ちいさなはなし
@ikedaya-okami
第1話 想 婦 恋
山寺の、響きの悪い鐘が六つを知らせてすぐ、それが聞こえた。
笛の音、しかし何ともへたくそな音だった。
根岸の、由緒はあるが金はない寺の、寺領の隅に庵を結んで暮らしている瑞江は、
ちょっと顔を顰めた。
食後の茶を運んできた爺やの伊之助が、
「どこで吹いてなさるのかわからんけど、えらい下手くそや。探して、やめさせましょか」
という。
「下手やから練習してなさるのでしょ」
「そやけど、耳触りやありまへんか?」
「耳障りやけど、習い始めのお人かもしれへんし・・」
いきなり、調子っぱすれの高い音がぴいっと鳴った。
瑞江は思わず笑ってしまった。
笑ったのは何年ぶりだろう。
夫が死んで以来、いや、夫に嫁いで以来、笑ったことなどなかったような気がする。
伊之助も瑞枝の笑顔を見て、下手くそな笛を許す気になったらしい。
自分の分の湯飲みを両手で包み込んで、笛の音に耳を澄ませる。
霜月近い庵に、一時暖かい湯気が満ちた。
笛は小半刻ほどで鳴りやみ、いつもの静かな夜が訪れた。
瑞江の家は摂津の小さな藩で、代々近習頭を仰せつかっていた。
家督は長男で弟の主計が継ぐことになっていて、瑞枝の輿入れ先は次席家老の太田家嫡男の壮之進と早くから決まっていた。
物心ついたころから、いずれこのお方と添うのですよと壮之進に引き合わされたが、瑞枝はその男の子がどうにも嫌いだった。
人を見下す目、人を馬鹿にする言いぐさ、物腰。それでいて、何事も自分が一番で、ちやほやされなくては気が済まない。
不遜というのは壮之進のためにある言葉だと思った、
武家の婚姻は相手が気に入らないからと言って、断れるものではない。家と家との結びつき、約束事なのだ。
だから瑞枝は、嫁入りするまでは大いに楽しんでやろうと決めた。
茶道、華道、香道、書道に歌道、琴に笛、仕舞に謡い、絵の修業もした。
毎日、お供の女中を連れて、御稽古のかけもちに明け暮れた。
猫も飼っていた。
ある日、お稽古仲間二人が誘いに来て、出かけようとすると、飼い猫のみかんが足元をすり抜けて門から出て行った。
「みかん、どこへ行くのや、お外へ行ってはならんというたでしょう。八重、八重」
お供の女中を呼びながら追いかけたが、みかんはとっとと先を行く。
「捕まえてくだされ、みかん、みかん」
と、向こうから道場帰りか、竹刀の先に防具入れを吊るした若い侍が、走ってきた猫に足元を掠められて飛びのいた。
「その猫、捕まえて・・」
どさっと、防具を竹刀ごと放り出すと、若侍は猫に飛びついた。
驚いた猫が若侍の顔に爪を立てる。その拍子に若侍は尻もちをついて、泥だらけになってしまった。
それでも猫を放さなかったらしく、若侍は立ち上がって猫を差し出した。
若い娘というのは残酷だ。猫に引っかかれてみみずばれになった顔や、泥だらけの道着を見て、三人は大笑いしたのだ。
真っ赤になった若侍は猫を手渡すと、そそくさと防具を取り上げて行ってしまった。
俗にいう”箸が転がってもおかしい年ごろ”というのだろうか。若いお侍には気の毒だったが、あのころは、本当によく笑った。
下手くそな笛の練習は、毎日同じ刻限に行われた。少しづつ、形にはなってきているが、まだ時折、調子っぱすれの甲高い音が出て、瑞枝を笑わせる。
どうやら、想夫恋を練習しているようだ。
「裏の雑木林の先に、ちょっとした小高い丘がござりましてな、どうやらそこで鳴らしておるようで・・」
伊之助はどんなお人が吹いておられるのか、気になってしかたないようだが、ちょうど夕餉の後片付けの時間で、しかもこの時期、山里は暮れるのが早い。
瑞江は考えた。こちらから探しに行けないのなら、向こうから来てもらおう。
伊之助を町の骨董店にやって、古い琴を買って来させた。
琴に触れるのはしばらくぶり・・いや嫁入りしてからは一度も弾いたことがない。
婚儀が決まって、太田壮之進が父親と挨拶に来たとき、瑞枝は琴で“葱夫恋”を弾いた。
