濃霧警報

 ごく控えめに言っても、血迷ったのではないか?

 昨日までの冷静な状態であれば、本人でさえそう疑問を呈するに違いない。まるであり得ない決断がなされて、仲から遠く1800年あまりの時を超え、袁術が平成の日本に爆誕したのだ。当然のように湧き上がる戸惑いを飼い慣らそうと努めるナオヤだったが、ここ数年の諦めを持て余す日常よりは余程マシのようだ。戸惑いは戸惑いで心地よさすら感じていた。

 いつの頃からか、あらかじめ希望が失われている現生を粛々と過ごすだけ。未来に目を向けても見えるのは常にバッドエンド。汚れたグレーのグラデーションを行き来するばかりの日常だったが、ここに至って、わずかばかり楽観の色彩を帯びた気がする。

 美味しいチャイを飲んだのもいつ以来だろうか。関西にいた頃なのは間違いない。たかがチャイ一杯で、もしかしたら人生の幸運期が訪れたのかもしれないとナオヤは閃く。幸運の星である木星は、今現在、何座に位置しているのだろうか?


 幸先が良いを通り越して幸先が良すぎる、もっと言えば幸先が過去最良まである。タカハシは絶好のスタートを実感していた。面接の一人目から袁術という一番重要なピースが満足な形で埋まったのだ。この上ない滑り出しと言う他なかった。抜群のスタートダッシュにも冷静を装うタカハシだったが、その口角はいつもより少し上がったまま下がることはない。

 さて、あとはこの目の前のフレッシュな袁術を研修に送り出すだけなのだが…。白い視界の中でタカハシは思案する。自身と袁術を包むこの霧は、はらうべきものなのだろうか。


 まずわかることがある。この部屋にたどり着いたということは、目の前の男性には資格があるいうことだ。さらにわかることがある。いまだこの部屋に滞在しているということは、このナオヤには適性があるということだ。

 タカハシにとってはそれで十分、本来これ以上に求めるものはない。しかし、問題なのは部屋に立ちこめるこの霧。いや、本当に問題なのか。問題にするべきなのだろうか。

 研修にかかる時間は145分。袁術も他の武将もそれは同じだ。2時間を超える長丁場だが、いざ始まれば休憩なしで最後までだ。映画館が真っ白に染まることはさすがにないだろうが、果たしてこの霧を放置したままにしておいてよいものだろうか。タカハシは真っ白な空間に鎮座する生まれたての袁術を見つめながら、霧の発生に気付く以前のクリアな視界を復活させる。


 おそらく白い霧は室内に充満したままだろうが、タカハシの目にはもう映らない。大して気にならなければこれで終幕としてもよいのだが…。霧か靄か霞か、定義も曖昧な白い気体。もはや目視できないが、タカハシには無視することはできなかった。

「すみません、袁術殿」タカハシの呼びかけに「はい、何でしょうか」とナオヤは応える。その声は快活ではないが、迷いや気負いは感じられない。名前を呼ばれたから反応したまでといった自然さだ。

 タカハシの最初の見立てでは、あの霧の正体はナオヤの不安由来だった。袁術になる者であれば誰もが抱くであろう不安。良性か悪性か不明だが、その不安から発生した何かに違いないとタカハシは考えた。

 とはいえ、このナオヤの返事からすれば、それは見当違いかもしれなかった。声の響きから察するに、ナオヤが抱えているのは不安や不満ではなく、せいぜい軽い戸惑いに過ぎないようだ。軌道修正を余儀なくされたタカハシだったが、思いつきが瞬時に口をついた。

「ミルクレープはお好きですか?」

「はい、好きです」唐突な質問だったが、袁術は笑顔でゆっくりとうなずいた。

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