第8話 雨の夜の訪問者
◇
がたがたと、窓ガラスが揺れる。朝までは清々しいほどに晴れ渡っていたのに、夕方になってから大粒の雨が降り始めてしまった。フローラの治療に使う薬草を育てるためには日の光が重要な役目を果たすだけに、一晩で雨がやむことを祈るばかりだ。
「ジゼル、そんな窓際にいたら冷えるだろう」
背後からふわりとストールがかけられ、その上から抱きしめられる。相手はもちろんアルフレートだ。以前よりずっと近しく感じるようになった彼の温もりに酔いしれるようにして、彼の肩に頭を預けた。
「ありがとう。ただ、天気が心配で見ていただけなの」
「薬草のことなら大丈夫だ。今まで毎日日の光を浴びていたから、一日くらいならなんとかなる」
ちゅ、と音を立てて首筋にくちづけられ、くすくすと声を上げて笑った。
「……くすぐったいわ、アルフレート」
「ジゼルはそうやって笑っているほうがいい」
彼の腕の中で身を捩って振り返れば、愛しさに満ちた優しい微笑みがそこにあった。そんな目で見つめられて、嬉しくないはずがない。そっと背伸びをして、お返しのくちづけを贈った。
触れるだけのくちづけのあと、お互いの心の中を見透かすように見つめ合う。金の瞳は、どことなく熱に浮かされたようにも見えて、つい、先日の夜を思い出してしまった。
……大事な時期なのに、あんまり浮かれていてはいけないわ。
自分を戒めるように気持ちを切り替えて、静かに彼に笑いかける。
「……そろそろ夕食にしましょうか」
「そうだな。食材も余って困っているらしいから、今夜も品数が多いぞ」
ふたりが出発して早二週間。そろそろレアかお義兄さまが帰ってくると見込んで多めに食材を仕入れたのだが、残念ながら予想が外れたようだ。
……「妖花の魔女が死んだ」という噂も耳にしていないし、うまくいっていないのかしら。
何か問題が起きれば、レアの飼っている白い鳩で手紙が送られてくるはずだった。情報がない以上、こちらも下手に動けない。
……お義兄さまも、危ない目に遭っていないといいのだけれど。
お義兄さまに関しては、レア以上に情報がないため、常に不安しかなかった。お義兄さまをあそこまで悩ませる何かが、早く解決しますようにと願うことしかできない。
「大丈夫だ。あのふたりならきっともうすぐ帰ってくる」
私をエスコートするように一段先の階段を降りながら、アルフレートは呟く。
彼は私の不安に敏感だ。心が翳るとすぐに励ましてくれる。
「そうね。きっとそろそろ知らせもくるわ」
「ああ。ふたりともジゼルが大好きだからな。今に飛んで帰ってくる」
祈りにも似た会話を繰り返しながら階段を降り切ると、ふいに玄関広間からノックの音が響き渡った。雨風に紛れて危うく聞き逃してしまうところだったが、確実に人の手で慣らされている音だ。
思わずアルフレートとふたりで顔を見合わせる。なんの知らせもなかったが、レアかお義兄さまが帰ってきたのだろうか。
「……アディ卿なら帰る前に知らせを送るはずだ。そもそも王都で妖花の魔女が死んだなんて話は出回っていないようだから、今夜帰ってくるとは思えない」
「じゃあ……お義兄さま?」
「あいつはたまに手紙より早く帰ってくるからな。ありえない話じゃない。でも一応ジゼルは奥の部屋にいろ。俺が対応する」
「……わかったわ」
アルフレートに甘えるかたちになってしまうが、こればかりは仕方がない。今のところ、狙われているのは私なのだから安易に外に姿を現すわけにはいかないのだ。
……お義兄さまだったら嬉しいわ。今夜の晩餐も、賑やかになるもの。
玄関広間から離れた書斎に身を隠しながら、胸を躍らせる。アルフレートとふたりきりの甘い時間ももちろん大好きだが、お義兄さまに久しぶりに会えるのは嬉しい。
扉に身を預けて、玄関広間から聞こえる音に耳を澄ませる。よほど激しく降っているのか、雨の音ばかり拾ってしまってもどかしい。
「……して、お前が……!」
「……く! に……て、私は……」
……何か、言い争っている?
雨音の間に聞こえる声は、緊迫感を漂わせていた。どうやらお義兄さまが帰ってきたというわけではなさそうだ。
……だとしたら、誰? レア?
何か、ただならぬことが起こっているのだろうか。気づけばどくどくと心臓が早鐘を打ち始めていた。
……アルフレートは大丈夫なの?
