第10話 狂おしい未練

 雨の中、がたがたと揺れながら馬車は進む。薄い窓ガラスには、大粒の雨が打ち付けていた。


 追手が迫っているのかどうかすら、薄暗い馬車の中からは確認できない。ただ私は、発熱したフローラの体を抱きしめて、咳き込むたびに彼女の背中を摩ることを繰り返していた。

 

「フローラ……しっかりして。王都へ行ったら、いいお医者さまに診てもらえるわ」


 馬車が順調に進んでいるのならば、すでに王都までの道の半分は過ぎたところだろう。そろそろ夜も明ける。


「でも……おねえさま、私たち、どこへいくの……。どこへ行っても追手が迫っているのに」


 フローラの言う通りだ。メルエーレ伯爵邸にもベルテ侯爵家にも近づけない。フローラの体調が悪化したことで半ば衝動的に飛び出してしまったが、どうすれば彼女を医者に診せられるだろう。


「……俺が信頼している医者の屋敷に直接行こう。信仰より倫理が勝るなら、死にかけの患者を見捨てることはしないだろう」


 アルフレートは難しい表情のまま告げた。その横顔には、消せない翳りがにじんでいる。夜明け前の薄闇に、溶け込んでしまいそうな暗さだった。


「もしそのお医者がおねえさまとおにいさまの来訪を密告するようなら……そのときは私をおいてすぐに逃げてください。……これだけは、私も譲れません」


 フローラも強情な子だ。そんなこと、私もアルフレートも望んでいないというのに。


「まあ、倫理より信仰が勝るようなら……そんな医者にはいなくなってもらったほうが王国のためだな」


 妙に不穏な一言に、胸の奥がざわついた。この逃亡劇で、彼から何かひどく凶暴で恐ろしいものを引き出してしまう気がしてならない。


 ともすれば、息がうまくつけなくなりそうだ。命の灯火が消えかけている妹の細い体を抱きしめながら、ぎゅっと目をつぶる。


 ほんのひと月前まで、アルフレートとお義兄さま、レアの四人でお茶会をしていたなんて嘘みたいだ。あのお茶会に、フローラも加わったらどんなに楽しいだろう。平穏が、どうしようもなく恋しくてならなかった。


 私の不安を読み取ったかのように、フローラの手がそっと私の背中に回る。いとも簡単に振り解けてしまいそうなほどか弱い力だったが、胸の奥にぽっと暖かな火が宿るような心強さだった。


 ……フローラは、私が守るわ。絶対に、苦しいまま死なせたりなんかしない。


 心の奥で決意を固めたそのとき、馬車がぐらりと大きく揺れた。


「っ……ジゼル!」


 向かい合うようにして座っていたアルフレートが、咄嗟に私とフローラを抱きしめる。まるで、何かから私たちを庇うように。


「きゃあっ」


 フローラが腕の中で悲鳴を上げると同時に、馬車が大きく傾いた。そのまま均衡を保っていられず、車体ごと大きく揺らぐ。


「っ……!」


 ガラスの割れる音が響き渡り、体に重い衝撃が伝わる。どうやら横転したことで、馬車の壁面に打ち付けられたらしい。


 じわり、と肩から熱いものが溢れ出す感触があった。何かの破片で肩を傷つけたのだろう。不快な血の臭いが鼻についた。


「っジゼル……フローラ、無事か」


 アルフレートは私たちを抱き起こし、様子を伺っていた。私たちを庇うように抱きしめてくれた彼の腕や肩には、どす黒い血染みができている。


「追手に追いつかれた。……まずいな」


 アルフレートの言葉通り、馬車の外は妙に騒がしかった。何人もの男たちの声が聞こえる。その会話の内容をはっきりと聞き取ることはできなかったが、時折「魔女」や「王家」といった単語が出てくるのだけはわかった。


「アルフレート! ひどい怪我だわ……」


「俺は平気だ。それより、どうにかこの場を凌がないと……」


 痛みに耐えているのか、アルフレートの声は掠れていた。今すぐ彼の怪我の手当てをしたかったが、確かに、悠長に怪我の手当てをしている暇はないのかもしれない。


「フローラ、大丈夫よ……私から離れないでね」


 追手はおそらく、私を殺すことはしないだろう。最悪の場合、私が投降すればアルフレートとフローラは逃してもらえるだろうか。


 暗い選択肢を思い描いていたそのとき、フローラを抱きしめる腕に何か温かなものが触れるのがわかった。


「……フローラ?」


 腕の中でじっとしているフローラに問いかける。震える手をそっと外の光にかざしてみると、べっとりとどす黒い血がついていた。


「フローラ!!」


 追手が迫っていることも忘れて、思わず彼女の名を叫ぶ。馬車が横転した際に頭を打ってしまったのか、顔面の左半分は血に塗れ、可憐な顔立ちを台無しにしていた。当の本人はぐったりとしたまま、目を開けようとしない。時折苦しげなうめき声が聞こえるが、石の籠らない声だった。


