第14話 かぼすとすだち、どっちがどっち!? 商店街は大忙し!
その1
練馬駐屯地。ここから遠く離れた都心に駐屯する陸上自衛隊第一師団は、市街戦を想定して訓練していると聞く。はるか昔に出て行った晴一の父は、そこに所属していたらしい。
父は気のいい男だった。晴一といる時はいつも機嫌が良くて、夏には水鉄砲を使って、銃の撃ち方を講義してくれたのを覚えている。
ただ、ほとんど家にはいない男だった。遊び歩く性質だったのだと、母が溢していたのを聞いた。出かけていった父が帰って来なくなってから、もう何年にもなる。
父が何を考えていたのか――晴一は一度も、誰にも確かめたことがない。晴一の中には、一緒に遊んでくれた父の印象が、ずっと更新されないまま残されている。
ひょっとすると自分は、その背中を追いかけ続けているだけなのかも知れなかった。
ジリリリリリリッ――リン。
目覚まし時計を止めて、ベッドから起き上がると、晴一は大きく伸びをした。
「あ――ふ」
大きなあくびをひとつ、タオルケットをどかして部屋を出る。夢の中でたどり着いたと思った何かの核心は、その時にはすっかり、どこかに行ってしまっていた。
家には誰もいなかった。腹をかきながら冷蔵庫を開けると、昨晩準備したサラダの皿が衣一枚だけになって、食パンのストックが一枚減っている。昨晩も一応、母は帰ってきていたらしい。
トーストとサラダをかきこんで、母の分まで皿を洗う。それから制服に着替えると、晴一は時間通りに家を出た。
「おはよ!」
門の向こうで、さくらが手を振った。いつもと変わらない、朝の光景だ。ただ一点、今日はその隣に背の高い男が立っている。
「おはよう」
「お……おはようございます」
「ぷっ」
さくらが吹き出した。
「急にどしたの? お父さんだよ!」
「いや、なんでもない」
晴一ははぐらかして、道路に降りた。
「ほんとー?」
「ほんとだよ。ノボルさんと、なにがあるってんだ」
そう言いながら、晴一はノボルを一瞥した。もちろん、昨夜のことを口外するつもりはない。しかしいざ、こうして顔を合わせると、妙な居心地の悪さが押し寄せてくる。
「なに」
明星ノボルが落ち着いた声で言った。
「顔を合わせるのは久しぶりだからね。驚かせてしまったんだろう」
分厚い手のひらが、晴一の肩を押さえた。圧力が加わる。ノボルの低い声が、晴一の耳元でささやいた。
「放課後、駅前のカフェに来てくれ」
晴一は怪訝な顔をノボルに向けた。ノボルは既にさくらの父に戻って、腕時計を確認している。
「さて、私はそろそろ行かなければ。君たちも遅刻するなよ」
「わかってるって。お父さんこそ、遅刻するよ!」
「ああ。ではな」
ノボルは片手を挙げて、晴一たちとは反対方向に歩き去った。駅に向かったのだろう。
「お父さん、なにかあったのかな」
さくらがその背に、怪訝な視線を向けた。
「晴一くんが見ても、変だったよね?」
「そうかな」
「そうだよ! 最近、ずっと変なんだ。今日なんか、わざわざ晴一くんちの前で待ってたんだもん。これまでそんなこと、なかったでしょ?」
「お前もそうだろ」
「私は方向一緒だもん」
「じゃあ、娘に悪い虫がついたと思ったんじゃねえの」
「それって晴一くんのこと?」
「そうなるな」
「まさか! 晴一くんとはずっとお隣さんだもん、過保護すぎるよ」
そりゃあ過保護にもなるだろうと思う。自分の娘があんな連中と戦っていることを知っていたら、大抵の親は心配するはずだ。
「そういや」
晴一はなんでもない風を装って、話を変えた。
「親父さんは知ってんのか? その……例のこと」
「んー。バレてはないと思うんだけど」
とすると、ノボルは娘に、自分が娘の活動を知っていることを隠していることになる。もちろん、昨夜のようにガイスルーと戦っていることも秘密にしているはずだ。そのノボルがさくらの前で挙動不審になるのも無理はなかった。
晴一はノボルの秘密を知ってしまっている。晴一が適切なところに駆け込めば、ノボルは一発で破滅するだろう。
ノボルは自分をどうするつもりなのだろうか。中学生を口封じするために、成人男性が取り得る選択……それで晴一がいい気持ちになる確率は、限りなく低い気がする!