身を隠すべきだと分かっていても、彼の身が危険にさらされているかもしれないと思うといてもたってもいられなくなった。息を殺して、そっと書斎の扉を開ける。雨のせいでいつもより薄暗い廊下の様子を伺えば、より鮮明に話し声が聞こえてきた。
「私はいいから……! 早くお姉さまを連れて逃げて! 今夜にでも追手がかかってもおかしくないの……!」
叫ぶような声の後に、激しく咳き込む音が聞こえた。この可憐な声と苦しげな息遣いは、よく知っている。
「フローラ……!?」
思わず我を忘れて玄関広間に飛び出せば、雨に濡れたフローラと、彼女の肩に上着をかけるアルフレートの姿があった。フローラの美しい金の髪は乱れていて、雨に濡れたせいで肌に張り付いている。
「どう……して、ここに……?」
わけがわからず、フローラの前で立ち尽くすことしかできない。メルエーレ伯爵家の別邸で休んでいるはずの彼女が、どうしてここにいるのだろう。
「お姉さま……! 早く、早くアルフレートお兄さまと一緒に逃げてください! この場所が知られてしまった……今すぐに逃げなくては危ないのです!」
フローラは私に掴みかかる勢いで距離を詰めると、余裕のない表情で訴えかけてきた。よほど無理をしているのか、肩で息をしている。思わず、彼女の肩にかかったアルフレートの上着で彼女の細い体を包みこんだ。
「フローラ……まずは暖まらなくちゃ。話はそれから聞くわ」
「それじゃ駄目なんです! もうすでに手遅れかもしれないのに……!」
フローラの薄紫の瞳に、じわりと涙が滲む。まっすぐに私を見上げるその眼差しは、まるで私のことを心配しているかのようにも見えて、ますます頭が混乱した。
「……支度をしながら話を聞こう。まずは奥へ」
アルフレートに言われ、私たちは奥の部屋へ移動した。とても食事どころではない。
「フローラ、この場所が知られてしまったとはどういうことだ?」
フローラをソファーに座らせながら、アルフレートが問う。フローラは俯くように体を縮こまらせながら、震える声で語り始めた。まるで、懺悔をする罪人のような格好だ。
「ごめんなさい、お姉さま、お兄さま……。私の侍女が、お父さまを尋問して……お姉さまの居場所を言わなければ、指を切り落とすと脅したの……! それでも、お父さまは口を開かなかったわ。そうしたら、リズが……私の侍女が、本当にお父さまの指を……私の目の前で……」
フローラは痛みを覚えたかのように顔を顰め、うめき声を漏らした。吐き気を堪えるように口もとに手を当てている。小さな肩が、小刻みに震えていた。
「お父さまはそれでも何も言わなかったけれど……ごめんなさい、私が耐えられなかったの……! お姉さまはアルフレートお兄さまと別邸に逃げたと言ってしまったわ……! お父さまから、そう聞いていたから……。ごめんなさい、嘘をつけばよかったのに……お父さまが殺されそうな状況でとっさに嘘をつけなくて……ごめんなさい、ごめんなさい!」
フローラは泣きじゃくりながら、叫ぶように吐き出した。彼女がどれだけつらい思いをしたのか、その姿を見るだけで痛いほどに伝わってくる。
「それで……お前はここまで知らせに来たのか? 自ら、雨に打たれて?」
アルフレートが気遣わしげな視線を投げかける。フローラは嗚咽を漏らしながら、切れ切れに言葉を紡いだ。
「他に……どうすればいいかわからなかったの。手紙じゃ遅いって思ったら、いてもたってもいられなくて……」
フローラのか細い足は、ぼろぼろだった。室内用の靴のまま飛び出してきたのか、ところどころ皮が剥けて血が滲んでいる。擦れて水膨れのように腫れている箇所もあった。
「……ジゼルに冷たくしていたのは、侍女の監視があったからか。俺と、同じように」
フローラは泣きながら何度も頷いた。アルフレートの表情が苦々しげに歪む。
「王女さまはお姉さまに味方がいることを許せないようだったから……私が今まで通りだと、お姉さまと引き離されてしまうかもしれないと思ったの。それはどうしても嫌だった……」
彼女の可憐な顔を覆った両手の指の間から、涙が伝い落ちてくる。泣き過ぎて、呼吸が大きく乱れていた。
「フローラ……」
……フローラも、アルフレートと同じだったの? 監視のせいで、不本意な態度をとっていたの?
