ピンクのゾウ

森エルダット

ピンクのゾウ

 夜の散歩は海岸に限る。誰もいない風の吹きすさぶ砂浜に、俺を邪魔するものはない。背中や四肢に引っ付いた操り人形の糸がちぎれていく音がした。同時にすこし体が宙に浮いた。

 空には星は出ていない。多分出ていないと思う。あまりに太陽が眩しすぎて目が焼かれてしまった。真っ白な光は目玉を貫いて、痛みを伴う耳鳴りが一瞬で過ぎ去って、網膜にかすかな虹色がこびりついた。

 傾斜角の緩い方の、つまり海面と接している方の空はまだ見える。相変わらず何色だかはっきりしないが、少なくとも色相環の範囲に収まるものではある。例えるなら、ストゼロのモンエナ割りを飲みまくった急性アル中ユニコーンのゲボ色だ。

 革靴と湿った靴下を脱いで、砂浜を裸足でぎゅうと踏むと、横にいた彼女がその音に気が付いた。どうやらその背中で波打ち際まで乗せていってくれるらしい。彼女はピンクのゾウなのだが、足がナナフシのように細い。うちの会社のビルほどの体高があり、そのほとんどを今にも折れそうなこの足が占めている。本当に大丈夫だろうかと少し不安になった俺を叱るように、彼女は長い鼻を俺の胴体に巻き付けて振り上げた。

 俺は逆さ吊りになりながら、上から見てもこの町は、やはり滅んだほうがよいと思った。あらゆる道路にギャングがいる。一つ目、浮浪者、内科医、ペルー人、カバなど、その面々は幅広い。奥のほうにはスパルタの男娼もいる。まだ小学生くらいの男の子が裸になって、茶色い胸毛を生やした白人にフェラチオをしている。一体なぜここはソドムでもゴモラでもないのか。なぜまだ隕石が降ってきて皆蒸発していないのか。ここは主にとってはあいりん地区なのか。そんな疑問がぬるい夜風と共に頬を撫でて、舐めた。すぐに唾液が乾いて臭くなってきた。

 彼女のざらついたピンクの背中には、赤いカーペットが敷いてあった。彼女は山か海かと聞いてきたので、海へ行ってと迷いなく答えた。こんな町を突っ切って山へ向かおうだなんてとても思えなかった。彼女は恐ろしく静かに歩きはじめた。海が近づいてきているのではないかとさえ思った。これをあいつにラインで教えてあげようと思って動画を撮った。

 スマホの画面を通すとより遠くまでくっきり見えた。だけれどみんな死んでいた。生き物がいなくなった川で、箱メガネを使って水底の礫を観察させられた小学校の理科の授業を思い出した。どこまでもスマホの中は静かだった。遠くから聞こえるサクソフォーンの絶叫も、シューシューと歯の隙間から空気の抜ける音が混じったおじいさんたちの笑い声も、俺たち全体を抱擁しているあいまいな手が発するバスドラムのような音も聞こえていないようだった。俺の顔に水しぶきをかけている透明なイルカも、となりにいる死後3年経過したスライムみたいな何かも、彼女さえも見えていないようだった。

 怖くなって俺はスマホを投げ捨てた。水切りの要領で海の藻屑にしてやろうとしたが、狙いが外れて砂浜に着弾したようだった。突き刺さったであろうスマホはどんどんその画面を膨張させていった。黒い液晶がこっちへ迫ってくるようだった。俺は彼女に急ぐように言った。彼女はとっくに全速力だといった。およそ3秒で世界はスマホに包まれた。


 目を覚ますと、朝日が体を照らしていた。砂と汗にまみれた手が日光に反射してぎらぎら輝いた。ワイシャツは腹にべったりくっついている。靴と靴下はどこかへいってしまっている。吐き捨てられたガムのように、俺は砂浜に倒れていた。

 けれど後悔はなかった。吐き気こそすれ、身体は清々しい気分で満たされていた。この町はどっちにしろクソだ。世界一周の旅は百万円ちょっとらしいが、この世界を飛び出すにはその数十分の一で済む。

 毎回向こうへ行くと彼女に会う。もはや腐れ縁だ。もう会っても感慨深くもなんともなくなってしまったが、こっちにいるときには不思議と心強い。常にどこかで見守っていてくれる気がする。呼んでも来ないスーパーヒーローではなく、次元を隔ててもいつも見ていてくれる彼女のほうに幾度も救われた。

 数分逡巡したあと、まだしばらくこっちにいなければいけないと諦めがついた。とりあえずスマホと靴を探そうと思い至り、ガンガン鳴る重い頭を起こした。

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