第三章 聖女殺しの魔術師
第1話 君という未練
「いいか、お前は聖女を殺すために生まれてきたんだ」
物心がついてから、何度言い聞かせられた言葉だろう。名前なんてものは最初からないから、皮肉にも僕にとってはいちばん親しみのある言葉だったかもしれない。
「聖女を亡き者にしたとき、初めてお前は生きていることを許される」
許されたら、どうなるのだろう。このくだらない生に何か意味でも生まれるのだろうか。
今すぐ死んだってなんの悔いもないけれど、流されるようにしてただ彼らの命令に従っていた。僕と同じ目をした「魔術師」たちの中で生きていれば、それが当たり前のことだった。
髪の色を変え、瞳の色を変え、心の在り方までも矯正され、本当の自分の姿なんてとうに見失ったころ、僕は君に出会ってしまった。
ジゼル。
いつ死んだって構わないと思っていた僕の人生に、君という未練ができてしまった。愛しさというものを、君に出会って初めて知った。
……なんて皮肉な話だろう。
君を殺すことこそが、僕が生まれてきた意味なのに。
◇
「レア……私、やっぱり着替える」
「いけません。せっかくこんなに可愛らしいのに」
日差しの眩しい夏の日の昼下がり、私は自分の屋敷の中だというのに身を縮こまらせて歩いていた。それもこれも、レアに着せられたこのドレスのせいだ。
『ジゼルは、本当はどんな色の服が好きなのですか?』
レアから誓いを受けて数日が経ったある日のこと、突然そのように問いかけられた。私が考えるよりも先に、同席していたアルフレートとお義兄さまが口を開く。
『ジゼルは空色のドレスが好きなはずだ』
『ジゼルには薄紫も似合いそうだね』
三人の視線が集中するのを感じて、私もおずおずと口を開いた。
『そうね……空色は特別好きだけれど、黒以外のドレスにはなんでも憧れているわ』
正直な気持ちを述べただけだったのだが、この何気ない言葉が三人を動かしてしまった。三人それぞれが、私のためにドレスを用意してくれたのだ。
そして今、その試着会が始まってしまったわけなのだ。妖花の魔女は黒以外の服を纏ってはいけないという決まりがある以上、屋敷の者に着替えを頼むわけにもいかないので、こうしてレアが着替えさせてくれている。普段剣を握っているレアの硬い手は、想像以上に器用に動いた。
完璧な着付けを施され、アルフレートとお義兄さまにお披露目する段階になったのだが、ここにきてなんだか恥ずかしくなってしまった。普段は黒いドレスを無理矢理着せられているという気持ちでいたけれど、何にも染まらないあの強い色に私は守られていたのかもしれない。
そんな私の葛藤を知ってか知らずか、レアは二人の待つ続き部屋へつながる扉をためらいもなく開いた。そのままエスコートするように私に手を差し出す。
「さあ、ジゼル。こちらへ」
ここまできたら引き返すわけにもいかない。意を決して、レアの長い指先に自らの指を重ねた。軽く握り込まれ、眩い夏の日差しが差す部屋の中へと誘導される。
こつり、と靴音を響かせながらゆっくりと歩を進める。軽やかな素材のドレスが、ふわりと背後に靡くのを感じた。
ソファーに座るアルフレートとお義兄さまの前まで来て、レアがどこか仰々しく告げる。
「王国ファーロスの宝、聖女ジゼルさまのお出ましです」
相変わらず硬い声だったが、レアがこの状況を楽しんでいるのが伝わってくる。レアはお堅く見えるが、意外にも冗談好きの気さくな少女だった。
レアの言葉に便乗するようにして、私もドレスの裾をつまんで礼をする。ちょっとでも身じろぎをするたびに、ふわふわと、まるで浮かぶように軽やかな生地が揺れた。
「……ごきげんよう、アルフレート、お義兄さま」
はにかむように小さく微笑んで、二人の様子を伺う。私が今纏っているのは、聖女の衣装にもよく似た、真っ白なドレスだった。華美な装飾はなく、清楚なレースがところどころにあしらわれているだけだ。
これは、レアが用意したものだった。彼女は満足げに私を眺め、新緑の瞳を柔らかく細めた。
「ジゼルのあまりの美しさに、男性陣は言葉もないと見えますね」
「レア、あんまりからかわないでちょうだい」
頬を熱くして反論する。白なんて、私に似合うはずもないのに。