気づけば私は彼女の前に駆け出して、震える彼女の体を抱きしめていた。もう二度と叶わないと思っていた妹との抱擁を、こんな形ですることになるなんて。
「私、ぜんぶ知ってたわ……本当はお姉さまが聖女だということも……お姉さまは私の薬のために妖花の魔女の烙印を押されてしまったのだということも……お父さまから聞いていたの」
フローラは消え入りそうな声でそう告白したかと思うと、震えながら顔を上げた。こぼれ落ちそうなほど大きな目は、泣きじゃくったせいで腫れてしまっている。
「お姉さまの足手まといにしかなれないなら、いっそ死んでしまいたかった……! でもそんなこと、お姉さまは望んでいないってわかっていたから、今日まで生きてきたの。お姉さまがご自分を犠牲にしてまで私を守る必要なんてないと思っていたけれど……それでも今日、ようやくひとつだけ役目を果たせた気がするわ」
ふいにフローラは咳込んだかと思うと、薄紅色の血を吐き出した。彼女の透けるような白い肌に、血が鮮やかに浮かび上がる。
「フローラ……! すぐに横にならなくちゃ!」
半ば強引にフローラをソファーに横たえようとするも、抵抗されてしまう。彼女は頑なに首を横に振ると、私に縋り付くようにして懇願した。
「今はそんなことを言っている場合ではないのです。逃げてください……お姉さま。神殿からの追手が来る前に。アルフレートお兄さまと、一緒に逃げて。私はもう、ついていけないから……ここに残ります」
「何を言って……! あなただって、魔女を逃したと知られたらただでは済まないわ。神官たちに何をされるか……」
「私にはもう連れて行く価値なんてないの。お姉さまには内緒にしていたけれど……この体はそろそろ限界なのですって。お姉さまがいくら薬草を準備してくださっても、もう長くはないのです。……血を吐いたら、だいたいあと三日の命だと聞いています。だから、ここに残ったところで、人質にもなり得ないから安心してください」
「あと……三日の命?」
何を言われているのか、すぐには理解できなかった。世界から一瞬、音も色も遠ざかる。心臓が激しく暴れていることだけはわかった。
あまりの衝撃に、涙も声も出ない。悲しいとも思えなかった。ただ、言いようのない喪失感がじわじわと全身を蝕んでいく。
……この温もりが、まもなく失われるというの?
フローラを抱きしめた腕が、熱を帯びるように疼いていた。伝わった熱とは裏腹に、ぞわりと背筋に寒気が抜けていく。
……嫌、そんなのは嫌、信じたくない。
フローラが、もうすぐいなくなるなんて。お母さまと同じ場所へ行ってしまうなんて。
せっかく、また昔のように抱き合えたばかりなのに。
「いや……いやよ、フローラ……!」
「仕方ありません、こればかりは。この歳まで生きられたこと自体を奇跡だと思わなくては。薬草がなければ、本当はとっくに終わっていた命です。お姉さまが、今日まで長らえさせてくれた……」
フローラは覚悟を決めたように笑うと、自らの服で血を拭ってそっと私の手を握りしめた。
「それより、こんなふうに話している時間がもったいないです。早く逃げる支度をしてください、お姉さま。アルフレートお兄さまも、早く!」
まるで私を蔑む演技をしていたときのような鋭い声で、フローラは私たちをたきつける。アルフレートの金の瞳が、苦しげに歪んだ。
「ジゼル……外套を羽織ってこい。荷物は必要最低限のものだけを持っていこう」
「アルフレート! でも……フローラが……!」
じわり、と涙がにじむ。もう先が長くないのならばなおのこと、彼女をひとりきりにさせるわけにはいかなかった。
「お姉さま、アルフレートお兄さまの言うことを聞いてください。みんな、あなたを守りたいだけなんですから。……私がいなくなれば、あなたを縛る枷も消える。これで堂々と、聖女としての力を明らかにできるはずです」
「そんなこと望んでない! 聖女だとか魔女だとか、そんなことはどうでもいいのよ……!」
ぱらぱらと大粒の涙が散っていく。フローラのほうこそ何もわかっていない。私にとって大切なのは、聖女の名誉なんかじゃないのに。
「落ち着け、ジゼル。置いて行くとは言っていない。フローラは俺が背負う。今ならまだ馬車も出せるはずだ。王都に連れていって安静にすれば、いくらか体調もマシになるかもしれない」
「アルフレート……!」
危険な賭けだということはわかっている。でも彼がフローラを見捨てない選択をしてくれたことが嬉しくてならなかった。
「待って、アルフレートお兄さま……! 私を連れて行く必要なんてありません! お姉さまだけを守ってください!」
「そうも言っていられない。お前が一人で死ぬようなことがあれば、ジゼルはこの先一生消えない傷を負うだろうから」
遠回しに私のためだと言わんばかりの彼の言葉は、捉えようによっては冷たく感じるが、フローラの反論を遮るのにこの上なく効果的だった。
「ずるいわ……そんなふうに言うなんて……」
悔しげに肩を落とすフローラはかわいそうにも思えたが、置いて行くよりはよほどいい。そうと決まれば早速動かなければ。
「フローラのぶんも着替えと外套を持ってくるわ……!」
「急げ。俺は馬車の手配をする」
「ええ、お願い」
私もアルフレートも、それぞれの目的のために動き出す。
こうして、私たち三人の逃走劇が始まったのだった。
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