第9話 聖女の嘆願

 燭台の灯りと、ぼんやりとした月影が照らす私の部屋の中、私はアルフレートとともにソファーに並んで座っていた。今は、遅れて到着したアディ卿をお義兄さまが迎えに行っているところだ。


 お義兄さまにはまだ詳しくお話ししていないが、私が聖女であることが知られてしまった、ということだけはお伝えしている。震えながら告白したとき、お義兄さまはただ黙って私を抱きしめてくれた。


 ……これから、どうなるのかしら。もしアディ卿が王女にこのことを報告してしまったら、フローラの薬は……。


 不安が募り、膝の上で重ねた手に力がこもる。指先は小刻みに震えていた。落ち着こうと思っても、ぐるぐると同じことを考えてばかりだ。


「ジゼル」


 アルフレートの手が、手の甲に重なった。まるで、震えを収めようとしてくれているかのような優しい手つきだ。


「俺にお前のすべての事情はわからないが……大丈夫だ。ジゼルが望まない展開にはさせない。何がなんでも止めてやる」


「アルフレート……」


 彼の手は、昔からこんなに力強かっただろうか。重なった手から伝わる温もりは、身を焦がすように熱かった。


 限界まで早まっていた鼓動が、少し落ち着くのがわかった。昔から変わらない。アルフレートが大丈夫といえば、大丈夫な気がするのだ。


 おずおずと頷いて彼の顔を見つめれば、金の瞳がわずかに細められた。言葉もなく視線を交わし合っているうちに、私室の扉がノックされる。お義兄さまがアディ卿をつれてきたのだろう。


「お入りになって」


「失礼します、ジゼル嬢」


 お義兄さまとともに、アディ卿が入室してくる。夜の薄暗さの中で、彼女の白い制服はぼんやりと浮かび上がるかのようだ。


「どうぞ……」


 テーブルを挟んだ向かい側のソファーをすすめれば、アディ卿はきっちりとした姿勢を保ったまま着席した。座っている姿も騎士らしい。


 お義兄さまもその隣に腰を下ろすと、小さく息をついて口を開く。


「先にこちらから質問させてもらうけど、そもそも君たちはどうして巡礼の森に? 王女以外は立ち入り禁止のはずだろう」


「俺は礼拝の帰りに王女に声をかけられて、渋々宴に参加していた。アディ卿は俺の護衛だし、王女もこいつを気に入っているようだから一緒に向かったんだ」


 アルフレートの言葉に続くように、アディ卿が口を開く。


「私はもともと父から王女を探るように命を受けておりましたので、これは良い機会だと思い、王女の葡萄酒に我が伯爵家秘伝の――なんといえばいいかな……少々判断力が鈍る薬をまぜておきました。立ち入りが禁じられている森に入って、王女の代わりに聖花を咲かせる人間を探さねばなりませんでしたので」


 彼女は仮にも王族に薬をもったことを淡々と告白した。お義兄さまは眉をひそめてアディ卿を見据える。


「僕だって王女のことは好きではないが……処刑されてもおかしくない大罪だ」


「平気です。いざとなったら神殿が守ってくれるので」


「神殿とアディ伯爵家は敵に回したくないな……」


 アルフレートがぽつりとつぶやいた。アディ卿は彼の嘆きなど意に介さないとでもいうふうに、涼やかに微笑んで私を見つめる。


「それに薬をもったおかげで、人目を避けて王女とともに森の中に入ることに成功し、ジゼル嬢にお会いすることができたのですから。後悔はありません」


 にこりと微笑まれ、私もぎこちない笑みを返した。彼女の言い分では「聖女」と会えたことを喜んでいる笑みだというが、私もアルフレートと同じ気持ちだ。魔女狩りを楽しんでいる聖騎士にしか見えない。


「君たちのことはだいたいわかったよ。それで……ジゼルの正体を知ってしまった今、君たちはどうするつもりなのかな?」


 私がいちばん気にかかっていることを、お義兄さまは早速切り出してくれた。お義兄さまも一見落ち着いて見えるが、いつもより気を張り詰めているのがわかる。


「その前に、なぜジゼル嬢が聖女であるにも関わらず王女が聖女として公表されたのか……なぜジゼル嬢が聖女と正反対の妖花の魔女の烙印を押されることになったのか……その経緯を伺ってもよろしいですか? できれば、ジゼル嬢から直接」


 アディ卿はまっすぐに私を見据えていた。まるで品定めするかのような眼差しに、収まりかけていた緊張がふたたびぶり返す。


「あ、あの……何から話せばいいか……」


 黒いドレスのレース生地をぎゅうと握り締めれば、横から大きな手が重なった。そのままくすぐるように手の甲を撫でられ、そっと手を握られる。


「アルフレート……」


「ゆっくりでいい。最初から全部話してくれ。つらいことは……無理しなくてもいいが」


「できれば、私はすべてお聞きしたいのですが」


「お前な……」


 淡々と口を挟んだアディ卿を、アルフレートが睨みつける。もっとも、鋭い視線を向けられたところで、彼女がたじろぐはずもないのだが。


「大丈夫よ、アルフレート。すべて……すべてお話しします。これから話すことは、王家と私の父、そしてお義兄さましか知らないことです」


 腹を決めて、三人を見つめる。いちどだけ深呼吸をしたあとに、私は聖女の力を発現してから今までの六年間を告白した。


 


