第2話 魔女と鍾愛
「お義兄さま、お義兄さま! 待ってください!」
「おとなしくついてくるんだ、ジゼル。君はここにいてはいけない」
メルエーレ伯爵邸の廊下を、お義兄さまに手を引かれるようにして歩く。黒いドレスの裾がずるずると引きずられていたが、彼は構うことなく私を連れて歩き続けていた。
お義兄さまはおそらく、私を王都から離れた別邸に連れて行こうとしているのだろう。そのわけは、数日前に起こったある大事件にあるのだとわかっていた。
遡ること五日ほど前、突如として王国を震撼させる報せが駆け巡った。
『聖女クラウディア姫が賊に襲われ重傷』
それは、事もあろうに聖女の公務中に起こった。聖女として神殿で祈りを捧げるために外出しようとした矢先、どこから飛んできたともしれぬ鋭い弓矢が彼女の胸を貫いたのだ。
聖女の警護は、王よりも厳重だと言ってもいい。当然、普通の弓矢をうたれたところで王女の視界にすら届くはずはなかった。
しかしながらどこからともなく飛んできた銀の弓矢は、まるで吸い込まれるかのような正確さで聖女の胸を貫いたのだ。大勢の目撃者たちは、その異様な光景に言葉もなかったという。
聖女は未だ、目覚めないまま生死の境を彷徨っているらしい。聖女が襲われるという前代未聞の事態に、国内はぴりぴりとした緊張感を漂わせていた。
皆、言葉にはしないが抱いている不安は同じだった。
『もしもこのまま王女が崩御したら、次の聖女はどうなるのだろう』
これまでの記録からして、新たな聖女は先代の聖女の覚醒からすくなくとも十年の期間を空けなければ生まれないといわれている。
聖女クラウディア姫が能力を発現したのは六年前。もし王女にもしものことがあれば、王国は加護を持たぬまま四年の月日を過ごさなければならないのだ。
王国ファーロスは加護のおかげで、他国から攻め入られずに済んでいるといってもいい。王国に戦争を仕掛けようものなら、敵国は彼らにとっての「悪い偶然」が重なって撤退を余儀なくされるような事態に追い込まれるのだ。
だが、四年もその加護が薄れれば話は別だ。隣国がその気になれば、王国が攻め滅ぼされる可能性は十分にある。皆が懸念している点はそこなのだろう。
そしてもう一つ、皆の心を不穏にさせているものは――。
がしゃん、と派手な音をたてて廊下の窓ガラスが割れる。氷のかけらが散らばるように、あたりにガラスの破片が舞った。
お義兄さまが咄嗟に私を庇うように引き寄せてくれたので怪我はないが、きらきらと煌めくガラスのかけらの中に大きな石が落ちていた。
きっと、これを投げ入れて窓ガラスを割ったのだろう。もしも直撃していたらひとたまりもなかった。
悪い想像と目の前の惨状に、気づけば指先が細かく震えていた。お義兄さまは睨むように窓ガラスの残骸を見下ろすと、私を引き寄せる腕に力を込める。
「この通り、この屋敷は危険だ。……みんな君を狙っているんだよ、ジゼル」
そう、これこそが、皆が抱いている不安が溢れた結果にほかならなかった。
王女の胸を正確に貫いた不思議な弓矢は、まるで人智を超えた力が絡んでいるかのような不気味さだった。そんな忌まわしい力を使えるとされている存在は、国内にたった一人しかいない。
妖花の魔女。
『妖花の魔女が、聖女から与えられた慈悲も忘れて、この国の宝に仇なした』という噂が、たった五日のうちにすっかり真実のように語り継がれるようになってしまった。『これ以上の災いを招く前に、妖花の魔女を火炙りにしろ』という声も多く上がっているという。
言うまでもなく、私は王女を襲撃していないし、なんなら私が火炙りにされてしまえば王国は本当に加護を失うことになる。自分のためにも国のためにも、魔女狩りを声高に叫ぶ人たちの手に落ちるわけにはいかなかった。
でもお義兄さま……私は逃げるわけにはいきません」
お義兄さまは、私以上に私の身を案じてくださっている。人々の目から逃れるため、私を伯爵家の別邸に移そうとしてくれているのだ。
でも、屋敷がこんな状態なのに、私が王都から逃げるわけにはいかない。王国を守る命の歌は、基本的に王都にある巡礼の森で歌わなければならないのだから。身を隠すにしても、王都から離れるわけにはいかないのだ。
