はかぶりを振った。

「もう平気だ」

「そう。良かったわ」


 転校生は口角をキュッと吊り上げて見せた。


第九話


 小一時間が経った。紆余曲折ありつつも、ティラミスはどうにか形になりつつあった。あとは冷蔵庫に入れて冷えるのを待つだけだ。


「次はマカロン……だったかしら。卵白と砂糖で作る西洋の焼き菓子。間違いない?」

 るり子の質問に、ななみがメモ帳を確認した。

「ええ。るり子さん、詳しいのね」

「普通よ、このくらい」


「いや〜、すごいよ!」

 ハンドミキサー片手に、みちるが声を張った。

「何しろななみちゃんより詳しいんだもん。ななみちゃんって言ったら、歩く百科事典みたいな子なんだから、そのななみちゃんより詳しいってなると、もう……ねえ?」

「その呼び方はやめてちょうだい」

「え〜? 褒めてるのになあ。ねえ、さくらちゃん?」


「いや、あはは……」

 さくらが苦笑する。

 晴一の見たところ、野和るり子とルミエールたちは、この1時間弱で随分打ち解けたようだった。さくらもそういう傾向があるが、特にみちるには、他人と壁を作るようなところが全くない。


(天才だな)


 晴一はあまり巻き込まれないようにしながら、オーブンの予熱を始めた。みちるのコミュ力がどんなに高くとも、ガールズトークに加わるのは、かなりハードルが高い行為だ。こういう時は、作業に徹して――。


 不意に、尻ポケットのスマホが震えた。小刻みな振動を三回ずつ繰り返すこのパターンは、ゲートが開いた時に起こる微かな次元震の発生通知と連動している。

 カガイヘイムの連中がやって来たのだ。


 晴一はエプロンを外した。

「ごめん、ちょっと出てくる。用事を思い出した」

「え? マカロンは?」

「すぐ戻るから。先やっといてくれ!」


 明星家を飛び出して、自分の部屋に駆け戻る。家で一番大きなリュックいっぱいにショウジの“宿題”を詰め込んで表に出ると、ノボルが車を回して来たところだった。7人乗りのミニバン。3人暮らしの明星家で、このキャパシティが役立つことがどれだけあるのだろうか?


「……晴一くん、駅に行くのかい? 良ければ送るよ」

 ノボルが自宅を見ながら言った。

「すいません!」

 頭を下げて、後部座席に飛び乗る。車を使えば、駅までは数分とかからない。さくらたちはもちろん明星家にいる。

 確実に、現着は晴一たちの方が早い。問題はショウジが管理している武器だが……。


 ノボルが尋ねる。

「その荷物は?」

 

 晴一は短く答えた。

「秘密兵器です」


    ◆


 ノボルの車が到着した時、駅前広場は既に壊滅状態だった。ロータリーの中心には巨大な一反木綿じみた怪物が陣取って、ひらひらと暴れている。

 ユウコはその体に激烈な拳を見舞った。


<ガァイスルー!>

「ち……!」


 だが暖簾に腕押しとはこのことか。巨大な一枚布の姿をとるガイスルーにはほとんどダメージが通らない。クロオが哄笑した。


「カッハハハハハ! 効かん、効かん。何発打っても同じことだぞ。とっとと諦めて尻尾を巻いてはどうだ? そのままでは死んでしまうぞォ〜?」

「ヤロォ……」


 ユウコは膝をついて呼吸を整えて、崩れ去りそうな戦闘装束を支えた。

彼女が変身してから既に数分。そのうち全開戦闘を行なったのはわずか数十秒だ。たったそれだけで、ユウコの変身は解けかけている。考えてみれば、バックアップが全くない状況でガイスルーと相対するのはいつ以来だろうか。

 ……衰えている。


「哀れなことだな、ルミエクレル」

 クロオが彼女を見下ろした。

「やはり貴様らはただの小娘だ。聖霊のバックアップが無くば、我々の敵ではない」

「そう思うか」

「ああ。違うと言うなら、今すぐ立ち上がって見せるがいい」

「ああ、見せてやる。……ちょっと待ってろ」


 ユウコは息を吸った。口惜しいが、クロオの言うことは正しい。今の彼女には、かつてのような聖霊によるバックアップはない。


 こことは異なる地平から現れた“暗黒帝国”。たった一人で世界を守り抜いたルミエクレルはしかし、年度始めに現れたカガイヘイムになす術なく倒れた。ルミエクレルについていた聖霊は彼女の命を守るため、力を使い果たして消滅した。