 それから、どれくらい話し続けただろう。時々言葉に詰まりながらも、初めて王女と対面したときのこと、フローラの薬を王家に握られていること、妖花の魔女と呼ばれるようになった経緯を、順を追って話した。王女の代わりに定期的に聖花を咲かせていることは、お義兄さまが補足してくれた。


 歌い終え、ふう、と一息つけば、部屋の中に重苦しい沈黙が訪れた。アルフレートもアディ卿も、すっかり黙り込んでしまっている。


 落ち着かなく視線を彷徨わせれば、向かい側に座るお義兄さまと目があった。ここで、私がふたりを説得しなければ、フローラの薬を守ることはできない。


「アルフレート……アディ卿、勝手なお願いだとわかっているけれど、私の正体は黙っておいてほしいの。これ以上、フローラやお父さまが傷つけられるのは耐えられない……。お願いよ」


 指を組んで、懇願する。特に、アディ卿がどんな反応をするのかまるでわからなかった。


 アルフレートは迷うそぶりもなく、すぐに口を開いた。


「俺はもちろん誰にも言うつもりはない。……ジゼルが理不尽を受け入れているのは気に食わないけどな」


「アルフレート……わかってくれてありがとう」


 ほっと胸を撫で下ろす。アルフレートならばわかってくれると信じていた。


 彼の理解が得られたとなれば、視線は自然とアディ卿に集中する。皆が、彼女の言葉を待っていた。やがて彼女は相変わらず感情の読めない表情で切り出す。


「私とて、メルエーレ伯爵家の皆さんを危険に晒すような真似はしたくありませんので、いきなりあなたが聖女だと公にするつもりはありませんよ。でも――」


 アディ卿の新緑の瞳に、怒りにも似た鋭い光が差す。


「ジゼル嬢は、妖花の魔女の烙印を押されたままでいいのですか。街を歩くだけで石を投げられるような、不遇な立場を押し付けられているのに」


「石を……? ジゼル、聞いてないよ」


 この間向日葵を買いに行って怪我をしたことは、お義兄さまには黙っていた。言えば、彼はひどく心配するとわかっていたからだ。


「ごめんなさい……お義兄さま」


 しゅんと肩を落とせば、アディ卿は構わず淡々と続けた。


「私はただ、もしも聖花を咲かせているのが王女でないのならば、その人をお守りするようにと命じられているだけです。公表せよという命は受けていない」


「それなら……どうか誰にも言わないでくださらないかしら……」


 お願いします、とアディ卿に頭を下げる。今のところ、表面上は平穏が訪れているのだ。私が聖女であると公表するために下手に動いて、薬の代わりに別のものを人質に取られても困る。


 眼裏に、あの日、目の前で足を折られたお父さまの姿がありありと蘇る。骨が折れるあの不快な音も、お父さまの悲鳴も、少しも色褪せることはない。思い出すだけで小刻みに肩が震えていた。


「顔をお上げください、ジゼル嬢」


「えっ」


 いつのまにか、アディ卿が私の前に跪いていた。真剣な新緑の瞳で見上げられて、びくりと肩が震える。


「大丈夫です、ジゼル嬢が望まないことはいたしません。あなたが王女の影で聖花を咲かせることを受け入れているのなら、私が無理やり意志をねじ曲げるのもおかしな話でしょう」


「アディ卿……」


「でも、そばで守らせてください。そして、あなたが受け入れた理不尽をひとつずつ、解消させてください。……ひとまず私は、神殿で妹君の治療に使う薬草を手に入れられないか動いてみます。あなたを縛る枷がひとつ消えれば、心持ちも変わるかもしれませんから」


 騎士らしい高潔な申し出に、胸を打たれる。アディ卿は冷たく見えるけれど、まっすぐで清廉なひとだった。


「ありがとう、アディ卿。本当にありがとう……」


 心を込めて感謝の気持ちを伝えれば、アディ卿はほんのわずかに口もとをほころばせた。笑うと年相応の少女に見える。


「……聖騎士の誓いを聖女に捧げてもよろしいでしょうか」


「誓い?」


「そう難しいことはありません。私があなたの手にくちづけて、受け入れてくださる意思があるのなら、聖歌を歌っていただけませんか。……屋敷の周りに聖花が咲いても困るので、囁くような小声で結構です」


「わ、わかったわ」


 緊張しながら立ち上がれば、アディ卿は跪いたまま恭しく私の手を取った。お義兄さまとアルフレートの視線を痛いほどに感じる。


「……聖女ジゼルさま。聖騎士レア・アディの命を賭けて御身と御心をお守りすると誓います。あなたが正しい光の下にあればあなたの盾に、もしもあなたが妖花に蝕まれたときには、あなたを終わらせる剣として役目を果たしましょう」


 ……妖花に、蝕まれたとき?