私よりもむしろ、フローラとお父さまを別邸へ逃すべきだ。
「お父さまもフローラも自由に動ける体ではないのだから、馬車を出せるうちに移動すべきだと思います。……薬草を確実に入手できると言う点では、隣国へ避難することも検討してもいいかもしれません」
加護がなくなればあっという間に攻め入ってくるであろう隣国だが、表向きには友好関係を保っている。お義兄さまが一年間留学に行けたのもそのためだ。
それに、隣国にはメルエーレ伯爵家の縁戚がいるらしい。どうにかして頼ることもできるはずだった。
たとえお義兄さまが賛同してくださらなかったとしても、私はここに残るつもりだ。
その意思を込めてお義兄さまを見上げれば、いつも優しげな薄紫の瞳に僅かな苛立ちが宿っていた。彼が私に向けてそんな表情をするのは珍しい。
「……君はどこまで自分を犠牲にすれば気が済むんだ」
お義兄さまの大きな手が、私の手首をつかんで壁に押し付ける。いつにない乱暴な仕草に、目を見開いてしまった。
「僕が……どんな思いで君を……」
「……お義兄さま?」
「もう……もういや!!」
甲高い叫び声が聞こえて、はっと声のした方を見やる。
影になっている廊下の先で、薄桃色のドレスに身を包んだフローラが立っていた。動き回ることが少ないせいで歳不相応なほどにほっそりとした彼女は、叫び声をあげていてもまるで妖精のような可憐さだった。
「フローラ……驚かせてしまったわよね、ごめんなさい」
フローラのもとへ歩み寄ろうと、お義兄さまの手をするりと解く。だが、フローラは両手で愛らしい顔を覆って首を横に振り続けるばかりだ。
「いい加減にして、お姉さま! あなたがいると……不安で少しも眠れないの! はやく……早くどこかへ行ってよ!」
今にも泣き出しそうな声に、ずきりと胸が痛む。私が彼女に与えてしまっている心労は、とてもじゃないが計り知れない。
……フローラ、私が不安にさせてしまっているのね。
私の抱える事情を話せないだけに、ぐっと言葉につまる。彼女と相対するときは、いつでももどかしい気持ちを抱えてばかりだ。
フローラのそばには、彼女の影のようによりそう侍女の姿があった。侍女はフローラの肩を支えながらも、睨むようにこちらを見据えている。もちろん、私に向けられた視線だった。
「フローラ……本当に、ごめんなさい。確かに私といると危ないわよね。……だからね、あなたとお父さまには安全な別邸へ避難してもらったほうがいいかもしれないと思っているの。私の件がなくても、今の王都は危険だわ」
王都を離れられない理由は、彼女には話せない。それをもどかしく思いながらも、なるべく穏やかに説得を試みた。
「どうして私たちが出ていかなくちゃいけないの? 出ていくならお姉さまのほうでしょう!」
耐えきれないと言わんばかりに金切声を上げ、フローラは怒りに満ちた目で私を射抜いた。
とてもじゃないが、実の姉に向ける視線ではない。彼女とって私は、もはや魔女でしかないのだと痛いほど思い知らされるようなまなざしだった。
「今すぐ出ていきなさいよ! あなたの顔なんて、もう見たくもないわ!」
肩で息をしながら叫んだかと思えば、フローラはふらりと姿勢を崩し、壁に手をついた。侍女が慌てて彼女を支える。
「フローラ、もうそのくらいにしなさい」
廊下の奥から、静かな声が重く響く。ゆったりとした足音とともに、こつこつと杖をつく音が聞こえた。
「ジゼル、リアン、怪我はなかったかい?」
廊下の先から姿を表したのは、お父さまだった。きっと、割れた窓ガラスのすぐそばに私たちがいたと報告を受けたのだろう。不自由な足を引きずって様子を見にきてくださったのだ。
「お父さま……私たちは無事です」
小さく礼をしてから受け答えれば、お父さまは静かに一度だけ頷いた。
「フローラも、気分がすぐれないようだね。そろそろ部屋に戻りなさい」
お父さまは侍女に支えられたフローラを一瞥し、彼女を気遣う言葉をかけた。私に向ける視線も、フローラにかける言葉も平等に優しい。お父さまはいつだって分け隔てなく私たちを愛してくださっていた。