弾き終えて、お辞儀の顔を上げた時、壮之進が小さく欠伸したのが見えた。
だから二度と弾かなかった。
久しぶりに琴爪をはめる。少し痩せたか、ゆるいようだ。
十三本の糸を、ころりんしゃんと鳴らしてみる。
笛の音が一瞬止まった。そして、おずおずと再開する。
音を合わせるように、弾く。笛も恐る恐るのように鳴る。
壮之進にも気の進まぬ婚姻だったのだろう。冷たい閨、よそよそしい言葉、あからさまな嫌がらせもあった。
そして、夫が藩内一の美女と噂の、馬回り役の娘、小夏といい仲になっていると聞かされた。
言い寄る男をとっかえひっかえ、男狂いだの、ふしだらだの、悪い噂が絶えなかった小夏だが、先ごろ、ようやく観念したのか、同じ馬回り役の男と祝言をあげたのだそうだ。
しかし、祝言はあげても、男遊びは収まらず、夜な夜ないかがわしい宿に出入りしているらしい。
そして、小夏が斬られた。袈裟懸けの一刀は、なんと壮之進の放ったものだった。
瑞江には何の断りもなく、壮之進は血刀を下げたまま,逐電してしまった。
他人事のように瑞枝は成り行きを見ていた。舅姑は瑞枝のことなどそっちのけで、家の体面がどうの、存続がどうのと駆けずり回っている。
やがて、中仙道のとある宿場で、壮之進が小夏の夫に斬られて死んだとの一報が届いた。所謂、女敵討ちだった。
子もいなかった。離縁を申し出ても、舅姑は引き留めようともしなかった。
瑞枝は太田の家を出た。が、実家は弟が継いで、嫁もいる。
瑞江の身の置き所はなかった。
江戸へ出ましょう、根拠もなく瑞枝はそう思った。
意に染まぬ婚姻を強いた親たちは何も言わなかった。
婚家を出るとき、身の回りの品を除いて嫁入り道具は金に換えた。
太田の家からも少しばかりの慰謝料が出て、路銀と少しの間の暮らしの糧を得た。
幸い、浪速の港から江戸に向か舟に伝手を得て、瑞枝はここへやってきた。
江戸へ来れば楽しい事の一つや二つあるだろうと思ったが、見知らぬ土地、なじまぬ人たち、気候も風土も風俗も、瑞枝の気を引き立ててくれるものはなかった。
藩の江戸屋敷に行けば知り人はいるだろうが、目引き袖引きの注目の的になる。
仕方なく、両親に文を書き、旦那寺の住職からこの寺を紹介してもらった。
尼になるつもりはなかった。あほなことを仕出かした揚句、間抜けな女敵討ちで命を落とした男の菩提など、弔う気はさらさらなかった。
琴と合せるようになって、笛は少しづつ腕を上げた。
所々つっかえるが、最後まで通して奏することができるようになった。
瑞江は、ある日決心して、伊之助と共に裏の雑木林の奥の丘に向かった。
いつも笛が鳴りだす刻限の少し前。
庵からの道と交わるように、里のほうからの道が延びている。
予感はあった。もしやして・・と。
夕焼けを背に、黒い影が里からの道に見えた。たっつけ袴に二本差しの大柄な男だ。
顔は陰になって見えない。
「そつじながら、小夏殿の旦那様ではござりませぬか」
瑞江は思い切ってそう言った。
男は黙って頭をさげた。
瑞江は笑い出した。顔が見えたのだ。昔、みみずばれの顔で猫のみかんを差し出した
若侍。あの泥だらけの道着の男。
「小夏は幼馴染でござった。太田様が怖くなったので一緒になってくれと拝むように言われ、親兄弟もおらぬ身なれば、人助けと思い祝言をあげてやったのに、馬鹿な女でござった」
「それでも仇はとってあげたのですね」
「仇はとってもとらなくとも、藩にこの身の置き場所はござらん。で。風の噂で太田殿の元御妻女が近くにお住まいと聞き、その・・」
「慰めに来てくださった?」
「昔のように、笑うてくださればよいと。」
おとこは懐からマリのような物を取り出して見せた。
「さすがに、みかんはお連れになれなかったのでは・・と」
見れば、みかんと同じような毛色の子猫。
「ま、かわいい。名は?」
「きんかん・・」
瑞江は久しぶりに晴れやかな気分で笑った、少しはしたないと思うほど笑った。
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