第6話 向日葵と高潔
このところ、伯爵邸はどことなく騒がしかった。
それもこれも、フローラが熱を出したためだ。どうやら祝祭に出かけて疲れてしまったのが原因らしい。もう三日ほど床に臥している。
使用人たちは今日もお湯の準備や食事の準備に追われ、廊下を慌ただしく行き来していた。お父さまも、今はフローラの主治医と話し込んでいるようだ。
本当ならば私が姉としてフローラのそばに付き添うべきなのだろうが、彼女はそれを望んでいない。代わりに、お義兄さまがフローラの看病をしている。
……三日も熱を出すなんて、大丈夫かしら。薬が効けばいいけれど……。
ひとりきりで食事を終え、落ち着かない気持ちのまま庭に出る。きっちりと手入れされた花々が、初夏の風に揺れていた。
昔はよく、部屋から出られないフローラのために花を摘んでいったものだ。手入れのために刈り取られてしまった草花があるときには、お義兄さまとともに花冠を作ってフローラに贈ったものだっけ。
――ありがとう、おねえさま。わたし、お姫さまになったみたいだわ!
柔らかな白金の髪に色とりどりの花冠を載せて笑うフローラは、とても愛らしかった。私が姿を見せるだけで侍女たちに止められるほどにはしゃいでくれたものだ。
アルフレートが遊びにきていれば、彼も欠かさずフローラを見舞ってくれた。フローラの前でお義兄さまとなにやら言い合っては、フローラの部屋を賑やかにしていた。元気な彼らの姿を見てフローラは喜んでいたものだ。
――おねえさまやおにいさま方が遊びに来てくれて、わたし、毎日嬉しいわ。つらい思いをしている子もたくさんいるのに、わたしはとてもぜいたくね。
そう言って、寝台の上で指を組んだ彼女の姿は一生忘れられない。幼い頃から彼女はずっと、慎ましやかで敬虔な女神の信者だった。
……だからこそ余計に、実の姉が妖花の魔女だなんて耐え難いのかもしれないわね。
彼女の治療薬を守るためとはいえ、私の選択が彼女に精神的な負荷を与えてしまったことは確かだ。彼女が変わってしまったことを全面的に責めることはできない。
「フローラ……」
庭から彼女の私室を見上げ、複雑な想いを募らせる。早く、熱が下がるといいのだが。
……せめてお花を摘んで贈ろうかしら。私からとは言わないようお願いして、あの子の侍女に頼めばいいわ。
フローラには、懇意にしている侍女がいるようだった。灰色の髪をきっちりと纏めた真面目な印象の侍女で、私は名前も知らない。数年前からいつの間にか彼女のそばに寄り添うように仕えていた。
花を摘んだらその侍女に託せばいい。さっそく庭師に断りを入れようと辺りを見渡してから、はたと気づいた。
……あら、向日葵が咲いていないのね。
向日葵は、フローラがいちばん好きな花だ。昔はあったように記憶していたのだが、いつのまにか花の種類が変わってしまったらしい。
よく晴れた空を見上げて、すこしの間考え込む。誰かに向日葵を買ってきてもらうよう頼もうにも、使用人たちは皆忙しい。
……この際、思い切って市場に買いに出てみようかしら。
貴族の令嬢らしい用事なんて、妖花の魔女にはなかった。自由に過ごせる時間が多いことは、魔女の烙印を押されて受けた唯一の恩恵と言ってもいいかもしれない。
そうと決まれば、帽子をとって市場へ出かけよう。とびきり綺麗な向日葵を、フローラのために選びに行くのだ。
◇
夏の日差しの中を、真っ黒なドレスで歩くのは人目を引く。帽子も、手袋に至るまで黒だから、私の姿はさぞかし異質に見えているだろう。
「あれってもしかして……」
「妖花の魔女かしら、嫌だわ」
このあたりでは、私の存在は知られてしまっているようだ。黒い服を着た銀髪の少女というだけで、妖花の魔女と判断できてしまうのだろう。
冷ややかな反応はある程度覚悟して出てきたものの、実際に人の目に晒されると緊張した。どこへいっても、妖花の魔女が歓迎されていないのは明らかだ。
多くの人々で賑わう市場だというのに、私が近づけば自然と道が開かれる。あからさまに避けられているというのは、なかなかつらいものだった。
「やい、妖花の魔女め」
「お前なんか消えてしまえ!」
少年たちの罵声と共に、何かが飛んできて思わずぎゅっと目を瞑る。こめかみに鋭い痛みを感じ、生温かいものが頬を伝っていった。
げらげらと響く笑い声に、震えながら目を開けて見れば、ぽたぽたと赤い血が滴っていた。足元には血のついた石が転がっていて、石を投げつけられたのだと悟る。
妖花の魔女というだけで、こんな目に遭わされなければならないものなのだろうか。本物の妖花がどれほどの威力のあるものなのか知らないが、いちども人を死に至らしめたことがなくても、妖花を咲かせるというだけで忌み嫌われなければならないのか。
……咲かせる花が、聖花か妖花かの違いじゃない。
