その1

 終鈴が鳴って、校舎の中にはどこか緩んだような雰囲気が流れ始めていた。空からはまだ、手加減なしの日差しが降り注いでいて、屋上はギラつくようだった。

 何もかもが熱を吸収して、カリカリに焼けている。寄りかかったフェンスはベーコンを焼けそうだったし、ゴムでできた上履きの底はいつ溶け出してもおかしくなかった。


 ぬるい風が頬を撫でる。見下ろしたグラウンドには、ユニフォームを着た野球部員たちが走り回っていた。夏の大会が近いのだ。


「張り切ってんなー。どうせ一回戦落ちのくせに」

 隣の礼二が言う。同じクラスの少年は、背負ってきた大きな鞄を開いたところだった。

「あいつらの大会があるたびに、吹奏楽部が呼びつけられるんだ。その癖、俺らのコンクールには顔も見せやしねえ。気に入らねえよ」


「だな」

 大空晴一は、いい加減な相槌を返した。夏の大会を前にした礼二のボヤきは、去年と全く代わり映えしない。晴一が屋上にいることだけが、変わっている。


「次の日曜、暇だろ? 文化会館で予選があるんだ。見に来いよ」

取り出した三脚を設置しながら、礼二が言う。

「で、吹奏楽部に入れ。顧問には俺から話を通してやるから」

「興味ねえよ」

「まあそう言うな。楽譜が読めなくても、意外となんとかなるぜ。それに、うちなら結構、いいところまで行ける。内申点もつくぞ」


「だから、興味ねえって」

 晴一はフェンスに寄りかかったまま、グラウンドに背を向けた。開襟シャツの胸ポケットから、キャラメルの小箱を取り出す。

「お、一個くれよ」

「ダメだ」


 キャラメルの蓋を開ける。転がり出してきたのは、タバコが一本と百円ライターが一つ。

 礼二の表情が曇った。


「お前な……」

「うっせ。誰にも言うなよ」


 タバコをくわえて、火を付ける。ライターを握る右手が震えた。

「いつからやってん「ゲエーッホゲホ!」

 煙を肺に入れた途端、全身が拒絶反応を示す。しばし咳込んだ後、晴一は改めて、礼二の問いに答えた。

「今が初めてだ」


「……」

 礼二が目を細める。

「まあ、もうやめとけ。どうしても悪ぶりたいなら、屋上使うのはやめろ。臭え」

「悪い」

 晴一はタバコを落として、踏みつけた。

「試してみたかったんだ。昔、親父が吸ってたから――そんなに効くのかと思ってさ」


 身をかがめて吸い殻を拾う。伸ばした右肘が突っ張って、無言の抵抗を示した。

「それこそ、吹奏楽部に来いよ。トぶぜ」

「興味が湧かねえって言ってるだろ」

 思わず語気が荒くなる。礼二は気勢を削がれて、口籠った。


「そりゃ……お前がそう言うなら、無理は言わないけどさ」

晴一は強引に腕を伸ばして、吸い殻を小箱にしまった。

 礼二が続ける。

「毎日つまんなそうじゃないか、お前」

「そんなの」

 晴一は目を逸らした。

「決まってるだろ」


 リトルリーグで少しは期待されていた外野手:大空晴一のキャリアは、おおかた絶たれたと言ってよかった。

 大した事故ではなかった。輪止めの外れたトラックに、ちょっとぶつけられただけだ。命に別状はない。すぐに示談が成立した。賠償金と保険金は、大空家の家計を少なからず潤してくれた。


 だが、一年経っても、彼の右肘はまっすぐ伸びてくれないのだ。リハビリの効果を感じられたのは半年前までで、そこからはずっと横ばいだ。医者はそれを期待以上の成果だと言い……暗に、これ以上は無駄だと告げた。