 意味を反芻するようにアディ卿を見つめれば、彼女はくすりと笑って告げた。


「妖花を咲かせた最初の魔女は、聖女の成れの果てとも言い伝えられておりますから、その伝承を引用した文言です。あなたが悪の道に走ったときには、私が全力でお止めいたします、という意味になります」


「そういうことなのね。とても大切な役目だわ……」


 なんとも高潔な聖騎士らしい。納得したことを示すように頷けば、アディ卿は睫毛を伏せて、そっと私の手の甲にくちづけを落とした。相手は同世代の少女とはいえ、こんなふうに扱われたことは初めてだから妙に緊張する。

 

「あなたの誓いを受け入れます、アディ卿」


 彼女に告げるなり、深く息を吸って聖歌を歌う。巡礼の森で歌うときのような大きな声は出さず、囁くようにひっそりと。これくらいならば、廊下にも聞こえないくらいだろう。


 歌に反応して、ソファー前のテーブルの上に生けられていた水仙が白く光り出した。花びら自体が黄色いせいか、陽だまりのような温もりを帯びている。アルフレートの瞳によく似た色だ。


「これが……聖花」


 アルフレートとアディ卿の視線が、光り輝く水仙に釘づけになっていた。歌声自体はとても小さなものだったのに、水仙のまとう光は薄暗い部屋を照らし出すように明るい。


「たいしたものですね。囁くような歌声でここまでとは……。あなたの力は歴代の聖女の中でも強いのかもしれません」


「そうなの?」


 アディ卿の言葉に目を丸くすれば、彼女は私の指先をぎゅっと握って微笑んだ。


「いままでも、こうして王国のために歌ってくださっていたのですね。神殿を代表して、感謝申し上げます、ジゼルさま」


「そんな高尚な理由からじゃないわ……。フローラとお父さまのためだもの。個人的な理由よ。アディ卿のほうがよっぽど信心深い立派な聖騎士さまだわ」


 照れたように微笑み返せば、アディ卿がすっと立ち上がった。女性なのでアルフレートやお義兄さまほどとは言わないが、彼女の方がずっと背が高い。踵の高い靴を履いても彼女と並べないだろう。


「それでもあなたはご立派です。それから、私のことはレアとお呼びください」


「わかったわ。じゃあ、私のこともジゼルと呼んでね、レア」


 握手をするように彼女の手を握り返す。これは、友だちとしての握手のつもりだ。


 応えるように、レアの手にも力がこもる。剣を嗜んでいるだけあって、華奢な手のひらながらもところどころ皮膚が硬くなっていた。


「ふふ、騎士さまってすてきね。強くて、精錬で、令嬢たちが憧れる理由がよくわかったわ」


 レアは、妖花の魔女の烙印を押されてから初めての女の子の友だちだ。嬉しくて、繋いだ手を離しがたくなってしまう。


 だが、レアからするりと手を解かれ、残念に思いながら彼女を見上げると、レアはからかうような眼差しでアルフレートを見ていた。


「そんなに睨まなくても、ジゼルをとったりしませんよ。狭量な婚約者は嫌われるのでは?」


「……そんな心配はしていない」


「素直じゃないですね。まあ、捻くれさせてしまった原因は我々聖騎士の監視の目のせいかと思えば、ほんの少しは罪悪感も覚えますが」


「わかってるならついてくるなよな……」


 ちょっとした言い争いを始めるふたりが楽しそうで、思わずくすくすと笑ってしまう。意外にもアルフレートとレアは仲良くなれそうだ。


 そんな私たちを、お義兄さまは慈しむように見ていた。その優しい眼差しは大好きだけれど、まるで一歩引いたところからひっそりと見守るような様子に、ほんのすこし寂しさも覚える。


 声をかけようとした矢先、お義兄さまはすっと立ち上がり微笑みながら告げた。


「さて、夜も遅いし今日はここまでにしよう。アディ卿、送っていくよ」


「そうですね、そろそろベルテ侯爵令息とジゼルをふたりきりにさせてあげましょう」


 レアはお義兄さまのそばに歩み寄ってから、思い出したように私に告げた。


「ジゼル、聞いていたかもしれませんが、彼の冷たい態度はすべて我々聖騎士の監視の目を欺くための演技なので、悪く思わないでやってください」


 先ほどふたりの会話を聞いていたから察している。こくりと頷けば、お義兄さまが私に小さく微笑みかけた。


「よかったね、ジゼル」


 お義兄さまは、私がアルフレートに抱いている想いを察しているのだろう。それをいざ言葉に出されると恥ずかしくて、顔を熱くしながら軽く視線を伏せて頷いた。

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