それでも二人の反応が気になってちらりと様子を盗み見れば、アルフレートと目があってしまった。くちづけを交わして以来、なんとなく恥ずかしくて彼の顔を正面から見られなくなっている。
「……お前が聖女として表に立たなくてよかった。危うく、お前に心酔する目障りな野郎が王国に溢れかえるところだったな」
「大袈裟だし、口が悪いわ、アルフレート」
「すこしも大袈裟じゃない。それくらいよく似合っている」
アルフレートは金色の瞳を細め、真っ直ぐに褒めてくれた。それだけで、途端に着てよかったと思えるのだから、私も大概単純だ。
「悔しいけど、僕もアルフレートと同意見だ。……君が黒しか纏えない妖花の魔女でよかった」
「もう、お義兄さままで……」
てっきりからかわれたものと思い、くすりと笑ってお義兄さまを見やれば、予想外に真剣な表情を浮かべるお義兄さまがそこにいた。
お義兄さまはこのところ、そういう表情で私を見ていることが多い。
それに、アルフレートやレアと仲良くなってからというもの、なんだかお義兄さまとのあいだに見えない壁があるように感じるのだ。私に優しいことに変わりはないけれど、まるで一歩引いたところから見守っているように思えてならない。
晴れてアルフレートと恋人になろうとも、レアという友人を得ようとも、私にとってお義兄さまは大切なお義兄さまのままなのに。
……私の、考えすぎだといいけれど。
お義兄さまに微笑みかければ、すぐに慈しむような笑みが返ってくる。先ほど浮かべた神妙な面持ちは見間違いだったのではないかと思えてくるほど穏やかな笑みだ。お義兄さまらしい笑みに、ほっと安心する私がいた。お義兄さまはああやって笑ってくれているほうがいい。
「さあ、ソファーで休みましょうか。私が持ってきた焼き菓子でも食べましょう」
「ええ」
レアにエスコートされ、アルフレートの隣に腰を下ろす。
ふわりと広がるドレスの袖や裾を押さえ込んでいると、アルフレートの指が不意にうなじに伸ばされた。今はレアに髪を結い上げてもらっているから、直に彼の指が肌に触れてしまう。
くすぐったい感触に身をこわばらせていると、アルフレートが口もとを綻ばせて私を見た。
「そうやって髪を上げるのもいいな」
「そうでしょう。私が結い上げたんですよ」
お義兄さまの隣に座ったレアが得意げに言い放つ。アルフレートはくすりと笑いながら、レアに視線を移した。
「嫌味なくらいなんでもできるやつだ」
「私を褒めるとは珍しい。ジゼルの愛らしい姿を見たからか、よほど機嫌がいいのですね。これからはあなたの扱いに困ったら、ジゼルを着飾らせることにします」
大真面目に言うレアがなんだかおかしくて、くすくすと笑ってしまった。アルフレートに触れられて緊張していた体の力が抜ける。
「それは確かに効果的な機嫌の取り方だ」
アルフレートはそっと私を引き寄せると、頭にくちづけた。妖花の魔女を虐げる演技をやめた彼は、お義兄さま顔負けの甘さを漂わせている。あいにく、私はまだこんなにもたくさん触れ合うことに慣れていない。
「見せつけてくれるなあ。ずいぶん仲睦まじい恋人たちだ」
お義兄さまにそう言われるとなんだか恥ずかしい。頬に僅かにかかった髪を耳にかけながら、軽く俯いてはにかんだ。
「まあ、お前に対する牽制もあるからな」
アルフレートがレアの持ってきてくれたクッキーに手を伸ばしながら笑う。金の瞳が、一瞬だけ鋭くなったような気がした。
「ご心配なく。ジゼルの幸せが僕の幸せだ。ジゼルが君を愛している限り、君たちがうまくいってくれること以上にいいことなんてないよ」
おそらく、それはお義兄さまの本心なのだろう。お義兄さまは昔から、私の笑顔だけを願ってくれる人だった。
「ありがとう、お義兄さま」
そっとアルフレートの手を握りながら、お義兄さまに微笑みかける。お義兄さまは安心したようにふっと表情を緩めて、一度だけ頷いた。
それから、穏やかなお茶の時間が始まった。意外に口数の多いレアがアルフレートをからかって、私もつられて笑う。お義兄さまは柔らかく微笑んで静かに私たちを見守っていた。
紛れもなく、幸せな時間だった。四人集まるととても賑やかだ。それぞれと二人きりでいるときとはまた違う、格別の楽しさがあった。
……アルフレートやお義兄さまたちと、こんな風に過ごせるなんて。