 二年生に上がると同時に、晴一は退部届を出した。リハビリしている間は、ずっと休部してしまっていた。それに、野球部には晴一の代わりにレギュラーになった奴がいる……。


「つまらねえよ」

 それからずっと、晴一は“次”を見つけられずにいる。


「だよな。そういう顔してる」

 礼二が三脚のネジを締めて、キュッとした音を立てた。三脚には本格的な望遠鏡がマウントされて、はるか遠くの市街地を睨みつけている。


「まあ、こいつも結構楽しいぜ……っと」

 タッパーみたいなケースを望遠鏡に接続して、礼二は立ち上がった。レンズを覗き込んで、ピントを合わせる――。


 その時、上空で小さな爆発が起こった。パステルカラーの爆煙が市街地に降り注ぐ。すぐに、ゆらぎのドームとでも言うべきものが降りて、街の一角を覆った。

 晴一は振り向く。ゼリーのような空間のゆらぎの向こうで、何か巨大なものが立ち上がるのが見えた。


「きた、ガイスルーだ! うひょ、近い!」

 礼二が立て続けにスマホのシャッターを切った。

「……やっぱデジカメじゃダメだな。お、来たぞ! ルミエールだ!」


 街の一角から、三つの光が飛び上がった。屋上からはそれぞれ桃、青、黄色の点にしか見えない光の正体を、晴一と礼二は知っていた。


「お前もこっちで見ろよ。ゆらぎが突破できるぜ……っと」

「どうした?」

「ルミステレが捕まった」

「ちょっと僕にも見せてくれ」


 晴一は礼二を押しのけて、望遠鏡を覗いた。ゆらぎで現世と区切られた戦場では、パワーショベルから生まれたと思しきガイスルーが暴れており……その手には桃色の衣装に身を包んだ少女が捕まえられていた。

 青色、黄色の少女がガイスルーに蹴りを入れるが、異形がそれを意に介する気配はない。


「やべえ……おい、大人はなにやってんだよ!」

「お前、ほんとに何にも知らねえんだな」

 礼二が呆れた声を出す。

「できることがなーいの。カガイヘイムの連中は、ルミエールの攻撃以外じゃ倒せねえ。ゆらぎでもって顔バレ防ぐのが精一杯で――あっ!」


「ああ?」

 レンズの中のガイスルーが、巨大な腕を振りかぶった。ガイスルーは捕らえた少女を――ぶん投げる! レンズの中からルミステレが消えた!


「こっちにくる!」


 その声が聞こえるより早く、晴一は礼二を突き飛ばしていた。桃色の光がフェンスを突き破り、屋上を滑る。

 着弾したルミステレは一瞬前まで礼二のいた地点を通過して、貯水タンクに激突した。破れたフェンスからタンクまで、屋上は一直線に抉られていた。


「おいっ!」


 礼二の無事を確認するのもそこそこに、晴一は走り出していた。貯水タンクは、隕石につっこまれたみたいにへこんでいる。

 その真ん中に、桃色の少女が倒れていた。あちこちにフリルをあしらったスカートの短いドレスに、二つ結びの長い髪。全てが同じ色に統一されている。戦場には似つかわしくない少女趣味。だが、これがルミステレの戦う姿なのだ。


「さくら!」

 少女が目を開く。破れたタンクから、遅れて水が吹き出した。

「晴一くん」

「大丈夫か、お前」

「えっへへ。ちょっと、やられちゃったかな」

「いいから捕まれ。水浸しだぞ、お前」


 晴一の差し出した手を、少女は意外なほどしっかりと握り返した。彼女が立ち上がるのに、晴一の力が寄与するところは、ほとんどなかった。


「よし!」

 少女が両手で頬を張る。

「ごめんね、お邪魔しちゃって。すーぐやっつけてきちゃうからさ。私が学校壊したことは、皆には内緒にしといて?」

「ああ、そりゃ……」

「新谷くんも。じゃあね!」

「あ、ハイ!」


 礼二が背筋を正した直後、ルミステレは人差し指を顔の前で立ててウインクひとつ、屋上の縁を蹴って凄まじい跳躍を決めた。桃色の軌跡が宙を横切り、再びゆらぎの中に消えるのを、晴一は黙って見送った。


「すっげえ……」

 ややあって、礼二が口を開いた。

「すっげえすっげえ! 俺、ルミステレと話しちゃったよ!」

「そうだな」

「お前、どさくさ紛れに握手してたよな? 頼む、手ェ握らせてくれ!」

「ヤだよ。本人に頼め」


 晴一がそう言った時には、礼二はもう彼の手を握っていた。

「俺は明星さんじゃなくて、ルミステレと握手してえんだよ!」

「やめろって」

「ああ、いい匂いがする……」

「気のせいだろ。離せったら!」


 言うなり、晴一は礼二に蹴りを入れた。ゆらぎの向こうに消えた桃色の軌跡が、霞んだ巨体に激突したのが見えた。


 異世界からカガイヘイムを名乗る連中がやってきたのは、三ヶ月ほど前のことだ。呼応するように現れた魔法少女:ルミエールは以来、少女趣味な戦闘服とゆらぎを身に纏い、誰にも顔を知られずに敵の操る怪物:ガイスルーを片付けてきた。