 ……フローラ? フローラ、大変、このままじゃ……。


 素人目にも、このままでは危険だとわかった。ただでさえ色白の彼女の肌から、みるみるうちに血の気が失われていく。透き通るように青白い肌は、まるでよくできた人形のようだった。


 どくどくと、耳の奥で響く心臓の音が周りの音をかき消していく。血が溢れるから咄嗟に小さな頭を抱き抱えたが、私の抵抗を嘲笑うかのように指の間から温かな血がすり抜けていく。


「ジゼル!」


 アルフレートの声に、はっと顔を上げる。彼の大きな手が私の肩を掴み、混乱の最中にある私の気を引くように揺さぶっていた。


「……アルフレート……フローラが……」


 ぼろぼろと、大粒の涙が溢れ出す。アルフレートは痛ましいものを見たと言わんばかりに表情を曇らせながらも、意思のこもった強い眼差しで私を射抜いた。


「馬車を出よう。どういうわけか、追手の声が聞こえなくなっている。俺が先に様子を見るから、お前たちも続け」


 そうだ。フローラを医者に見せるためには、とにもかくにも馬車から出なければならない。まとまらない思考のままに何度か頷けば、アルフレートは早速馬車の扉を開き、よじ登った。


 彼の背中越しに、銀に瞬く星空が見える。そういえば、もうすぐ祈りの歌を歌う時期だったな、なんておよそこの危機的状況には相応しくない考えが脳裏をよぎった。


「っ……お前!」


 だが、アルフレートの声で再び我に返った。彼はこんな状況でも、私を現実に留めてくれるらしい。


「アルフレート……? どうしたの?」


 彼の足もとから様子を伺うように見上げれば、彼は一瞬迷ったように私を見つめ、それから私の目の前にしゃがみ込んだ。


「フローラは俺が運ぶ。……どうやら追手はもういないようだが、外に出ても驚くなよ」


 いったいどういうことだろう。彼の言わんとしていることはわからなかったが、この状況では頷くほかにない。ぐったりとしたままのフローラをなんとかアルフレートに手渡して、彼が馬車から出るのを見守った。私もすぐにそのあとに続く。


 だが、割れたガラスや馬車の骨組みにドレスが引っかかってうまく出られない。苦戦していると、目の前に黒手袋をつけた手がすっと差し出された。


 ……アルフレートは手袋をつけてなかったはずなのに。


 どくん、と心臓が跳ね上がる。怯えるように顔をあげれば、そこには黒い外套を纏った青年の姿があった。


 ……まずい、追手?


 だが、その青年の姿をよく観察してみると、どうしてか心が安堵するのがわかった。顔はよく見えないのに、導かれるように気づけば私は口走っていた。


「……お義兄さま?」


「ジゼル、おいで」


 声を聞いて確信した。見慣れない格好をしているが、お義兄さまだ。


「お義兄、さま……!」


 どうして、お義兄さまがここにいらっしゃるのだろう。お義兄さまの抱える「事情」とやらはすでに片付いたのだろうか。


 理由はともあれ、この危機的状況でお義兄さまとお会いできて心強く思った。彼の手を借りて、ようやく馬車から脱出する。


 お義兄さまにふわりと地面に降ろされた途端、何かが焦げるような臭いが鼻についた。あたりを見渡せば、馬車のすぐそばに煌々と燃え盛る炎が立ち昇っている。まるで、私たちを追手から守る壁のように、道いっぱいに広がっていた。

 

 しかし、どうしてこんなところで火の手が上がっているのだろう。短時間でここまで燃え上がらせるためには、相当の準備が必要に思えた。


 その疑問を汲み取ったかのように、お義兄さまは黒い外套のフードの下で笑う。優しい薄紫の瞳が見えないせいで、ひどく冷たい微笑に見えた。


「あれはね、僕の三番目に得意な魔術だよ。……あんまり下を見ないで。気分が悪くなるだろうから」

 

「魔、術……」


 聞き慣れない単語を反芻しながらも、お義兄さまがこの炎を生み出したのだろうという事実を、どこかで納得している私がいた。それくらい、いつだってお義兄さまの纏う雰囲気は神秘的で、どこか人間離れしているとさえ感じていたのだから。