ぐっと指先を握りこんで、やり場のない悔しさに耐える。本当は私が聖女なのに、という怒りならばいっそ単純で良かったが、もっと表現しがたい、苛立ちにも似た不快感を覚えていた。それは心の奥底に、澱のように沈んでいく。
「……ジゼル!」
焦ったような声に顔を上げれば、黒髪の青年が血相を変えて駆け寄ってくるところだった。金色の瞳は、信じられないとでも言いたげに見開かれている。
「アルフレート……?」
いつの間にか、そばにはベルテ侯爵家の紋章が刻まれた馬車が停まっていた。その中から、アルフレートの後を追うように青鈍色の髪の騎士が降りてくる。アディ卿だ。
……私を見つけて、降りてきてくれたのかしら。
アルフレートは私の怪我を見るなりぐっと表情を暗くした。僅かに震える手がこちらへ伸ばされかけたが、何かを堪えるように握り込まれてしまう。
「……妖花の魔女が、こんな昼間に街に出るからだ。当然の報いだろう」
その言葉は驚くほど滑らかに紡がれたが、金の瞳は暗い葛藤を宿していた。
それは、今まで見ていた「残酷な婚約者」の表情となんら変わらぬはずなのに、不思議といまは少しも恐ろしく見えない。祝祭の夜に、不自然に冷たくなった彼の態度を目の当たりにしたからだろうか。
……その態度は、あなたの本意じゃないのだと、信じてみてもいいのかしら。
まっすぐにアルフレートの横顔を見つめる。こんなにも苦しげな金の瞳を、どうしていままで嗜虐的だと思い込んでいたのだろう。
彼に向き合おうとしなかったのは、本当は私のほうだったのかもしれない。私の味方はお義兄さまとお父さまだけだなんて、不幸に酔っていたようでいっそ恥ずかしくすら思えてくる。
「誰かと思えば妖花の魔女ですか。昼間から騒動を引き起こすなんて」
アディ卿がアルフレートのすこし後ろを陣取るなり、私に冷ややかな視線を向けた。夏の日差しの下でも、彼女はとても涼しげに見える。
「ごきげんよう、アディ卿。わざとではないから殺さないでくださると嬉しいわ」
「人を殺人鬼のように言わないでください。これでも聖女に仕える聖騎士なんですから」
アディ卿は僅かにも表情を変えずに言い切ると、騎士服から真っ白な手巾を取り出した。何をするのかと見守っていると、すっと目の前に差し出される。
何かと思い軽く首を傾げると、アディ卿はぴくりと眉を動かした。
「血が出ていますよ。拭わないのですか」
「……え? 私に貸してくださるの?」
あまりに驚きに目を見開けば、アディ卿は奇怪なものでも見るような目で私を見つめた。
「何かおかしいですか」
「いえ……あなたは場合によっては私を処刑すると言っていたから、親切にしてくださるのが意外で……」
「なぜ? あなたはまだ何も悪いことをしていないのでしょう」
「そう、だけれど……」
生きていること自体が罪だという人もいるくらいなのに、アディ卿が見せた予想外の寛容さに戸惑いを隠しきれない。
言葉に迷う私を見かねたのか、小さく息をついてアディ卿は続けた。
「あなたのことは、姫から危険人物だと伺っているので警戒しているだけです。妖花も咲かせず、慎ましく生きているなら、あなただって私の守るべき民だ。――もちろんあなたが悪の道に走れば、聖騎士として容赦はしませんが」
それだけ告げて、アディ卿は手に持っていた手巾で私のこめかみを拭ってくれた。真っ白な生地に血がつくのも厭わず、労わるような丁寧な仕草で。
「あ、ありがとう……」
……聖騎士さまって、とても高潔なのね。
思いもよらぬ相手からの親切に触れて、ばくばくと脈が早まっていた。アディ卿の心の動きはわかりづらいが、彼女も私を忌み嫌っている、と思い込んで対応していた自分が恥ずかしく思えてくる。
「聖騎士殿にそんなことはさせられないな。貸してくれ」
アルフレートはさりげなくアディ卿から手巾を受け取ると、そっと私のこめかみに押し当てた。同時に、深い溜息が降ってくる。
「アルフレート……私、自分でできるわ」
アルフレートに触れられているという喜びと、彼の手を煩わせてしまっている申し訳なさが同時に込み上げてくる。
「傷口を押さえるのが嫌なんじゃない。……それに、婚約者が他の人間にときめいているのを目の当たりにして黙っているわけにはいかない」
「と、ときめいてなんか……」
アディ卿の高潔さには胸を打たれたが、アルフレートが触れてくれている今のほうがずっとどきどきしているのに。
「とりあえず、馬車に移るぞ。ここは人の目がありすぎる」
「ええ……ありがとう」
アルフレートは庇うように私の肩を抱くと、そのまま歩き出した。そのすぐ後ろを規則ただしい足音がついてくる。
「……このぶんならもうすこし自由に動けそうだな」
ぽつり、とアルフレートは独り言のように呟いたかと思うと、どことなく嬉しそうに私を見下ろした。
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