 晴一がその正体を知ったのは、きっかり半月前。礼二が親からくすねた望遠鏡を持ってきたのと同じ日だった。


 ゆらぎの認識阻害を突破して、晴一はクラスメイトが……それなりに親しい部類のクラスメイトが、ルミステレだと知った。

 確かめずにはいられなかった。その日の放課後、さくらは「内緒だよ」と指を立てた。今日と同じだった。晴一は了承した。晴一が釘を刺した礼二も、もちろん了承した。


「署名にご協力、お願いしまーす」

 礼二と別れた下校の途中、晴一は駅前で足を止めた。ロータリーの前に、横断幕を掲げた高校生たちが立っている。


「私たちと同じ子供たちが、戦わされています」

 女子高生の構えたメガホンが、攻撃的な声を吐いた。

「ルミエールを支援する輝く星の会を許すわけにはいきません。活動停止を要求するため、皆さんのご協力をお願いします。……あっ!」


 女子高生はメガホンを外すと、バインダーを差し出した。明らかに晴一をロックオンしている。

「是非、署名をお願いします!」

「いや、僕は」

「ルミエールたちは、君と同じくらいの女の子なのよ。そんな子たちに戦わせるなんて、間違ってると思わない?」

「思わなくはないですが」

 晴一は後ずさった。


「とにかく、僕はいいです。さよなら」

「あっ、こら!」

 女に背を向けて、晴一は逃げ出した。

少し走って振り向くと、メガホンの女子高生は同じところで声を張り上げていた。さすがに追いかけてはこなかったらしい。


 晴一は息を吐いた。

 ルミエールだけが戦う現状を、面白く思っていないのは晴一も同じだ。でも、彼女たちの活動をこういう形で妨害するのは、違う気がした。さくらにルミエールをやめさせたところで、ガイスルーは来るのだ。

 モヤモヤを抱えたまま、晴一は歩き始めた。


 駅を通って、住宅地へ抜ける。都合二十分ほど歩き通して、晴一は誰もいない家に帰ってきた。


「あれえ」

 門に手をかけた時、お気楽な声が聞こえてくる。明星さくらだとすぐにわかった。

「ちょうどよかった。晴一くん、今帰り?」

「おう。どした?」


 さくらが両手に持った鍋を掲げた。

「お母さんが、持ってけってさ。今日、カレーだよ」

「……悪いな」

 門を開けて、鍋を受け取る。閉まりかけた門を、さくらの手が支えた。

「ついでに玄関も開けてくれるか? カバンの……そこ。外ポケットに、鍵が入ってる」

「ん。おばさん、まだ帰ってこないんだ」

「いつも通りだよ。今日も夜中だろうな」


 鍋を玄関先に下ろして、晴一は鍵を受け取った。

「鍋は洗って返すよ。じゃな」

「うん。おばさんにも、よろしくね」

「おー」


 晴一は小さく息を吸った。できるだけ何気ない様子を装って、切り出す。

「そういや、さっきさ。大丈夫なのか」

「さっき?」

「ほら……今日もやってたろ。怪我とか」

「ああ、そのこと。大丈夫、へっちゃらだよ! 変身してる時のさくらちゃんは無敵なのです。今日も絶好調、万事問題なし!」


 さくらは細い腕を掲げると、ありもしない力こぶを叩いて見せる。それがおかしくて、晴一は少しだけ笑った。

「そっか」

「心配してくれてありがと。また明日ね」

「おう。またな」


 帰っていくさくらを見送って、晴一はさっそく鍋を火にかけた。

 一年前、部屋から出てきたばかりの頃と比べて、さくらはひと回りもふた周りも元気になったように思える。そのさくらが、ルミエールであることを望んでいるのなら――。


(それでいいじゃないか)

 温まったカレーをよそいながら、テーブルの灰皿を眺める。吸殻はまだ、捨てられていなかった。母が直近で付き合っていた男が、残していった吸殻だ。二ヶ月経っても、母はまだ吸い殻を捨てようとしない。

 晴一自身の方が、よほど心配されなければならないのかも知れなかった。


    ◆


 トイレットペーパーを切らしていることに気づいたのは、午後も十一時を回った頃だった。戸棚の中にもストックはない。母が「仕事の帰りに買ってくる」と言ったのは、もう三日も前だ。