 ユウコに残されたのは記憶だ。最初のルミエールとして戦い抜いた一年間の記憶。そこには、戦いの術が残されている。


 彼女の聖霊はもういない。だが、聖霊によって引き出された力は失われなかった。ルミエクレルの記憶の中には、力の扱い方も残されている。


 ユウコは息を吸う。彼女の力は、かつてとは比べ物にならない程に減衰している。

きらめきエネルギーは手持ちが全てだ。変身の維持も、ガイスルーを仕留める必殺技も、全て自力で賄わなければならない。

 活動時間は大きく制限される。一人で戦うのはかなりの無茶だ。


 そんなことはわかっている。


「……やれ、ガイスルー」


 無論、クロオはユウコの言葉に従ったりはしなかった。ガイスルーが拳を振り被る。


<ガァイスルー!>


 ユウコは敵の姿を睨みつけた。聖霊のバックアップがない今、彼女の精神力は肉体の限界を凌駕することはありえない。回避は間に合いそうになかった。残りの全エネルギーで、一か八か、防御を――。


 ユウコが腹を括りかけた時、それは唐突にやって来た。地面にぶつかってぼてぼてと転がった銀色の円筒。同じものが複数、ガイスルーめがけて投げ込まれるのが見えた。


<ガッ……>


 立て続けの銃声が響いて、空中の円筒に火花が散る。ボン、と白い煙が弾けて、ガイスルーの周囲を覆った。


「なんだ! 誰だ!」


 空中のクロオが狼狽する。ユウコの足元の円筒も、手持ち花火じみた燃焼を開始した。周囲がたちまち、焦げ臭い煙に包まれる!


「ユウコさん、こっちへ!」

 聴き慣れた少年の声に従い、ユウコは物陰に撤退した。思った通り、ノボルと晴一が集まって来ている。


「待ちくたびれたよ。死ぬかと思った」

「そうならなくて何よりです。ショウジさんは?」

 ユウコはかぶりを振った。

「まだだ。アタシはたまたま、近くに来てたんだよ」


 ノボルが顔をしかめた。

「ここは私の家からも近い。早めにカタをつけないと、娘たちがやってくるぞ」

「そりゃ、アタシも気持ちはわかるぜ。手持ちの火力は?」


 ノボルは黙って、ベルトの拳銃を抜いて見せた。話にならない。


「ショウジが来るまで待つか」

「いや」

 晴一は背負ったリュックを下ろした。中にはまだ、銀色の円筒が大量に入っている。

「発煙筒はまだ残ってます。視覚の阻害は効果的でした。ひょっとするとロケット弾よりも効果的かもしれない。……攻撃はこれまで以上に、ユウコさん頼りになりますが」


 晴一は案ずるような視線をユウコに投げかける。それを跳ね返すようにして、ユウコは膝を叩いた。

「よしわかった。やってみるよ」


 以前の戦いで、彼女は全くスーパーガイスルーに歯が立たなかった。発煙筒があったところでそれは変わらないだろう。

しかし、ここで諦めるわけにはいかなかった。


 ユウコは膝を掴んで、立ち上がった。そうするだけの力が戻ってきていた。

「本当に大丈夫ですか?」

「勝算があるんだろ? 任しとけって」


 案ずる晴一の背中を叩く。


 聖霊のバックアップは永遠に失われた。かつてのような爆発的な回復力は、今のユウコにはない。だが、今の仲間も満更捨てたものではないらしい。


    ◆


 晴一は発煙筒を次々に点火してノボルに手渡した。パスを受けたノボルは、銀色の円筒をガイスルーに投げつける。幸いなことに今日はほとんど風が吹いていない。重い煙はほとんどそのまま滞空し、駅前広場は白く沈んだ。

 ミルクに溶けたような視界の向こうで、ガイスルーがひらひらと蠢いているのがわかった。おそらくは、いつもここで署名を呼びかけていた高校生たちが持っていた横断幕が素材にされたのだろう。


「フォルスクロス……」

 ユウコの声が聞こえる。

「スクリュー!」


 横断幕ガイスルーにユウコの拳が激突したらしい。たじろぐように震える煙のベール。鼓膜をつんざくような破裂音と突き抜ける光の奔流が、煙幕を吹き飛ばした。


<ガァイスルー!>


 晴れた視界の中心で横断幕ガイスルーがのたうつ。

着地したユウコが地面を殴りつけた。

「くそッ! ダメだ!」


 ガイスルーは未だ健在。やはりユウコの技は、強化ガイスルーに通用していなかった。


「当然だ」

 クロオが勝ち誇った。

「スーパーガイスルーはこれまでのガイスルーとは違う。所詮型落ちの魔法戦士が普通の人間と組んだところで、その差を覆すことはできん。やれ! スーパーガイスルー!」


<ガァ〜イガイガイ!>

 横断幕ガイスルーが高笑いした! ガイスルーは体をくねらすと、不可思議な起動を描く連続パンチを繰り出す!