 それならば、と思わずお義兄さまに詰め寄る。ほとんど泣きつくようにして訴えた。


「お義兄さま、フローラが……フローラが怪我をしてしまったのです。アルフレートもです。お義兄さまの力で、治してくださいませんか?」


 私の望みは、なんだって叶えてくださるお義兄さまだ。きっと、フローラの怪我だって治してくれるはず。


 お義兄さまは黙ってアルフレートに抱かれたフローラのもとへ歩み寄った。私も彼に続き、ぐったりとしたままのフローラの手を握る。


 燃え盛る炎が、彼女の顔に付着したどす黒い血を明瞭に浮かび上がらせていて、なんとも痛々しい。今すぐに拭ってあげたい衝動に駆られた。


「フローラ……お義兄さまが来てくださったわ」


 アルフレートの腕の中で静かに目を閉じる彼女を励ますように、目いっぱい声を明るくして語りかける。微笑みかけようとしたが、頬がうまく動かずぴくぴくと震えるばかりだった。


 お義兄さまは静かにフローラの前に跪いて、そっと彼女の白金の前髪を掻き上げる。滑らかな皮膚が裂け、腫れ上がった箇所から生々しい赤が覗いていた。


「……かわいそうに。もっと早くジゼルに会いに行きたかっただろうに」


 黒い外套が、お義兄さまの口もとに憂いを落とす。こんな危機的状況を前にして、急ぎもしないお義兄さまやアルフレートの態度に、嫌な予感ばかりが募っていった。


「お義兄さま……もし、お義兄さまのお力で手当てをするのが無理なら、急いでお医者さまに見せなくちゃ……。アルフレートが信頼しているお医者がいるのですって。そこに行きましょう」


「ジゼル……フローラは、もう……」


 嫌な予感を明確に言葉に変えようとするアルフレートの声に、思わず耳を塞ぎたくなった。大好きな彼の声を聞きたくないと思ったのは初めてだ。


「やめて、縁起でもない……!」


 聞きたくないと彼の言葉を拒絶しようとしたが、私の声は想像以上に弱々しかった。心のどこかで、彼の言わんとしていることを受け入れている証だ。その諦念が、何よりも嫌だった。

 

 ……嫌、フローラ。こんなかたちでお別れなんてしたくない。


 祈る気持ちとは裏腹に、大粒の涙が一粒頬を伝ってこぼれ落ちる。


 その雫は、目を閉じたまま動かないフローラの小さな唇にぽたりと落ちた。涙の粒にさえ、赤い炎が反射している。


 ……お願い、フローラ。目を開けて。


 こんなに深く祈ったのは、これが初めてかもしれない。縋るように、気づけば祈りの歌を口ずさんでいた。


 ……お願いです、女神メル。フローラを、あなたのもとへお召しにならないで。


 歌声に呼応するように、あたりの草木や木々が白く光りだす。巡礼の森で見るときよりもずっと鮮やかな光りかただった。


「ジゼル……」


 咎めるような、困惑するようなお義兄さまの声が聞こえたが、今ばかりは無視した。この歌を鎮魂歌にはしたくない。


 赤く燃え上がる炎と、白い祈りの光が入り混じる様は、この世の終わりのような景色だった。誰もが一呼吸の間、その景色に目を奪われていたと思う。


 そして奇跡は、その一瞬の間に起こった。


「ん……」


 先ほどまでみじろぎひとつしなかったフローラが、アルフレートの腕の中でぴくりと肩を震わせたのだ。


「フローラ!?」


 慌てて彼女の顔を覗き込む。アルフレートやお義兄さまが激しく動揺しているのを、視線だけで感じ取った。


「お、ねえ、さま……」


 掠れて途切れ途切れになった声は、神経をすり減らすほど集中しなければ聞き取れなかった。一言も聞き漏らすまいと、彼女の手を握って耳を傾ける。


「私はここよ、フローラ」


 お揃いの薄紫の瞳はどこかうつろで、光が宿っていない。もしかすると、見えていないのかもしれない。


「おねえ、さま、これからは、ご自分のために、生きてね……アル……おにいさまと、リアンおに……まといっ、しょに」


「フローラ、あなたも一緒よ」


 私の言葉に、フローラはふっと頬を緩ませた。


 それは、遠い昔に花冠を贈ったときに見せた笑顔に悲しいほどよく似ていた。


「ありがと……おねえさま、だい、すきよ」


 ふっと、蝋燭の火が落ちるように祈りの光が消える。


 同時に、フローラは私の手を握ったまま、静かに目を閉じた。


 命の気配が、遠ざかっていく。すでに冷たくなった彼女の指先が、痛いくらいにその現実を思い知らせていた。


「フロー、ラ……? フローラ!!」


 アルフレートの腕の中から奪い取るようにして、彼女の細い体をかき抱く。ぐらり、と小さな頭が体勢を保ちきれずに傾いた。まるでまだ首の座らない赤子のようだ。


「フローラ……フローラ……!!」

 