 母が帰ってくる気配はない。今日も午前様になるのだろう。


「ハァー……」

 晴一はため息と共に諦めると、コンビニ目指して家を出た。このままでは、朝イチで学校の大便所に詰め込まれることになる。円滑な学生生活のためにも、それは避けなければならなかった。

 最寄りのコンビニまでは徒歩数分だ。アパートの一階に埋め込まれているタイプの店舗で、営業時間は午前0時まで。閉店までは充分な余裕がある。晴一が到着した時も店には煌々と明かりが灯されていた。


(ああ、間に合った)

 日用品コーナーにトイレットペーパーを見つけた安心したのも束の間、晴一はぎょっとして身を固めた。

 店内に異様な光景が広がっていることに気づいたからだ。


「まっずいなあ、これ」

 レジのカウンターに腰かけた少年が、辺りを憚らずに言った。背後のコンビニ店員が、震えた声を上げる。

「で、でしたら。お代は結構ですから」

「ったり前じゃん。こいつもこんなトコ襲って、何がしたかったんだろーね」


 少年の爪先が、床に倒れた誰かの頭を蹴った。目出し帽を被った男が、呻き声を上げる。そのすぐ近くには拳銃が一つ転がっていた。


「お、お金が、欲しかったのかと――」

「ああ、カネね。“エン”だっけ? この国の通貨……あれ」


 少年の瞳が、晴一を見た。


「君、お客さん? ごめんね、今日はもう店じまいなんだ。よそに行った方がいーよ」

「店じまい?」


 晴一は眉を潜める。少年の表情は、目深に被ったフードに隠れて窺い知れない。強盗を倒したのは、どうやらこの少年のようだったが――。


「うん」

 鼻に抜けるような声で、少年が肯定する。

「この店、クソみたいだろ? 店員の態度も悪りーし、飯はまずいし。料金以下だよ、どう考えてもさ。こんな店、潰しちまった方がいいよな? なあーーー?」


 少年の指が何かを弾いた。夜のコンビニに煌めいたのは、夕陽色に輝く鍵だ。店員の額に、真っ黒な鍵穴が開く。夕陽色の鍵は、鍵穴にピタリと納まる。

 何かまずい、と思った。少なくとも――晴一が最初に感じたよりも、ずっと異常なことが起こっている!


 ガチリ。鍵が回った。


「出てこい! ガイスルー!」


 少年の声がそう叫ぶと同時に、店内は真っ暗になった。店員の口から吐き出された真っ黒な煙が辺りに立ち込めて、照明の光が遮られたのだ。


<ガァイスルー!>


 煙の向こうで何かが吠え、店内がかき乱された。無秩序な暴力と破壊の嵐が清一のすぐそばを吹き抜けて、店の外へ飛び出したのがわかった。


「アハハハハハハ!」

 少年が哄笑する。

 晴一は踵を返して、巨大な気配を追った。煙の中を抜けて視界が開ける。ホットスナックを象った怪物が、コンビニの駐車場にうっそりと佇んでいた。

 つまりそれが、さくら達の敵。


「ガイスルー……!」

「お、よく知ってるね」

 空中から、少年の声が降ってきた。

「キミ、ひょっとしてぼくらのファン? 最近、結構多いんだよね。店はなくなっちゃったし、せっかくだから写真でも撮る? ポーズとってあげよーか」

「いらねえ」

 晴一は顔を上げて、少年を睨みつけた。フードを被った少年は、重力から解放されたみたいにふわふわ浮かんでいる。


「あそう。じゃ、ルミエール呼ぶ? あいつら勤勉だからさ、すーぐ飛んでくるんだよな」

「それもしねえ」


 腹の底に危険な感情が湧き上がってきたのを、晴一は知覚した。大きな失敗をするときに特有の、蛮勇と確信のカクテル。それがもたらす自信と頑固さがために、彼の右腕は二度と真っ直ぐ伸びる事はない。

 その右手を使って、晴一は瓦礫を拾った。振りかぶった肘に違和感。投げたつぶては山なりの軌道を描いて、ガイスルーに当たった。


<ガイ……?>


「?」

 ガイスルーと少年が、それぞれに晴一を振り返った。何をしているのか、全く理解できていないらしい。

「どういうつもりかな」


「どうもこうもねえよ」

 晴一はまた、手頃な瓦礫を拾い上げた。ソフトボール大の瓦礫が(一応)命中したというのに、ガイスルーには傷一つついていない。礼二に聞いた通り、ガイスルーはルミエールにしか傷つけられないらしい。

 では、ガイスルーを操る異世界人の方はどうか?


