第10話 贖罪とくちづけ
やがて、お義兄さまとレアは私の部屋から出ていった。アルフレートは未だ体質の気配を見せないので、ほんのすこし迷った末に彼の隣に腰を下ろす。
アルフレートと夜にふたりきりというのは、なんだか緊張した。
ちらりと彼の様子を盗み見れば、彼はテーブルの上に生けられた一輪の水仙を見つめているようだった。聖歌を歌った際に纏っていた青白い光はもうほとんど消えている。目を凝らせば、きらきらと光のかけらが見える程度だった。
アルフレートにもらったこの水仙は、丁寧に世話をしているものの、数日経ってしまったせいか花びらの端が萎れ始めている。仕方のないこととはいえ、残念に思っていた。
「……あの日、フローラには花束を渡せたのか?」
私のほうを見向きもせず、彼は足を組んだままに問いかけてきた。
「え? ええ……結局、あの子の侍女に託したわ。……直接お話しするのは難しいわね」
苦笑いを浮かべ、軽く俯く。屋敷に戻るなり下ろした銀の髪が頬にかかった。
「ひょっとしたら、あいつも、俺と同じで――……」
彼は言葉に詰まったように押し黙ると、やがて小さく息をついた。
「いや、やめておこう。憶測でものを言ってお前を失望させたくない」
「ふふ……ふたりきりのときのあなたは、とても優しいわ」
「言っただろう、本当はこんなふうに接したかったと」
聖女であることが見破られてしまったことには戸惑ったけれど、結果的に、こうして彼の本意を知ることができたのだ。レアという友だちもできたことも踏まえれば、正体を明らかにして得たものの方が大きい気がする。
「あなたはとっても演技派ね。……私、あなたは本当に残酷なひとになってしまったのだと思っていたわ。私が怯えた表情を見せたときに、瞳に愉悦がまじるんですもの」
「あれは……初めは演技だったんだが、だんだん本気になってたな」
「え……?」
予想外の一言に、目を丸くしてしまう。アルフレートはどこか自嘲気味な笑みを浮かべて、ソファーの背もたれに寄りかかった。
「時が経つにつれ、お前が笑わなくなって……泣きもしなくなって、心の動きがまるでわからなくなってしまった。そのせいか……怯えた表情でも、憎悪でも、ジゼルの感情に触れられるなら嬉しかった」
金の瞳が、横目でゆっくりと私を捉えた。知らない熱のこもった眼差しに、ますますたじろいでしまう。
……なにそれ。そんなに、私の心に触れたかったの?
「ひ、ひどいわ……あなたの演技のせいで、心を閉ざしていた面もあったのに」
婚約を続けるための演技とはいえ、彼の言動に傷ついていた過去の自分を思えば、納得いっていない部分もあった。
拗ねるように顔を背ければ、さらりと髪が肩を滑り落ちる。黒いドレスのレース生地に銀と月影が散っていた。
「ああ、自分でも救いようがないなって思ってる」
笑うような声とともに、ふいに頬に手が伸ばされた。指先が慈しむように髪を掻きわけ、頬にかかっていた髪の束を耳にかけられる。顕になった耳朶が、妙に熱い気がしてならなかった。
「でも、ジゼルは笑っているほうがずっといい」
「……泣いたり怯えたりする顔を見ても、もう喜ばない?」
「それは……断言できない」
「最低」
吐息のこぼれる音を聞いて、アルフレートが小さく笑ったのがわかった。
「ああ、俺は最低な男だ」
いつのまにか、ふたりの距離は吐息が触れるほどに近づいていた。おずおずと彼の方へ顔を向け、至近距離で見つめあえば、金の瞳にすっと真剣な色がまじる。
「ジゼルはこんなに苦しんでいるのに……今でも俺は、お前が聖女だろうが魔女だろうがどうでもいいと思っている。ジゼルがそばにいてくれるなら、真実がなんであれ関係ない」
「……ずいぶん熱烈な言葉ね」
戸惑いを顕にするようにはにかめば、彼は優美にゆったりと微笑んだ。金の瞳の奥には、怪しげな光が揺らめいている。
「これはお前に向ける感情のほんのひとかけらに過ぎない。……お前に理不尽を押し付けた王女に復讐したければ、俺が代わりにやり遂げよう。輝かしい部分はアディ卿に任せて、お前の負の感情は俺が処理してやる」
「そ、そんなこと望まないわ。あなたがそんなことする必要ない」
「そうか? 贖罪の一環だ」
「贖罪……」
確かに、正直にいえばアルフレートに対する感情はまだ整理が追いついていない部分もある。彼は私たちの婚約関係を守ろうとしてくれていたとはいえ、まったく恨みがないといえば嘘になるのかもしれない。
そして彼からしてみれば、幼馴染に冷たく接してきた罪悪感があるのだろう。こんなふうにまっすぐに感情をぶつけてくるのも、今まで演技をしてきた反動なのかもしれない。
……でも、いくらなんでも直球すぎよ!