 信じたくない、嫌だ、いや、絶対にいや。


 もっと、あなたと話がしなければならなかったのに。理不尽に奪われた私たちの数年間を、これから取り戻さなければならなかったのに。


「フローラ!」


 かつてないほどに声を張り上げて、彼女の名を呼んだ。


もう決して、あの可憐な声が答えてくれることはないけれど。


 ――おねえさま、だいすきよ。


 すべてが終わった後に思い出すのは、この数年間の冷酷な彼女の姿ではなく、私を慕ってくれている愛らしい彼女の笑顔ばかりだ。その追憶すら、残された者の都合の良いように改竄され始めている気がして、思い出すことすら憚られた。


 だって、彼女の体はまだこの手の中にあるのだから。思い出なんかに閉じ込めてしまうのはどう考えたっておかしいのだ。


 ぎゅう、とフローラの白金の髪に顔を寄せて抱きしめる。血の臭いの中に、可憐な花の香りがした。雨に濡れてもなお、彼女は妖精のように綺麗な人だった。


「ジゼル……ここを離れよう。すぐに次の追っ手が来る」


 お義兄さまが気遣うように囁いて、私の肩を抱いた。今ばかりは、お義兄さまの優しさも温もりも、すこしも心に染み渡らない。


「フローラも……フローラも一緒に行くわ」


 彼女の体を抱いたまま立ち上がろうとするも、ふらり、と姿勢を崩してしまった。フローラもろとも地面に倒れ込む直前に、逞しい腕に支えられる。


その拍子に、肩のあたりに激痛が走って、ほんの少しだけ意識が明瞭になった。そういえば、馬車が横転したときに肩を怪我していたのだっけ。


 傾きかけた体を支えてくれたのは、アルフレートだった。こんなときでも、彼の優しい香りを感じ取って心のどこかで安らいでいる自分がいる。たった今、妹が二度と手の届かない場所へ行ったばかりなのに、私はなんて薄情なのだろう。


「ジゼル……かわいそうに」


 アルフレートは痛ましいものを見たと言わんばかりに声を震わせると、それ以上何も言わずに私とフローラを抱きしめた。


血に汚れるのも厭わずに私たちごと抱きしめてくれた彼の力強さに、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちていく。彼の憐れみが、フローラを失った悲しみに突如として輪郭を与えた気がした。


「アルフレート……! フローラが……フローラが……!」


 彼はやっぱり何も言わず、代わりに私の背中に回す腕に力を込めた。それが、どんな誠実な言葉よりも私の心に入り込んで、残酷なまでに私の意識を現実にとどめていく。決して、夢の世界に逃げることを許してはくれなかった。


「ジゼル……つらいだろうがフローラとはここでお別れだ。お前は幸せにならなければならない。こんなところで追手に捕まっては、フローラだって浮かばれない。お前を逃すために、雨の中駆けてきたのだから」


 そうだ、私を逃すために彼女はとんでもない無理をしたのだ。ずしん、と体が重たくなったような気がした。


「そうだよ、ジゼル。……君は、王都へ行って聖女の座を取り戻すんだ。夜明けとともに大神殿で定期礼拝が行われる。そこで君は民の前で祈りの歌を歌って、聖女の力を証明すればいい。……もう、君を縛る枷はないのだから」


 お義兄さまは泥が外套を汚すのも厭わずに地面に膝をつくと、私の腕の中で眠りについたフローラの額を撫でた。


お義兄さまの言う「枷」とはフローラの治療に使っていた薬草のことなのだろう。確かに彼女がこの世の人ではなくなってしまった今、私を縛る要素にはなりえない。


「君が聖女だとわかれば身の安全は保証されるだろう。アディ卿が、追手を率いながらも時間稼ぎをしてくれている。彼女が君に追いついてしまう前に、君は王都へ向かうんだ。アルフレートと一緒に」