「僕はお前らのファンじゃねえし、ルミエールも警察も呼ばねえ。あいつらの代わりに、お前らの相手は――」

 晴一は再び腕を振りかぶった。肘に違和感あり。

「ぼ……おれがしてやるって言ってんだよ!」

ソフトボール大の瓦礫が、再び山なりの軌道を描いた。少年は体を傾けただけでつぶてをかわす。


「うおっ――ハハッ、マジか。面白いね、キミ。ぼくが見た中じゃ二人目だなー……そういうことするのはさ」

 少年はガイスルーに触れた。

「じゃ、ちょっと付き合ってあげるよ。ガイスルー、遊んでやれ」


<ガァイスルー……>

 ホットスナックの怪物がゆっくりと反転する。晴一は次の瓦礫を拾った。


「ま、せいぜい頑張ってよ。ガイスルーに殺されないように。……運が良ければ、明日の朝日くらいは拝めるかもね」

 空中の少年が、晴一に背を向けた。

「なんだ、逃げるのかよ?」

「君のこと、面白いとは思うけど。グロいの見るのは好きじゃないんだ。骨だけは、後で拾いに来てあげるよ」

 口の端を歪めるようにして笑うと、空に溶けるようにして少年は消えた。後には晴一と、ホットスナックガイスルーだけが残される。


「……」

<ガァイ……>


 まずい選択をしてしまったことはわかっていた。こんなでかい相手に勝つ方法は、晴一の中のどこをひっくり返しても出てこない。


<ガイスルー!>


 だしぬけに、巨大な怪物が拳を振り下ろした。飛び退った晴一の目の前で、駐車場のアスファルトが弾けて、爆風に体が吹き飛ばされる。

拳が直撃すれば良くて大怪我。悪ければ大空晴一は跡形も残らない。


「はは」


 だが、晴一は歯を見せて笑った。愚かさと紙一重の蛮勇と根拠のない確信が、ひとまとまりの高揚感になって彼を包み込んでいる。

 着地と同時に踵を返して、晴一は荒れたコンビニの中に飛び込んだ。試みるべきことが、まだ残っている。


<ガァイスルー!>


 怪物の拳が唸りを上げて、その背中を追う。だが、晴一の方が速かった。倒れた強盗を飛び越えて、床に転がった拳銃を拾う。石がダメでも、鉛弾ではどうか?


(うっ)

 銃を構えて、晴一は顔をしかめた。軽すぎる。どう考えても、本物の重量ではない。

 失敗した、と思った瞬間、ガイスルーの腕が店内をなぎ払った。粉砕されたガラスの破片が宙を舞うのが、妙にはっきりと見える。

 巨大なガイスルーの拳が、右から迫ってきていた。

 ――次だ。次の手を考える必要がある!


 ガイスルーの素材になった人間に干渉するのはどうだろう?

 鍵を挿されたコンビニ店員は床に倒れて、眠っているように目を閉じている。

 ガイスルーはこの店員からリソースの供給を得て誕生した。少なくとも晴一には、そのように見えた。例えば、店員が命を落とした場合――。


(ダメだ)


 晴一は形になりかけた選択肢を削除した。さくらならそんなことは絶対にやらない。思いつきもしないだろう。

 結局、迫ってくる拳を前に、彼の採れる選択は一つしかなかった。すなわち、痛みと負傷に備える。死ぬかもしれない、と思った。


 ガイスルーの拳は、晴一ごと店内をなぎ払った。盾に使った右腕が壊れる感じがして、衝撃が体を通り抜ける。これじゃ、もう二度と――。

 天地がグルグル回って、今度は背中から衝撃が走る。肺から空気が絞り出されて、自分が壁に叩きつけられたのがわかった。


 ずるり、と背中が壁を滑る。晴一は頭から、コンビニの床に落下した。


「クソ……」


 立ち上がろうとすると、めまいがした。軽い脳震盪を起こしているらしい。右腕以外にも、体の中でどこかの骨が折れた感覚がある。

 だが、晴一はまだ諦めるわけにはいかなかった。さくらはこの程度で諦めたりしないはずだからだ。幸い、足は両方とも折れていない。左手でエアガンを拾うと、晴一は店の外へガイスルーを追った。


<ガァイ……>

 既に晴一を仕留めたと思っているのだろう。ガイスルーは彼に背を向けて、歩き始めたところだった。

 晴一はガイスルーに向けて玩具を構えた。グリップを握った方の手で指差すようにして照準を定め、絞るように引き金を引く。


 パン!