「どしたの、晴一くん」
さくらが怪訝な表情で覗き込んできた。
「朝ごはん食べられなかった?」
「いや。小テストの勉強、してないんだ」
「あっ、やば。私も全然してないや」
顔を青くしたさくらを見て、晴一は少しだけ笑った。しかし、一度重くなった足取りは、そうそう軽くなってくれそうにはなかった。
◆
「皆さんと同世代の女の子たちが戦わされている現実があります。皆さんにも、それを止めるためにできることをして欲しい」
朝のホームルームが始まるなり、乱入してきた校長は拳を握った。
「今から、署名の用紙を回します。先生に賛同してくれる人は、名前を書いて後ろに回してください。これは強制ではありません。ですが、書いた人、書かなかった人はこちらで把握できます。どうするかは慎重に考えて決めてください」
(強制だろ、それは)
晴一はルミエールファンの友人を一瞥した。思った通り、礼二は険しい表情で教壇を見上げている。
回ってきた署名の台紙には、ここまで回覧したクラスメイト全員の名前が書いてあった。晴一が書くべき署名欄のすぐ前には、さくらの名前も書かれている。晴一も彼女に倣って賢明な判断を下すと、自分の名前で空欄をひとつ埋めた。
署名の台紙は、ゆっくりとクラスをまわった。礼二に渡った時、晴一には台紙がほんの少しだけ速度を増したように見えた。
それが気のせいでなかったのがわかったのは、放課後のことだった。
「帰ろうぜ、晴一」
終鈴が鳴った後、礼二はさくらをチラチラ見ながら、晴一の席までやってきた。帰り自宅を済ませたさくらは、違うクラスの友人と何やら話しているところだった。
「今日はホラ、何にもなさそうだし」
「吹奏楽部の練習はどうした」
「まあ、ちょっとあってな。今日はサボ――」
礼二が言いかけた時、スピーカーから微かなノイズが漏れた。ぴんぽんぱんぽん、のアナウンス音の後、担任の声が流れ出す。
『新谷礼二くん、新谷礼二くん。残っていたら教員室まで来てください。新谷礼二くん、残っていたら教員室まで来てください』
「……」
晴一は礼二と顔を見合わせた。呼び出しの理由は、すぐに見当がついた。
「お前、署名しなかったな?」
「当たり前だろ。薄情なんだよ、お前は! 直に助けられといて、なあ?」
「デカい声を出すな」
「俺たちだけは味方でいねえと。ったく、校長もしょうがねえ大人だ」
やれやれ、とでも言いたげに礼二が鞄を下ろす。
晴一には理解できなかった。
「馬鹿正直に出頭するつもりか? もうバックれちゃえよ」
「今日切り抜けたトコで、明日も呼び出されるのがオチだろ。テキトーに誤魔化してくるから、一人で帰ってくれ」
「そりゃ、言われなくてもそうするけどな」
晴一の方も、この後はノボルの呼び出しを受けている。誘われたところでハナから礼二と帰るつもりはなかった。
とはいえ――。
署名の効果はともかく、校長の熱量はかなりのものだ。生徒が一人文句を言ったところで、かえって躍起になるだけだろう。そのくらいのことは、礼二も気づいているはずだった。
「長引きそうなら、適当に折れろよ。下手すりゃ夜まで残ることになるぜ」
友人の背中に忠告を投げる。
礼二は黙って、親指を空に突き出して見せた。
◆
駅前のカフェ。ノボルはそれだけしか言わなかったが、晴一には十分アタリをつけることができた。駅前にはいくつかテナントが軒を連ねているが、カフェと言えそうな店は一つしかない。少し場違いなほどに洒落た雰囲気のオープンカフェ。どこぞで修行してきたという店主がマスターをやっている。
「やあ」
明星ノボルは、すぐに見つかった。この暑いのに外の席に座って、ホットコーヒーを飲んでいるらしい。
男は向かいの席を指差すと、晴一にかけるよう促した。
「まあ、まずは座って。好きなものを頼みたまえ、私が奢ってあげよう」
「あの、それより――」
「この店は初めてかな? ロールケーキが美味いんだ。コーヒーによく合う。どうかな」
「……いただきます」
晴一は観念して、椅子に腰を下ろした。
ノボルが店員を呼び止めて、ロールケーキセットを注文した。