「……ジゼルが聖女になるのをあんなに嫌がっていたくせに、お前が勧めるなんてどんな風の吹き回しだ?」


 アルフレートが、わずかに警戒するように金の瞳を鋭くする。


今まで意識していなかった雨音が、ざあ、と強まった気がした。こんな雨の中でも、お義兄さまが作り出したという炎は煌々と燃えたままだ。


「僕も僕の抱える『事情』を始末できる機会が巡ってきたんだ。それだけのことだよ。……だから、何も心配せず君たちはすぐに王都へ向かうんだ。その馬を使うといい」


「お義兄さまは行かないのですか……?」


 胸がざわつくような、嫌な予感に囚われて思わず彼を見上げる。フローラを失った悲しみに打ちのめされているせいか、視界も意識もどこか薄ぼんやりとしていて現実味がない。


「僕は行かないよ。ここで追手を引き止める。……大丈夫、すぐに追いつくから、ジゼルはアルフレートと先に行くんだ」


 私に嘘をついたことなどないお義兄さまの言葉なのに、どうしてだろう。すこしも信じられなかった。お義兄さままで、私の手の届かない場所へ行ってしまうような気がしてならない。


「すぐに……いらっしゃるのですよね?」


 弱々しく問いかければ、お義兄さまはひどく強い葛藤を覚えたかのように表情を歪ませる。


そして地面に座り込んだままの私の肩を抱き寄せ、血が流れる傷口に唇を触れさせた。


「っ……」


 ちくり、と傷口が疼いたのも束の間、心地よい温もりが傷口に広がっていく。瞬きの間に、嘘のように痛みが引いて行った。お義兄さまが顔を上げたときには、跡形もなく傷が消えていたのだ。


 やはり、彼は特別な力を持った人なのだろう。人智を超えた力を前に、恐ろしく思ってもいいはずなのに、怯えるような気持ちはやっぱりわき起こらなかった。


 お義兄さまは、泣き出しそうな表情で微笑んで、声を震わせて告げる。


「ジゼル、愛している。今までも、今も、この先も、君だけが狂おしいほどに僕の未練だ」


 それは、義理の妹へ向けるには、あまりにも切実な熱のこもった告白だった。


「お義兄、さま――」

 

「――アルフレート、ジゼルを頼んだ」


 私の言葉を遮るようにして、お義兄さまはすっと立ち上がる。


代わりにアルフレートが私の肩を抱いて、そっと引き寄せた。まるで、お義兄さまから私を委ねられたと言わんばかりに。


「……必ず追いかけてこい。今の告白について問い詰める必要があるからな」


「怖い幼馴染殿だ」


 お義兄さまは苦笑混じりに告げると、一瞬だけ伯爵邸で見せていたような柔らかな笑みを浮かべた。そうして私とお揃いの薄紫の瞳でこちらを一瞥すると、それ以上何も言わずに背を向けてしまう。


 今度は、アルフレートが動く番だった。彼は自分の上着をフローラに巻き付けて抱き上げると、芝生の上まで運んでそっと彼女を地面に下ろした。青々と茂った大樹が、彼女を雨風から守るように揺れている。


 ふらり、と立ち上がってフローラの顔をもう一度覗き込んだ。雨で血が流れたのか、先ほどより彼女の愛らしい顔立ちがよく見える。芝生の上で眠っていると、本当に妖精のように見えた。


「……聖女になって、あなたのことも迎えに来るわ。それまで待っててね、フローラ」


 かがみこみ、白い額にそっとくちづけて、彼女との短い別れを終えた。


そのままアルフレートに連れられるようにして、追手のものなのかお義兄さまのものなのかわからない馬に跨る。馬車を引いていた馬は、すでにどこかへ逃げ出してしまったようだった。


 アルフレートは何も言わずに私を馬に乗せると、私の背後を守るように彼も馬に跨った。そのまま、フローラとお義兄さまを置いて走り出す。


 雨粒が体に当たるたび、これが彼らとの決定的な別れになってしまうような悪い予感が膨らんでいった。


 ……このまま聖女になれたとして、私、誰のために祈るのかしら。


 アルフレートの温もりを感じながら、ぼんやりと思う。


最愛のこの人は、私がこの手で守るから、彼には祈りなんて必要ないのだ。フローラもお義兄さまもレアもそばにいない今、私は誰のために祈るのだろう。


 清らかに保ってきた心の中の何かが、雨に侵食されていく。ゆっくりとくすんで、腐食されていくのがわかった。


「……ジゼル、大丈夫か?」


 まるで私の心の中を読んだかのように、アルフレートは静かに問いかけた。


 返す言葉が思いつかず、手綱を握る彼の手にそっと自らの手を重ねる。もう何も考えず、この温もりに溶けていきたい衝動に駆られたが、雨粒の冷たさはそれを許してくれなかった。

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