第8話 聖騎士の密命
それから数日後。夕食を終えたころ、私は屋敷を抜け出して巡礼の森に向かっていた。宵闇は、黒を纏った私の姿を景色に溶かしてくれるから移動が楽だ。
もう何百回と通い続けた道を抜けて、森の中を突き進めば、すぐに王女との待ち合わせ場所である泉に辿り着いた。待ち合わせ時刻より早くても遅くても叱られるため、ぴったりに姿を現さなければならない。
泉には、白い花々が咲いていた。私が歌を歌えば、これらが煌めきだすのだろう。水面には星空も映り込んでいて、花と銀の瞬きの美しさをひとところで堪能できるすてきな場所だった。
木々のざわめきに耳を澄ませれば、幻想的な世界をひとりきりで旅しているような心地になる。とても気分がいい。
……お義兄さまや、アルフレートもここに連れてくることができたら、もっと美しく見えるはずだわ。
もっとも、その願いは叶いそうにもないけれど。お義兄さまにはこの絶景を言葉で伝えることはできるかもしれないが、アルフレートに至っては私がここに来ていることすら知られてはいけないのだから、教えられるはずもなかった。
ざあ、と風が吹いて、水面や花々を揺らす。思わず歌い出したくなるような神秘的な空気感だったが、王女がくる前に歌うわけにもいかない。懐中時計を確認すれば待ち合わせの時間はとうに過ぎていたが、ここでならいくらでも待つことができる。
泉を覗き込みながら、懐中時計を片手に王女を待ち続けた。遅れることは今までもあったが、王に言われているのか、来なかったことはいちどもないのだ。
帰ったらお義兄さまと一緒に本を読む約束をしているので、あんまり遅くなるのは嫌なのだが、来ないものは仕方がない。泉の淵にしゃがみ込んで、王女がくるのをじっと待つ。
やがて、遠くの方でがさがさと物音がし始める。ようやく王女がきたのだろう。その場にすっと立ち上がって、心の準備を整えた。
だが、近づいてくる足音は一人だけのものではなかった。何なら、話し声らしき音まで聞こえる気がする。
……王女以外に、誰かいるの?
それは非常にまずい。妖花の魔女とされる私がここにいるなんて、どうやっても説明がつかない。
だが、森から抜け出そうにも足音はすぐそばまで迫っていた。ここから逃げるのは現実的ではないだろう。
……隠れなくちゃ。
泉の近くにそびえたつ大樹に駆け寄って、木の根の間にしゃがみこむ。五人で輪になっても囲みきれないほどのその大樹は、私一人の体などいとも簡単に隠してくれた。それでも念には念を押して、なるべく体を縮こまらせ、息を押し殺すように両手を口元に当てる。
いったい、誰がこの神聖な森の中に来たのだろう。王女が供を引き連れてきたのだろうか。それとも、まったく関係ない迷い人たちだろうか。
だが、静まり返った森に響いたその声に、はっと身をこわばらせた。
「聖女さま、お待ちを……祈りの歌は日を改めた方がよろしいのでは……?」
……アルフレート……?
どうして、彼がここに。森のそばにある神殿へ祈りにくることはあるだろうが、森の中へ立ち入るなんていくら貴族令息でも許されないはずだった。
「いいのよー、別に。歌うのは私じゃないもの……」
ふわふわとした王女の声が響く。様子がおかしい。まさか、酔っているのだろうか。
……それに「歌うのは私じゃない」なんて、とんだ問題発言だわ!
アルフレートが聞き流してくれることを祈ったが、その願いは別の声によっていとも簡単に打ち破られてしまう。
「では、どなたが歌っているんです」
……アディ卿までここにいるの?
一気に絶望感が増した気がした。アルフレートがいるのだから、彼の護衛にあたっているアディ卿がいたっておかしくはないのだが、彼女はどうも意味深な行動をするから厄介だ。ある意味、誰よりもここにいて欲しくなかった人かもしれない。
「んー……その辺にいるんじゃないの……」
王女は今にも眠ってしまいそうな声を出している。今までもお酒を飲んでここにくることはあったが、ここまで泥酔することはなかったのに。
「アディ卿……どうにか王女を連れ帰ろう。こんな様子では祈りも何もないだろう」
「いいえ、ここからが真の目的です。……本当は誰が聖花を咲かせているのか暴かなくては」
どくん、と心臓が跳ね上がる。アディ卿は、王女が聖女ではないと疑っているのだろうか。
……どうして、王女は完璧だったはずよ。すくなくとも表向きには。
どくどくと、耳の奥で鼓動がうるさいほどに響いていた。じわりとこめかみに滲んだ汗が、数日前に負った傷口に染みる。気づけば肩が小刻みに震えていた。
「……聖騎士が聖女を疑うようなことを言うなんて。神官長である父君に報告すれば、神殿から追放されるのでは?」
「ご心配なく。その父の命令で動いておりますので」
まもなくして、すうすうと安らかな寝息が聞こえてきた。王女が寝入ってしまったのだろう。
「……お前、王女に何か盛ったな? 処刑も厭わぬ覚悟か」
「仕方ありません。本物の聖女探しのためですから。……この姫からは聖花の気配をまったく感じない。神官たちは欺けているようですが……数百年前から神殿を治めているアディ伯爵家を甘く見てもらっては困ります」