「この店には、よく?」
「いや。娘が話しているのを聞いてね。一度来てみたいと思っていたんだ」
「……なるほど」
店員がコーヒーを運んでくる。ノボルは口の端を歪めるようにして、笑った。
「何の話をされるのか、という顔だね」
「まあ、そうですね。一応、昨日の口止めかと踏んでるんですが」
「流石に察しがいいな。私はこれでも、ガイスルーと戦っていてね。民兵というかゲリラというか、そうしたことをやっている。無論、非公式なものだ。他所にはもらさないでいてくれるとありがたい」
この炎天下に外に座ろうという客は他には一組もいない。晴一は少し歩道を気にしてから、少し切り込んでみることにした。
「それは、さくら……さんが、ルミステレだからですか?」
「やはり、気付いていたのか」
ノボルはコーヒーに口をつけた。
「ならば話は早い。単刀直入に言おう、晴一くん。私と組まないか?」
「組む?」
「そうだ。正確に言えば、私たちということになるがね」
ノボルが声を潜める。
「ルミエールのことは知っているだろう? カガイヘイムや、彼らの操るガイスルーとの戦いを、ああした若い娘に任せておくのは間違っている。そう思ったことはないか?」
「……負担が大きいとは、思いますが」
「私はずっと思っている。娘たちを前線に立たせる今のやり方は間違っている」
ノボルの肩越しに見える駅前広場で、白い横断幕が翻る。署名を求める高校生たちの声が聞こえてきた。
「だが、彼らのように大声で文句を垂れたところで、問題の解決にはならないこともわかっている。“輝く星の会”がなくなったところで、ガイスルーがいなくなるわけじゃあない。それに“会”ができたのはごく最近だ。元は娘たちだけで戦っていたことを、忘れてはいけない」
ノボルはぐったりと息をついた。
「会は所詮、支援組織だ。会があろうとなかろうと、彼女たちは誰かのために戦いを続けるだろう。娘を救うためには、もっと根本的な対処が必要だ。……だから、私は戦っている」
「なるほど」
晴一はコーヒーカップを眺めた。運ばれてからしばらく経つが、コーヒーはまだ湯気を上げている。
「なるほど……」
ノボルの話を咀嚼するのには、いささかの時間を要した。
ややあって、晴一は口を開く。
「なんで、僕にそんな話を?」
「一言で言えば、闘志を感じた」
ノボルは即答した。
「昨晩君は、通報でも逃走でもなく、戦うことを選んだ。それがどんなに無謀なものだったとしてもだ。私個人の経験に基づく勘だが、それは充分な素質だと思う。身元も確かだ。仲間に入れることに不安はないし、口止めの心配もしなくて良くなる」
「一石三鳥というわけですか」
「ああ」
ようやく、ロールケーキが運ばれてきた。
「即答してくれとは言わない。とりあえず、考えてみてくれないか。興味があるなら、いつでもここに来てくれればいい」
ノボルはそう言って、紙ナプキンを手渡してきた。ナプキンの真ん中には、うんとアナログに住所が走り書きしてある。
「さて、私はそろそろ失礼させてもらうよ。実はこれでも業務時間中でね。会社には外回りに行くと言って抜けてきたんだ」
男は伝票をつまんで、それしか能がないみたいに笑った。
「……」
残された晴一は、まずロールケーキを一口食べた。それからコーヒーを含んで、ノボルのメモを見た。書かれた住所は、ここからそう離れていないオフィス街の一角である。
ノボルの考えは性急すぎるように思える。“輝く星の会”は、少なくとも合法だ。正しくルミエールの力になりたいと思えば、そちらに参画するのが筋だ。いくら武装したところで、素人がガイスルーと戦うなんて、危険すぎる。
選択の瞬間、人はいつでも自由だ。
メモを握りつぶす。しかるべき機関に相談する。あるいは、駅前の学生たちに加わる。その全てを選ばないことすら、晴一には可能だった。
だが、選べる現実はたった一つしかない。
大空晴一は、腹を括った。
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