 エアガンは乾いた音と共にブローバックして、薬莢まで飛ばして見せた。ガイスルーは晴一に気付くそぶりもない。

 晴一は息を吸った。肺の辺りが痛んだ。


「待ち、やがれ」

 大声を出そうとしたが、口から出るのはかすれた小さな声だけだった。敵の気を引くには、全く足りない。晴一は再び引き金を引いた。


 パン! スライドがブローバックして、薬莢が飛ぶ。ホットスナックガイスルーの背中で、BB弾がはじけた。晴一は再び引き金を引く。

 パン! スライドがブローバックして、薬莢が飛ぶ。ホットスナックガイスルーの背中で、BB弾がはじけた。晴一は再び引き金を引く。

 パン! スライドがブローバックして、薬莢が飛ぶ。ホットスナックガイスルーの背中で、BB弾がはじけた。晴一は再び引き金を引く。

 バッ――。


 その瞬間、ホットスナックガイスルーの背中で巨大な爆発が巻き起こった。瞬間的な光が真夜中の住宅街を照らし出し、熱波が空気を焦がす。破壊の音が腹の底まで響いた。

 晴一はモデルガンを見た。まさか!


<ガァイ……!>

 ガイスルーが膝をつく。見上げた夜空に、一条の白煙が走った。

 直後、ガイスルーの背中が再び爆発する。ルミエールじゃない。何か、物理的な破壊の力がガイスルーに干渉している。


「今だ!」

 男の声が叫ぶ。晴一が声の源を振り仰いだ時、空から星が降ってきた。


「しゃあ――ッ!」

<ガァイ!?>


 流れ星はガイスルーを殴りつけた。十文字の輝きが空に向かってふき出す。衝撃波が吹き荒れ、晴一は尻餅をついた。


<ヤスラーグ……>

 ガイスルーが断末魔の声を上げる。怪物は白い煙に分解すると、空へと立ち上った。


「いい夢見ろよ、ってな」

 女性の声が聞こえた。何者なのかはわからない。急にすごい光を見たせいで、闇に慣れた目がリセットされてしまっている。

 やっぱりルミエールが来たのか? 晴一は訝った。声に聞き覚えはない。ルミエールに四人目がいるなんて話、礼二もしていなかったが――。


「よくがんばったな、少年」

 不意に、背後から晴一に声をかけた者があった。大柄な男の影がすぐそばに立って、彼を見下ろしている。

「ひどい怪我だな。もう少し待て、じきに……」


 不意に、めまいのような感覚があった。世界の輪郭が一瞬ぼやけて、元に戻る。

「ああ、もうこれで大丈夫だ」

 男は晴一に手を差し伸べた。

「立てるかい?」

「あ、はい……」


 晴一は立ち上がって、辺りを見回した。破壊され尽くしたはずのコンビニが傷ひとつない姿で営業している。レジ台の向こうには、ガイスルーを生み出したあの店員が、つまらなさそうな顔で佇んでいた。

 あちこち傷ついていた晴一の体にも、もう痛みはない。汚れた服やちぎれたボタン、肘の違和感までもが元通りになっている。

 治癒したとか、修復したのとは違う。文字通り何事もなかったかのように、ここ数分間起こったことが全て消えてしまっていた。


「驚いたかい? ガイスルーを倒すというのはこういうことなんだよ。君も……」

 男が口をつぐんだ。


 晴一は男を見上げた。コンビニが復活したおかげで、男の姿がよく見えている。

 ヘルメットとマスクをつけているせいで、顔をはっきり確認できるわけではない。しかし、この声とこの目。どこかで会ったことがある気がする。

 一瞬の熟考。その末に、晴一は確信に近い推測を口にした。


「明星のおじさん?」


 男が不意を突かれたように目元を歪めた。それから、観念したようにマスクを外す。晴一が想像した通りの顔が、コンビニの明かりに照らされた。


「……晴一くんか?」


 いささかくたびれてはいるが、精悍な表情。晴一も何度か顔を合わせたことのある男。名前もよく知っている。

 明星ノボル――ルミステレ:明星さくらの父親だった。

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