<ガイガイガイガーイ!>


「くっ……!」

 ユウコはかろうじて回避。ノボルが晴一を振り向いた。

「大空くん、発煙筒の追加だ」

「はい! ユウコさん、退いてください!」


 晴一はノボルと共に、再び発煙筒をばら撒いた。駅前広場が再び煙幕に閉ざされる。

 白い煙の中で、クロオは短く命じた。

「吹き飛ばせ、スーパーガイスルー!」

<ガァイスルー!>


 横断幕ガイスルーが体を大きく振り回した。巨大な横断幕が台風めいた風を巻き起こし、晴一たちの展開した白煙は瞬く間に吹き散らされる! 


「馬鹿の一つ覚えめ。そう何度も同じ手が通じると思ったか!」


 空中のクロオは、荒れ果てた地面を見下ろした。彼と、彼の召喚したガイスルーが破壊の限りを尽くした駅前広場。ルミエクレルや、彼女の仲間たちの姿は既にない。

 代わりにそこには、クロオも見知った三人の少女たちが立っていた。


「ガイスルー……」

 海野ななみが声を震わせると、

「ひどいよ! 皆の駅前広場をめちゃくちゃにするなんて!」

 望月みちるが指を突きつける。

 明星さくらが険しい表情でルミエールフォンを構えた。

「皆、行こう!」


 ルミエール フォンから呼び出された変身アプリが超自然の領域を広げ、時間と空間が歪む。壊れかけた街を照らす閃光の中で行われる変身シークエンス――そして、それぞれのコスチュームに身を包んだ少女たちが飛び出した! 桃青黄色! これが彼女たちの戦う姿なのだ!


<ガァイスルー!>


 ガイスルーが拳を放つ。ルミエールたちはアイコンタクトを取り、三つの方向に散った!

「ガイスルー!」

 素早くクロオが指示を飛ばす。横断幕ガイスルーは煙幕を吹き飛ばした時と同じ回転を攻撃に転用し、桃色のルミエール:ルミステレをはたき落とす!


「ステレ!」

 黄色いルミエール:ルミナチュレを、青色のルミイリゼが抑えた。

「彼女は大丈夫。集中して!」

「……うん!」

 ナチュレとイリゼが回転攻撃を回避する。瓦礫の上で、ステレがみじろぎした。


 晴一たちは死角の路地裏に身を隠したまま、彼女たちの戦いを見ていた。

「クソッ」

 ノボルが壁を殴りつける。

「静かに。見つかるぞ」

「構うものか! ショウジさんは何故まだ来ない? 武器さえあれば、さくらをあんな……あんな目には……!」

「落ち着けってば。どの道、今からじゃ合流は間に合わない。静かにしてろ」


「いや」

 晴一は二人の押し殺した口論に口を挟んだ。

「撹乱を続けましょう。ユウコさんの肩なら、建物を挟んだところからでも駅前広場を狙えるはずです。それなら、姿は晒さずに済む」

「いい案だ。発煙筒の余りは?」

「6本だけです」


「まるで足りんだろう」

 ノボルが苛々と吐き捨てた。

「広場全体に煙幕を張るのに、20本以上使っているんだぞ。今更6本で何ができる」

「できますよ。さっきとは状況が違います」


 クロオがフリーなら、ガイスルーの視界だけを封じたところであまり意味はない。クロオが適当な位置から指示を出せば、ガイスルーはそれに従って攻撃すればいいのだ。晴一とノボルは当然生身。ルミエールやユウコが平気で耐えるガイスルーの攻撃も、かすっただけで致命傷になり得る。

 それ故、駅前広場全体を煙幕で覆い、クロオの状況把握を妨害する必要があった。


「今度はガイスルーの視界をちょっと塞げればいいんです。適当な隙を作ってやれば、あとはルミエールが自分でなんとかする」

「……だが、それでは」

 ノボルが言い淀む。晴一はさくらの父を見上げた。

「気持ちはわかるつもりです。でも、おれたちは今できるベストを尽くしましょう」


「少年の言う通りだ」

 ユウコが発煙筒を掴んだ。

「少なくとも、ここで喧嘩してるより意味がある。やってみよう」


 ……ほどなくして、駅前広場には再び発煙筒が投げ込まれた。死角から放物線を描いて飛んだ発煙筒は横断幕ガイスルーの周囲を取り囲むように落下する。

 6本の発煙筒が同時に燃焼を開始し、煙幕が再びガイスルーの視界を奪った。


「今だ、ルミエール!」


 身を隠したユウコの声だけが広場に響き渡る。散り散りになっていたルミエールたちが呼吸を整えて、再び一箇所に合流した。


<今や、みんな!>

「うん! ……誰だか知らないけど、ありがとう!」


 ルミステレがさくららしい台詞を吐いた。少女たちが手をかざすと、フリルのあしらわれた鏡台型の小箱が出現する。ルミエールドレッサーだ!