「……今すぐ出ていきなさいよ、妖花の魔女」
捨て台詞を残して、フローラは侍女に連れられて部屋に戻っていった。慰めるように、お義兄さまの手が私の肩を抱く。
割れたガラスが、私たちとお父さまの間を隔てていた。
「……お騒がせしてしまってお恥ずかしいです」
「気にすることはないよ、ジゼル。リアンがいたとはいえ、怖い思いをしただろう」
お父さまは、こつりと杖をつきながら、ぎりぎり日陰になっている場所まで足を進める。一呼吸分の沈黙の後に、落ち着いた声で話し始めた。
「フローラの言っていることを真に受ける必要はないが……私も、お前は別邸に映るべきだと思うよ。ここは危ない。そう遠くないうちに、きっとお前は傷つけられてしまう」
「お父さま……だからこそ、お父さまとフローラが移動するべきです。叶うなら、お義兄さまも……」
言葉にはしてみたものの、お義兄さまがお父さまとフローラとともに行くとは考えづらかった。私を溺愛するお義兄さまのことだから、私を一人にするような真似はしないだろう。
「ジゼル、お前は少々自分を犠牲にしすぎだ。そのせいで、お前を大切に思う人たちがかえって苦しんでいると気づくべきだ。……もちろん、いちばん辛いのはお前だろうがな」
「お父さま……! 犠牲だなんて思っておりません。これは私が自分で選んだ道ですもの」
それはもちろん、フローラと決定的に仲違いしてしまったのは悲しい。
でも、どれだけ考えたってやっぱり後悔はないのだ。自分で選んで、自分の足で進み続けた道だから。
魔女の烙印を押されようと、国中から嫌われようと、私はこれでいい。これがいい。
「お前は妙に頑固なところがある。……ソフィアに似たかな」
お父さまは懐かしむようにはにかんで、慈愛に満ちた瞳で私を眺めた。ソフィアとは、私の亡きお母さまの名前だ。
「リアン……手筈通りに進めてくれ」
「わかりました、父上」
なんとなく不穏な空気を感じ、お義兄様の方を振り返ろうとしたそのとき、背後からお義兄さまの手に口もとを押さえられてしまう。
……お義兄さま!?
驚きのあまり一瞬体が動かなかったが、すぐに我に返る。咄嗟に身じろぎして、なんとか逃れようと試みた。しかし、抵抗も虚しく、もう片方の手がすでに私の胴体にまとわりついている。
……しかも、ずいぶん強引な手段だわ。
口もとを押さえられると同時に、甘ったるい飴のようなものを口の中に入れられてしまった。ただのお菓子のはずがないが、ゆっくりと溶けていくそれを吐き出そうにも、お義兄さまの手に口を押さえられているせいで叶わなかった。
「ごめんね、ジゼル。危ないものじゃないよ。君の騎士に少し分けてもらったんだ」
耳もとで囁かれる声に、はっとする。そういえばレアは神殿秘伝の怪しげな薬を王女に盛っていたこともあったっけ。悔しさと諦めから、苦笑とも自嘲ともとれる妙な笑いが込み上げた。
……やってくれたわね、レア。
「まだお前を、ソフィアのもとへいかせるわけにはいかないんだ。……わかってくれ」
お父さまは申し訳なさそうに眉を顰め、それでいながらも強い意志のこもった瞳で私を射抜いた。きっとずいぶん前から、お義兄さまと口裏を合わせて私を半ば強引に別邸に移送するつもりだったのだろう。
言い返したくても、お義兄さまの手を振り解けずくぐもった声が溢れるだけだ。
やがて体が脱力し始め、虚しい抵抗すらも叶わなくなり始める。
「頼んだぞ、リアン。……それに、アルフレート君も、騎士殿もな」
「ジゼルのことはお任せください。……あなたがたもどうかご無事で」
「不自由はさせません。私がいますからね」
薄れゆく意識の中で、大切な二人の声を聞いた。がくりとお義兄さまの腕にもたれかかれば、されるがままに抱き抱えられる。背後でアルフレートが何やら文句を言う声が聞こえた気がしたが、それを最後に私は深い夢の中に落ちていった。
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