アディ伯爵家。初代の聖女を保護した歴史を持つ、メル教の中では最も権力を持つと言われる一族だ。聖女を輩出したことも何度もある。神官長の座も代々彼らのものだった。
アディの姓をもつ神官は大勢いるため、アディ卿の名を知ったときも特別驚かなかったが、まさか、神官長の令嬢だったなんて。
「あなたもうすうす気づいていたのでしょう。ベルテ侯爵令息」
アディ卿は珍しく笑うように言った。氷のような声に笑みがにじむと、ぞっとするほど綺麗だ。
「……聖女がだれだろうが、俺にとってはそこまで重要じゃない」
「確かに、あなたにとって大切なのは彼女だけなのかもしれませんね。……見事でしたよ、さも妖花の魔女を忌み嫌っているように振る舞って、王女や事情を知らぬ聖騎士たちの目を欺く姿は」
ざりざり、と泉のそばの地面を踏み締める音がする。足音の軽さからしてアディ卿が歩いているらしかった。
「『聖女』さまは妖花の魔女が虐げられている様を見るのがお好きですからね。あなたが妖花の魔女に親切にしようものなら、たちまち婚約を破棄されて、彼女は彼女を虐げるために用意された男と婚約させられてしまうでしょう。あなたはそれを見越して、わざと冷酷に接していたんですね? 見張り役の聖騎士を欺くために」
「……そこまでわかっているなら王女にはうまく取り繕え」
「ご心配なく。お察しの通り、私はもともと罪を犯していない妖花の魔女には理解のある聖騎士なので。ジゼルの正体がなんであろうと、王女には虚偽の報告をするつもりでしたよ。『妖花の魔女は婚約者に虐げられて心身ともに衰弱している』とね。でも、まあ……」
ざり、と足音が大樹のすぐ裏で響く。いつのまにそんなに近くに来ていたのだろう。
「この先のことは、直接相談したほうがよいでしょう。ねえ――」
ざあ、と大樹が葉を揺らす。それと同時に、霧のような青鈍色の髪が視界に飛び込んできた。
「――妖花の魔女――いいえ、ジゼル嬢」
影を落とすように、アディ卿が私の前に立ちはだかった。その後ろからアルフレートも顔を覗かせる。
「……ジゼル?」
アルフレートの金の瞳が、衝撃を覚えたかのように見開かれる。私だって同じ気持ちだ。
そんな私たちの動揺など気にも留めていないアディ卿は、青鈍色の髪を靡かせて、にこりと涼しげに微笑んだ。逃がさないとでも言わんばかりの気迫を感じる。
「よい夜ですね。この森には、お散歩に来たんですか? 伯爵家の令嬢がおひとりで?」
「あ……私、あの……」
まずい。どうあっても言い逃れできる気がしない。言葉に迷っているうちに、アディ卿が大樹の幹に手をついて私を追い詰めるように笑った。
「――王女の代わりに聖花を咲かせているのは、あなたですね? ジゼル嬢」
「――っ、それ、は……」
……おしまいだわ。見破られてしまった。
目覚めた王女がこのことを知ったら、どうなるだろう。取り繕えなかった罰として、フローラの薬は燃やされてしまうのだろうか。
……それは、駄目。あの薬がなきゃ、フローラは死んでしまうのに。
衝撃と不安から、気づけばぽろぽろと涙が溢れ出していた。殺していた息が、震えるように吐き出される。
「ジゼル!」
アルフレートがアディ卿を突き飛ばすように私の前を陣取ると、そのままぎゅっと抱きしめてくれた。お義兄さま以外に抱きしめられるのは初めてのことだ。
「大丈夫だ。驚かせて悪かった。いや、俺も驚いているんだが……絶対お前の悪いようにはしないから、とりあえず泣くなよ」
アルフレートがぎこちない手つきで私の後頭部を撫でる。その仕草があまりにも優しくて、ぽろぽろと泣きじゃくりながら思わず彼の肩に縋りついた。
「アディ卿……覚えてろよ。よくもジゼルを泣かせたな」
「私としては、聖女に会えた喜びを全身で表現しているつもりだったのですが……」
「あの笑みが? 魔女狩りを楽しんでる狂信者みたいな顔だったぞ」
「ひどいことを言いますね」
二人が言い争う声の間に、すうすうと王女の寝息が聞こえてくる。何もかもが異常事態で、思わず思考を放棄したくなった。
それはアルフレートも同じだったようで、深い溜息をつくと、私に自分の上着を巻き付けてひょいと抱き上げてしまった。
「あ、アルフレート……」
「いいから掴まっていろ。……お前はあの姫をどうにかしてこい。話はそれからだ」
後半の言葉は、アディ卿に向けられたものらしかった。彼女は新緑の瞳を細めて騎士らしく胸に手を当てる。すらりと長い指で紡がれる仕草は優美だった。
「それなら場所を改めましょう。ジゼル嬢のお屋敷にお邪魔してもいいですか?」
「驚くほど図々しい奴だなお前は……」
「いいわ……私も、お話ししたいから……」
聖女であるとばれてしまったことについては、もうどうすることもできない。こうなったらどうにかアディ卿とアルフレートを説得して、私の正体を黙っていてもらうしかないのだ。
涙に滲んだ瞳のまま、まっすぐにアディ卿を見つめれば、彼女はやっぱり涼やかに笑って見せた。
「ありがとうございます。姫を送り届けたら、すぐにお邪魔いたしますね。聖女さま」
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