「何をしているガイスルー! 技の発動を――」


 クロオが慌てたが、時すでに遅し。ルミエールたちの戦闘服がロングドレスめいた衣装に変わった! 


「ルミエール ・サザンクロス・エリミネイション!」


 ルミエールドレッサーが一際強い光を放つ。十文字に輝くエネルギーの奔流が、スーパーガイスルーを飲み込んだ。


「ヤスラーグ……」

 光の中心で横断幕が微笑む。


「くそ、またしても!」

かろうじて回避したクロオが歯噛みして、消える。

 破壊し尽くされた駅前広場が復元し、ガイスルーに心のエネルギーを奪われていた高校生たちが目を覚ます。

「あ……」「あれ?」


 ルミエールたちの姿は既にない。きょとんとした様子で辺りを見回す高校生たちが、ルミエールに救われたことを自覚することはない。

 だが、まあ……それも彼女たちが守ったものであることには変わりない。晴一は空になったリュックを肩にかけた。

 肩を回しながら近づいてくるユウコの姿が、ロータリーの反対側に見えた。


「おー、おつかれ」

 ユウコがひらひら手を振った。既に変身は解いている。

「お疲れ様です。ナイスピッチングでした」

「おう、ありがとさん」

 晴一はユウコが突き出した拳に、自分の拳をぶつけた。


 ユウコがノボルにも拳を突き出す。

「おっさんも、お疲れ」

「え? ああ……」


 ノボルはのっそりと手を伸ばして、ユウコと拳をぶつける。その背中はなんだか、さっきよりもひと回り縮んで見えた。


「じゃ、アタシはこれで。連れを待たせてるんでな」

「こないだ言ってたパンケーキですか?」

「そうそう。今度、少年も行こうぜ。またな」


 晴一は手を振り返して、ユウコを見送った。その背中が見えなくなるまで待ってから、ノボルを振り向く。


「それじゃ、おれたちも――」

 帰りますか、と言いかけた時、こちらを見つめるさくらの視線に気づいた。ななみとみちる、るり子の姿まである。

 顔から血の気が引くのが分かった。一体いつから、さくらは晴一たちに気づいていたのか? タイミング次第では、非常にまずいことになる。

 晴一は登ると顔を見合わせた。


「晴一くん」

 さくらが低い声を出す。晴一の背中を、冷たい汗が流れ落ちた。

「今の誰?」

「空手の師匠だ。……最近は毎朝、稽古を付けてもらってる。ほら、野球をやめて暇になったろ? 運動したくなったんだよ」


「ふーん……」

 さくらの視線は刺すようだった。だが、それ以上追求してくる気はないらしい。野球の件を引き合いに出したのが効いたのだろうか。

 どちらにせよ、この話題を続けるのは上手くない。晴一は話題を逸らした。


「そっちこそ、なんでここにいる?」

「買い出しよ」

 るり子が片手のレジ袋を持ち上げた。

「明星さんがティラミスに苺を乗せたいって言ったの。誰かさんが好きだからって。……好きなの? 苺」

「いいだろ、何が好きでも」


「まあまあ……その辺にして、みんな車に乗りなさい。帰ってお菓子作りの続きをするんだろう? ほら、大空くんも」

 やんわりと割り込んできたノボルに促されて、晴一はミニバンに乗り込みかけた。先に座っていたるり子が、微笑しながら尋ねた。

「もう、用事は済んだの?」

「ああ」

 晴一は半ば投げ槍に答えた。

「きれいさっぱりな」


    ◆


 マカロン作りには、かなりの時間がかかった。もともと、手間のかかるお菓子だ。女の子たちが集まって和気藹々とやるなら、日が暮れたっておかしくはなかった。マカロンが完成して後片付けが終わる頃、ちょうどティラミスを冷やすのが終わった。


「わあ〜!」

 ティラミスの入った器を見下ろして、さくらが声を上げた。

「ちゃんとティラミスができてる!」

「当然よ」

 るり子が冷めた声を出した。

「レシピ通りに作れば、レシピ通りのものができるのでしょう? 私たちは誰も、手順を間違えなかったわ」


「じゃあ、ちょっと試してみようよ。レシピ通りの味になってるかどうか!」

 さくらがスプーンを取り出す。るり子は呆れた。

「また、ななみに怒られるわよ」

「ちょっとだけちょっとだけ。ほら!」


 さくらがスプーンを差し出す。そこに掬われたティラミスの一欠片を、るり子は躊躇いがちに口にした。柔らかな甘みと、微かな苦み。さくらが彼女を覗き込んだ。

「どう?」

 るり子は一瞬考えた。その末に、正直な感想を出力することにする。


「美味しいわ」

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