第7話 聖女の肖像画
「それで? なんでお前は従者もつけずに街を歩いていたんだ? 侍女はどうした」
馬車に乗り込むなり、向かいあうように座った彼からの叱責が始まった。私の隣にはアディ卿が姿勢正しく座っている。隙のない佇まいをしているが、こちらの会話に入ってくる気はないようだ。
「フローラが熱を出してしまったから、お見舞いの向日葵を買いに行こうと思ったの。市場はすぐそこだし、みんな忙しそうだったから……」
血のこびりついた手巾を握りしめ、言葉を濁せば、再び深い溜息をつかれてしまった。どうやら私に呆れているらしい。
「……フローラとはもう仲良くないんだろう。お前が無理をして花を買いに行く必要があるのか」
「叶うなら……また仲良くなれたら嬉しいわ。とても、難しいことだと思うけれど……」
アルフレートは何か言いたげに私を見ていたが、やがて馬車の壁を叩いて御者を呼び寄せた。扉を開けて恭しく礼をする御者に、彼は淡々と言い放つ。
「花が売っている場所まで移動してくれ」
「かしこまりました」
扉が閉まるなり、思わずアルフレートを見つめてしまう。彼は、私の目的を叶えてくれるつもりなのだろうか。
彼の視線は逸らされたままで、気だるげに見える横顔からはやっぱりうまく感情を読み取れない。
「アルフレート……どこかへ行く途中だったんじゃ……」
「礼拝からの帰りだから特に用事はない」
「そう、なの……?」
では、彼の言葉に甘えてしまってもよいのだろうか。じんわりと胸が温かくなるような感覚に、自然と頬は緩んでいた。
「……ありがとう、アルフレート。とても助かるわ」
「っ……」
私の言葉にこちらを一瞥しかけたアルフレートだったが、またすぐに視線を逸らしてしまった。そのまま口もとを手で押さえるようにして、流れゆく窓の外の景色に集中してしまう。
このところは気まずく思っていた沈黙だったが、不思議と今は穏やかな心地よさを感じていた。くすぐったいような感覚に、またすこし頬が緩んでしまう。
微笑みながら手巾を握りしめていると、ふと隣から視線を感じた。顔を上げれば、アディ卿が何かを見定めるような目でじっとこちらを見ていた。
「あ……ごめんなさい、アディ卿の手巾なのに。洗ってお返しするわね」
「それは別に構いません。……あなたは笑うとずいぶん印象が変わりますね」
「そう、かしら?」
「はい。不思議な雰囲気をお持ちです。礼拝堂の神聖さによく似ている。……あなたは妖花の魔女なのに、変な話ですね」
アディ卿は普段僅かにも揺らがない新緑の瞳をほんの少しだけ細めた。表情としては何一つ変わっていないのに、ぐっと空気感が柔らかくなったような気がする。
……礼拝堂の雰囲気に似てる、ね。
アディ卿は思ったことをそのまま述べただけなのだろうが、聖女の正体を見破られるわけにはいかない私からしてみればあまりにもたちが悪い。
……聖騎士だからって、聖女の気配がわかるわけじゃないわよね……?
ぎこちない笑みを浮かべながら、誤魔化すように視線を逸らす。聖騎士には憧れていたが、彼女にはあまり深入りしないほうが得策かもしれない。
「ありがとう、アルフレート。ここまで送ってくれて」
市場で向日葵を買った後、私は伯爵邸の前でアルフレートと向き合っていた。彼のすぐそばには、やはりアディ卿の姿がある。
「別にいい。ただ、今後は一人で街中を出歩くなよ。傷の手当てはちゃんとしてもらえ」
「ええ、気をつけるわ」
「……向日葵のなかに別の花がまじっていたら、それはお前が飾るといい」
「え? ええ……」
唐突な申し出にぎこちなく頷けば、彼は私に背を向けて歩き出してしまった。アディ卿も私を一瞥したのちに彼の後を追う。――彼女の視線がどことなく意味ありげに見えたことが気にかかるけれど、気づいていないふりをした。
「ありがとう! アルフレート! アディ卿も!」
馬車に乗り込んだ二人に手を振って見送る。馬車の姿が見えなくなってから、向日葵の花束に視線を落とした。お店の人とのやりとりは彼がしてくれたから、花束をしっかり見たわけじゃないのだ。
「あら……?」
向日葵の濃い黄色にまじって、何やら薄い色の花がある。そっと取り出して観察してみれば、季節外れの黄色の水仙だった。
「ふふ、かわいい。アルフレートが入れてくれたのね」
この時期には珍しいから、一緒に買ってくれたのだろう。彼のささやかな親切が嬉しくて、水仙の花びらにそっとくちづけた。
◇
「ジゼル! どこへ行ってたんだい? 姿が見えないから心配したよ」
私室で水仙を生け、こめかみの傷を簡単に手当てした後、フローラの部屋へ向かう途中でばったりお義兄さまに会った。渡そうと思っていた向日葵の花束を抱え直し、小さく礼をする。
「お義兄さま、ごめんなさい。向日葵を買いに出かけてたんです」
「ひとりで? 危ないじゃないか……一声かけてくれたらついていったのに」