感情をまっすぐに伝えてくることも、復讐の申し出も、何もかもが直球すぎる。先ほどから私の心臓は早まったまま、落ちつく気配を見せないのだ。
……私ばかり動揺させられてずるいわ。
膝の上に乗せた手に力を込め、決意する。そのまますっとアルフレートを見上げた。
金の瞳と目が合うなり、ほんのすこしの憎らしさと、ふわりとした愛しさに襲われた。これは、幼いころは知らなかった感情だ。
「……じゃあ、遠慮なく、罪滅ぼししてもらうわ」
「わかった。すぐにでも――」
彼の言葉を奪うように、彼の唇に自らの唇を重ねる。金色の瞳が、この上なく大きく見開かれた。
触れるだけのくちづけは、ほんの数秒間のものだった。それなのに、身体じゅうの熱が顔に集まったのではないかと思うくらい、頬が火照っている。
「……これであなたの罪は贖われたわ。だから、王女に復讐するなんて、怖いことはもう――」
今度は、私が言葉を奪われる番だった。強い力で引き寄せられたかと思うと、ぴたりと唇が重なる。先ほどとは違って次第に深くなるくちづけに、じわりと涙がにじんだ。
この涙が拒絶の意志でないことくらい、彼にはわかっているようだ。僅かに唇を離していたずらっぽく笑ったかと思うと、再びくちづけが再開する。私も抗うことなく、彼の腕の中に閉じ込められていた。
息が苦しくなって、抱き合ったまま見つめあう。くすくすと笑いあえば、心の奥が温かなもので満たされた。
「ふふ、くちづけってすてきだわ。もっとして、アルフレート」
「おねだり上手な聖女さまだ」
笑いあって、再び唇を重ねる。幼馴染としての友情が、身を焦がすような恋として鮮やかに芽吹いていくのを感じた。
◇
「こんなところまでありがとうございます。メルエーレ伯爵令息」
アディ伯爵邸のそばまできたところで、私は彼と向き合った。
ジゼルの兄だという彼は、ジゼルと同じ銀の髪と薄紫の瞳を持っているものの、顔立ちはあまり似ていない。ジゼルと離れた途端に、優しげな微笑みは愛想笑いにがらりと変わってしまった。彼にとってジゼルだけが特別らしい。
「いいんだ。聖騎士とはいえ、レディをひとりで帰すわけにはいかないからね」
真夜中の、生ぬるい風が吹き抜けていく。屋敷のそばにある木々がざわざわと揺れていた。
「……ジゼルと、友だちになってくれてありがとう。あの子は寂しい子だから、これからも仲良くしてくれると嬉しい」
ジゼルについて口にすると、彼の表情は途端に柔らかくなる。よほど、妹を愛しているのだろう。
「もとより、聖女には長くお仕えするつもりでおります。それを別にしても……私にとってジゼルは好ましいです」
私にしてみれば、初めての友だちだった。私の周りにはいつでも神殿の関係者がいるが、彼らは私を神官長の娘として扱うばかりで、心を通わせられるような相手には出会ったことがない。
でも、ジゼルとはそれができそうな気がする。聖騎士として、聖女のまとう空気感に惹かれているのもあるのだろうが、彼女とはもっと仲良くなれるように思うのだ。
「それを聞けて安心したよ。……アルフレートとも仲直りできたみたいだし、もう何も心配いらないな」
