カルダモン・チャイ

 甘いスパイスの香りがナオヤの鼻をくすぐる。運ばれてきた温かいチャイがナオヤを安心させた。ハローワークを介して臨んだ面接とは雰囲気がまったく違うのに、さらに飲み物まで提供してもらえるなんて。たとえこのまま不採用になっても何の不満もないなと思いつつ、ナオヤはグラスの縁に口をつけた。猫舌あるあるで、怖々とチャイをひと口すする。口内から鼻に抜けたスパイスの香りが、古い記憶を呼び覚ます。


 進学のため、ナオヤは18歳で関西に居を移した。田舎から都会へ、とにかく大阪は大都会だった。夜にふと梅田方面を見ると空が明るい。こんな時期に連日花火大会をやっているのか。その割に音が聞こえないなと、ナオヤは本気で訝しんだものだ。

 そして、なんと言ってもインド喫茶の存在。関西以外でもインド喫茶で伝わるのだろうか。煮出したミルクティー、チャイを飲めるお店が大阪のあちこちに点在していた。ナオヤが関西に住んで最初に覚えたカルチャーは「茶をしばく」ことだった。それはほとんどの場合、チャイを飲むことを意味していた。


 猫がいた中津の本店。マルビルにもホワイティにも三番街にもアメリカ村にも支店があった。当時の学生は皆、財布にホチキスで留められたチャイの割引券を忍ばせていたものだ。

 「ああ、これはカルダモンだな」チャイのグラスを鼻先にして、ナオヤは思わず口にした。当時はアニスもジンジャーもシナモンも嗅ぎ分けたりできなかったので、知らない内に少しは成長していたようではある。たとえほんの少しだろうと、あの頃よりできることがある事実は、ナオヤを少し勇気づけた。


 味覚なのか嗅覚なのか。記憶を手繰り寄せる力の強さにナオヤは自ら慄いていた。もう何年も前の記憶だろうに。下手すれば20年、いやもっとか。待望のバイパスが開通したかのように、ナオヤの頭に記憶が流れ込んでくる。いや、この感覚は、浮かび上がってくると言った方が適切か。意識の水面に見渡す限り、プカプカと記憶が浮いているようだ。

 何もできなかったあの頃。もっと上手いやり方があったに違いない。そして、今も変わらず何もできない。今のそんね自分の状況を伝えたら、あの頃の自分は絶望するだろう。絶対に内緒にせねば。


 木イチゴのケーキ。たばこの煙。迷い込んだ商店街。ガード下のオレンジの空間。さかなっつハイ。淀川の河川敷。場所の記憶が時間の記憶を、時間の記憶が場所の記憶を、それぞれ召喚し続け、ナオヤの脳内をぐるぐると回り出す。

 「死ぬ直前なのか」走馬灯を想起したナオヤはあえて不吉を口にした。それでも記憶の連鎖は止まらない。浮かぶにまかせてナオヤは目を閉じた。視界が遮られると、カルダモンの香りはより鮮烈さを増す。


 「何か思い出されましたか?」頃合いを見計らってタカハシは尋ねた。

「そうですね」ナオヤはゆっくりと答えた。

「関西にいた頃のことを」

 この部屋で初めて、ふたりは視線を合わせた瞬間だった。

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