「お義兄さまはフローラの看病で忙しかったでしょう? それに、途中でアルフレートに会ったので、ひとりではありませんでした」
お義兄さまはまじまじと私の顔を見つめると、やがてふっと笑った。こめかみの傷は見えないように髪を下ろしているので、どうにか気付かれなかったようだ。
「いい表情をしている。彼と会って楽しかったんだね」
見てわかるほどに浮かれているのだろうか。たちまち恥ずかしくなって、軽く視線を伏せてしまった。鮮やかな向日葵の色を目に焼き付けながら、話題を誤魔化す。
「それより、この花束をフローラにあげてください。本当は侍女に託そうかと思ったのですが、お義兄さまから渡してもらったほうがフローラも喜びます。……私からとは、言わないでください」
「……君は本当に優しい子だね」
お義兄さまの薄紫の瞳が、すっと細められる。そのまま軽く引き寄せられ、ぽんぽんと頭を撫でられた。
「フローラはさっき眠ってしまったんだ。今なら誰が訪ねても気付かないだろうから、君さえよければ直接生けにいこう」
「……大丈夫かしら」
「大丈夫。フローラはいちど眠るとなかなか起きない」
確かに、フローラの容体を確認しておきたい気持ちはある。この三日間ずっと気がかりだったのだ。
「では、お言葉に甘えて」
お義兄さまはこくりと頷くと、私の手から花束を回収して、代わりに手を差し出してくれた。ちょっと移動する間も、お義兄さまはこうしてエスコートしてくださる。その紳士的な振る舞いが、私は昔から大好きだった。
フローラの私室は屋敷の最上階のもっとも日のあたりのいい場所にある。滅多に外に出ることのできない彼女が、すこしでも晴れやかに過ごせるように、とお父さまが決めたことだった。
私の部屋とは階も違うため、こちらに立ち寄るのは久しぶりのことだった。どことなく緊張した気持ちで、お義兄さまとともにフローラの部屋を目指す。
……苦しそうでないといいけれど。
せめて眠っている間くらいは、安らかであってほしい。三日も連続で熱に浮かされるなんてつらいに違いないのだから。
祈りと緊張で、思わずお義兄さまの腕に添えた手に力を込める。それに応えるように、お義兄さまは柔らかく微笑んでくださった。
「……さま、はやく、病から解放されますように」
フローラの部屋はもう目前というところで囁くような声が聞こえてきて、はたと足を止める。侍女が閉め忘れたのか、僅かに空いた扉の先に、寝台の上で指を組むフローラの姿が見えた。
……もう起きてしまったのね。
これでは直接花を生けることは難しいだろう。残念に思いながらお義兄さまに目配せをすれば、再び囁き声が聞こえてきた。
「はやく、薬の必要ない体になれますように」
祈るような声は、今度ははっきりと私の耳に届いた。フローラは指を組んだまま、寝台の枕元に飾られた肖像画を見上げている。
それは、聖女クラウディア姫の肖像だった。真っ白な聖女の装束を身にまとい、まるで女神のような慈愛のにじんだ笑みを見せている。姫の青の瞳と同じ青のリボンが装束とともに優雅に靡いていて、聖花を思わせる白く輝く花々が舞い踊るように描かれていた。王女に嫌悪感を抱いている私が見ても、神秘的で美しい絵画だ。
どうやら先ほどまでの祈りは、この肖像画を眺めながら捧げられていたものらしかった。
……フローラは、本当に聖女に憧れているのね。
枕元に聖女の肖像画を捧げるほど信心深い令嬢はなかなかいない。そんな彼女にとって私が妖花の魔女である事実は、私が考えているよりずっと耐えがたいことだったのだろう。
……それでも、私はこの道が正しかったと信じているわ。あなたの信仰より、命が大切だもの。
お義兄さまの手から離れ、くるりと踵を返せば、フローラの侍女がこちらに向かって歩いてくるところだった。いつもフローラのそばにぴたりと寄り添っている侍女だ。
彼女は私を睨むように一瞥すると、フローラの部屋の中へ入っていった。扉はきっちりと閉められて、もう中の様子を伺うことはできない。
閉じられた扉の向こう側から、侍女がフローラを気遣うような声が聞こえてくる。それを聞き流しながら、とぼとぼと自分の部屋に向かって歩き出した。向日葵は、お義兄さまに渡していただくしかない。
「……ジゼル」
背後からお義兄さまの手が伸びてきて、腕の中に閉じ込められる。向日葵の花束と一緒に、ぎゅっと抱きしめられた。
お義兄さまの優しい温もりに触れるなり、枯れたはずの涙が、訳もなく流れ出した。私の体の前に回されたお義兄さまの手の甲に、ぽたぽたと涙の粒が落ちていく。涙が彼の手に触れるたびに、一層強く抱きしめられた。
……いつになったら私は、フローラとの絆を諦められるのかしら。
向日葵の花びらが、ひらひらと一枚散っていく。吸い込まれるようにまたひとつ、涙が花びらの上にこぼれ落ちた。
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