彼は淡く微笑んで銀の光が瞬く夜空を見上げた。生ぬるい風が彼の髪や衣服をゆらゆらと揺らして、どうしてか夜風がそのまま彼を連れ去ってしまいそうに見える。それくらい、彼は儚げで、消えてしまいそうな雰囲気があった。
彼はジゼルを寂しい子だと言ったが、私からしてみれば彼のほうがずっと寂しそうだ。
「……今後とも、すぐそばでジゼルを見守ればよろしいでしょう。私はまだジゼルを詳しく知りませんが、あなたがいなくなればきっと悲しみますよ」
多少、踏み入った発言をしてしまっただろうか。独特な雰囲気を醸し出す彼を前に、聖騎士らしくもなく深入りしてしまった。
メルエーレ伯爵令息はゆっくりと私に視線を移すと、意味ありげに口もとを歪めた。ちょっとした仕草が、いちいち絵になる人だ。
「聖騎士って、人の心も読めたりするのかな? それとも君は神官長のご令嬢だから、特別な力をもっているんだろうか」
「聖女じゃあるまいし、私にそんな力はありませんよ」
冗談めかして――もっとも、冗談を言ったところでほとんどの人は真に受けてしまうのだが――わずかに頬を緩めれば、彼もまた静かに微笑んで、空を見ていた。
「……彼女を聖女として公表しないことに同意してくれたこと、とても感謝してる。ありがとう、アディ卿」
「別にそれはいいのですが、あなたにとっては妹君が聖女として公表されたほうが誇らしいのでは?」
聖女を輩出した家門は、本来であれば王家の次と言っても過言ではないほど尊重され、皆が躍起になって縁を結びたがるほどの影響力を持つのが普通だ。何をするにしたって、有利になることは間違いないのに。
だが、彼は迷いもせずに即答した。
「そんなことはない。彼女が聖女であることは、僕だけが知っていればよかった。……ほら、聖女って目立つし、危ない立場だからね」
やっぱり彼は寂しげに笑ったが、言葉の最後に引っかかりを覚える。
……危ない立場、か。
聖女はこの国でもっとも厳重に守られるべき存在だ。今までも、聖女が狙われた事件なんて存在しない。敬虔なメル教の信者であれば、聖女を害そうなんてまず思わないはずだった。
「さっきの聖騎士の誓い、信じているよ。もしもジゼルを裏切ったら……」
最後まで言わずに、彼は意味ありげに微笑んだ。ジゼルと同じ色の薄紫の瞳に、不穏な光が宿る。寒いわけでもないのに、なぜかぞわりと皮膚が粟立つ。
「……ご心配なく。聖騎士の誓いは絶対です」
「ならよかった。聖騎士さまは高潔らしいから、無用な心配だったかな」
彼は何事もなかったかのような愛想笑いに切り替えると、あっさりと踵を返した。
「それじゃあ、僕はこの辺で。今夜はありがとう、アディ卿」
「……はい。またお会いしましょう」
胸に手を当てて令息を見送るも、寒気はいつまでも引かなかった。
今夜はすこし、疲れたのかもしれない。本物の聖女を見つけて、聖騎士の誓いまでしたのだから、非日常的な出来事が多すぎる。屋敷に戻って、ゆっくり休もう。
ざあ、と風が吹き抜ける。なんとはなしに振り返って、令息の後ろ姿を見送ろうとしたが、そこにはもう影ひとつ残されていなかった。
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