幸せを噛み締めるように、一人ひとりの顔を見やる。こんな日々が、いつまでも続けばいい。
「そういえば、フローラの薬草の件だが」
空のクッキーの皿を見つめて、アルフレートがふいに思い出したように切り出した。
「ベルテ侯爵領の港から出ている貿易船で、ひょっとすると秘密裏に入手できるようになるかもしれない。王家が輸入しているようにいちどにたくさんというわけにはいかないが……フローラの治療には十分使えるはずだ」
「秘密裏に、って……」
王家には、王都王女を筆頭に恐ろしい人たちが大勢いる。もしも王家にばれてしまったら、ベルテ侯爵家は無事では済まされないだろう。
「心配いらない。実は薬草の種はすでに入手したんだ。……不本意だが、育てるのはアディ卿に一任している。神殿の庭より安全な場所はないからな」
「誓いのときに大口を叩いておきながら、結局ベルテ侯爵令息に頼ることになってしまいましたね」
レアは苦笑混じりに告げると、姿勢を正して私を見据えた。
「お預かりした薬草の種は、神殿の研究の一環と称して、神殿の温室に植えることに成功しました。温度管理がかなり難しいようなのでうまくいくかはわかりませんが……もしも栽培できるようになれば、妹君だけでなく同じ病に苦しむ人々を救う結果にもつながるかもしれません」
ふたりとも、私の知らないところですでに動き出してくれていたのだ。私がフローラの薬草を取引材料に不当な境遇を受け入れていることを知って、それを改善しようとしてくれている。その誠実さに、胸を打たれた。
……でもそれはきっと、危ない橋を渡ることになるのよね。
「ありがとう、ふたりとも。とても心強いわ。でも……どうか無理はしないでね。王家からはフローラの治療に必要なぶんはちゃんと受け取っているし、当分心配はいらないのだもの」
四人で過ごす幸福が崩れてしまうくらいなら、私は妖花の魔女の烙印を受け入れたままでいい。フローラのことは確かに気がかりだけれど、同じくらい彼らにも傷ついてほしくないのだ。
「僕もジゼルと同意見だ。……ジゼルが聖女であることは、僕らだけが知っていればいい。君たちが危険な目に遭えば、ジゼルは深く悲しむだろう?」
お義兄さまが私の気持ちを代弁してくれる。お義兄さまに同調するように深く頷けば、アルフレートは苦笑を浮かべてソファーの背もたれに寄りかかった。
「まあ、俺としては聖女だろうが魔女だろうがジゼルはジゼルだから、今のままでも別にいいんだが……お前は妙にジゼルを聖女として公表するのを嫌がるよな」
アルフレートの金の瞳が、まっすぐにお義兄さまを捉えた。お義兄さまは狼狽えることなく、張り付いたような笑みを浮かべる。
「そりゃあね。聖女になんかなったら、可愛い妹を独り占めできる時間が減るだろう? 君だってジゼルと二人きりで過ごす機会が減るんだから他人事じゃないよ」
「それでも俺は、ジゼルが聖女として表に立ちたいと言うのなら、ジゼルの希望を叶えるために全力を尽くすけどな」
「立派だね。僕にはとても真似できない」
私とお揃いの薄紫の瞳に僅かな翳りが差す。お義兄さまがそんなふうに表情を曇らせることは珍しい。
……お義兄さまには、私が聖女だと不都合な事情が何かおありなのね。
私と過ごす時間が減ることを懸念しているのは嘘ではないのだろうが、それがすべてではない気がする。はっきりと見えていると思っていたお義兄さまの姿がまたすこし、霞んだような気がした。
「お義兄さま……もし、何か困っていらっしゃるのなら言ってくださいね。私にできることなら、なんでもしますから」
テーブル越しにお義兄さまに訴えかければ、一瞬だけ、薄紫の瞳が泣き出しそうに歪んだ。きっとアルフレートやレアにはわからないくらいの些細な変化だっただろう。
「ありがとう、ジゼル。……ありがとう」
繰り返される感謝の言葉は、どこか切実だった。きっと、お義兄さまだけが安寧の外にいるのだろう。
……もっと私を頼ってくださればいいのに、お義兄さま。
お義兄さまを案ずる気持ちは膨らんだまま、四人のお茶会は幕を閉じた。
「聖女」が襲われた報せが王国中を駆け巡ったのは、その数日後のことだった。
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